澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

NHKのど自慢in台湾

2011年10月30日 23時48分17秒 | 台湾

 昨日(10月29日)、日本と台湾で同時に「NHKのど自慢in台湾」というTV番組が放送された。土曜日の夜という時間帯だったので、見逃した人が多いかも知れない。
 NHKはこの番組の事前PRに熱心で、番組表を見る限りでは、3分間くらいに編集されたPR映像を4~5回は流したようだ。

 「媚中」報道で知られるNHKが、何故いま、台湾にこだわるのか。まず考えられるのが、台湾人が「東日本大震災」に対して230億円もの支援金を送ってくれたことだ。この金額は、一人あたりの金額で比較すると、中国人の500倍にもなる。中国や韓国がおざなりの「同情」を示したのに対し、台湾からの支援は、物心ともに温かいものだった。多くのマスメディアは、中国に「遠慮」して、台湾からの支援を報道しなかったが、人の耳を塞ぐことはできない。いつのまにか、台湾からの支援は、広く日本中に知れ渡っていった。講談社の女性月刊誌「FRAU」が「ありがとう 台湾!」特集(8月号)を組んだのも、そのひとつの表れだった。



 「NHKのど自慢in台湾」をつぶさに見ると、台湾人がいかに日本に関心を持っているかよく分かる。関心といっても、正確に言えば、温かい眼差しと言うべきだろう。
 84歳の台湾人女性が古い日本の歌を歌った。正確な日本語の発音で、歌い終わったあとの会話も日本人と何ら遜色はなかった。この老人に対して、司会者であるNHKのアナウンサーは、「お上手な日本語ですね」とさらりと言っただけ。だが、考えてみれば、この人は外国語として日本語を学んだのではない。日本統治時代の台湾で日本語教育を受けた世代なのだ。視聴者に対して「台湾は50年間日本だった」という史実を何故、きちんと伝えないのかもどかしく思ったのは、私だけなのか? 

 上述の「東日本大震災」への支援については、NHKアナウンサーは、自らはっきりと事実を述べることなく、のど自慢参加者の日本人女性二人組に「ありがとう 台湾」と語らせたにとどまった。やはり「中国筋」の目を気にしているのだろうかと思った。
 幕間には、タイヤル族の小学校「金岳(きんたけ)小学校舞踊隊」による民族舞踊が披露された。トロピカルな雰囲気を漂わせる素朴な踊りを見て、「ああ、台湾は台湾なんだ」と感じた人も多かったはず。のど自慢の参加者には、アミ族の兄妹もいたので、さらにその思いを強めた。

 「NHKのど自慢」がブラジルやカリフォルニアの日系人相手に開催されたことはあったのだろうが、このように現地の人が大勢参加して開かれるのは前代未聞だろう。台湾は、まさに世界一の「親日国」なのだ。
 一方、中国はいま、台湾の日本語世代がいなくなる日を心待ちしている。台湾併合への道をさらに拓こうとしているのだ。台湾人がいまなお「親日的」である理由はただひとつ。日本語世代である祖父母が、孫達に”日本はいい””日本時代はよかった”と語り継いだからだという。蒋介石政権は、日本語使用を禁止するなど反日教育を進めたが、中国共産党のように個々の人間を「洗脳」し「思想改造」することまでは出来なかった。それ故、李登輝氏が登場し、台湾が民主化された20年前から、それまで潜在していた「親日感情」が一気に噴出したのだ。

 「NHKのど自慢in台湾」は、図らずも「台湾は中国の一部ではない」ことを十分に視聴者に伝えたのではないか。NHKのアナウンサーは、「ひとつの中国論」に加担して、台北が「中華民国の首都」であることさえ言わず、「台湾の台北」と言っただけだったが、視聴者はそんな姑息さを飛び越して、「台湾は台湾だ」と感じたのではないだろうか。


NHKは「アジアの”一等国”」(2009.4.5放送)で
日本と台湾の”絆”を断ち切ろうと試みた。
   


 


  

 


エドムンド・ロスが死去 

2011年10月26日 11時39分20秒 | 音楽・映画

 10月21日、英国のバンド・リーダー、エドムンド・ロスがスペインで死去していたことが報じられた。享年100,大往生と言えるだろう。
 ロスは、ベネズエラ生まれ。クラシック音楽の打楽器奏者として活躍したあと、1940年代に英国でラテン音楽を始める。※
 戦前戦後を通じて、英国におけるラテン音楽の第一人者だった。
 日本でもレコードを通して人気が高く、1960年代後期には「日本軍歌集」というアルバムもリリースした。
 これでまた、ラテンやムード音楽も遠くなっていく…。

※ 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9

Musician Edmundo Ros dies aged 100

The Trinidadian musician who brought Latin-American music to Britain and had an extensive recording career has died aged 100.

Edmundo Ros has died age 100
Edmundo Ros has died age 100 Photo: Getty

Ros died peacefully in his adopted home of Spain on Friday night.

Born in Port of Spain, Trinidad, in 1910, Ros lived in Venezuela from 1927 to 1937, where he played in the Venezuelan Military Academy Band and was a tympanist in the Venezuelan Symphony Orchestra.

He moved to London in 1937 and received a government scholarship to study for five years at the Royal Academy of Music in London.

In 1940, he formed his own five-piece rumba band, performing at London’s most popular clubs and restaurants, including the Bagatelle restaurant, frequented by high society and the Royal Family.

Ros went on to own a the Coconut Grove club on Regent Street, a dance school, a record company and an artist’s agency, while his band grew and was renamed Edmondo Ros and his Orchestra.

During the 1950s and 1960s the Ros orchestra appeared frequently on BBC Radio, making hundreds of recordings and selling millions of records.

He retired in 1975 and moved to Alicante in Spain, with his wife, Susan, where has lived since.

In the 2000 New Year’s Honours List, Ros, aged 90, was appointed OBE.

John Adrian, of the showbusiness charity Grand Order of Water Rats, said: "He was a major figure, his discography is massive. He was the one who really popularised Latin American music in this country."

A statement from Ros’s family, read: "Edmondo Ros died peacefully during the night on October 21, two months short of his 101st birthday. His is sadly missed by his wife, Susan, son Douglas and daughter-in-law Shirley, his daughter Luisa and grandchildren Douglas junior and Johnathan. (corr sp) He is also missed by his sister Eleanor and families in Trinidad and Antigua."

情熱のラテン・ムード~エドムンド・ロス・ベスト・セレクション
エドムンド・ロス
USMジャパン

「北朝鮮に消えた歌声~永田絃次郎の生涯」を読む

2011年10月20日 17時47分52秒 | 

 喜多由浩著「北朝鮮に消えた歌声~永田絃次郎の生涯」(新潮社 2011年)を読む。

 昨年、韓国で刊行された「親日人名辞典」に金永吉(1909-1985)という名前が載っているという。韓国で「親日派」というレッテルを貼られることは、今なお社会的な「死」を意味するほど重大なことだ。本人が死んでもなお、その一族は「親日派」という汚名を着せられて生きなければならない。これが二十一世紀の出来事とは思えないが、事実なのだ。

 韓国でブログを開設している韓国人から、最近、次のようなメールを受け取った。この人は、韓国の「反日教育」は間違っていると主張している希有の人だ。

「韓国は日本に感謝しなければならない。
しかし、学校で強力な反日教育を受けます。
私は日本が嫌いでした。私は子供の時に日本人は悪魔だと思っていました。
しかしあるとき、その教育が間違いだと分かりました。
教科書に書いてあるのが根拠のない嘘だと分かりました。
私はショックで少し精神的に不安定になりました。
何を信じていいのか分からなくなって、誰も何も信じることができなかったでした。

韓国の教育は間違っています。
しかし、幼いころから、学校で学んだことを否定し、
正反対のことを受け入れることは容易ではありません。
天動説を信じている人が、地動説を受け入れないのと同じです。
私はひとりでも多くの韓国人に、真実を知ってほしい。
間違っていることは天動説で、正しいことは地動説だと。

しかし、文字だけで理解してもらうのは困難です。
だから映像を探しています。

日本に韓日併合時代の映像はありますか?」

 話が脱線したが、上述の金永吉という人物は、日本名が永田絃次郎※。陸軍軍楽隊出身のテノール歌手だった。陸軍軍楽隊の後輩には、團 伊玖磨、芥川也寸志もいた。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E7%B5%83%E6%AC%A1%E9%83%8E

 永田絃次郎は、日本人として敗戦を迎える。だが、戦後の混乱期に現在の朝鮮総連との関係を深め、1960年、「帰国事業」で一家六人とも北朝鮮に渡る。帰国後、4年間ほどは、華々しい「活躍」が伝えられたが、その後消息不明となる。消息が明らかになったのはつい最近で、1985年、肺結核で死去していたことが明らかにされた。これは、ある種の「名誉回復」だと理解されているようだ。

 北朝鮮では「帰国者」として異端視され、韓国では「民族の歌切り者=親日派」と目される。そして日本では、とっくに忘れ去られた存在。これほど数奇な運命を辿った音楽家は極めて稀だろう。

 著者は次のように記す。
『1909年に生を受けた金永吉少年にとって、”物心がついたころ”には、すでに周囲は「日本」であった、ということだ。…戦前から戦中にかけて、永田は軍部に協力し、「内鮮一体」のスローガンや、朝鮮人志願兵を集めるための宣伝映画にも出演している。軍歌の吹き込みも極めて多い。それを理由に韓国では、いまだに「親日派」として糾弾されている。だが、日本語をよどみなく話し、何のコンプレックスも感じていなかった永田が、軍部に協力したのもまた、「ごく自然な感情」ではなかったか。当時の永田にとっては、まさしく「日本」が自分の国だったからである。」(pp.39-40)

 「日本」が祖国だと思っていたことを誰が責めることができるだろうか? いま、韓国が続けている「反日教育」には、歴史を直視せず、ないものねだりを言い募る幼児性を感じざるを得ない。
 永田絃次郎は、日本にいた方がずっと幸せだったに違いない。日本人だった奥さんの不幸は、考えるのも辛いほどだ。

 

北朝鮮に消えた歌声―永田絃次郎の生涯
喜多 由浩
新潮社

 

 

 


「格差是正デモが東京に波及」という大ウソ

2011年10月15日 21時09分52秒 | マスメディア

 きょう、東京の日比谷公園で「ニューヨークの格差是正デモ」に呼応したデモが行われた。
 TBS系列の報道によれば、このデモは在日外国人(白人)によってインターネットで呼びかけられたという。「自覚した市民」が「自発的に」「自由に」行動するというのが、TBSや「朝日」は大好きなのだが、このデモの参加者数を聴いて、私は驚愕した。TBSの報道では、参加者が50名。NHKの夜のニュースでも大々的に採り上げられたが、「100名が参加した」と報道された。「世界中に拡がる格差是正デモの輪」という見出しで、「ソウルでも台北でもデモ」と伝えた報道があったが、何と台北での参加者は20名だったという。

 1%が99%を支配する”弱肉強食”の国アメリカは、日本と全く事情が異なっている。それなのに、わずか50名の”物好き””目立ちたがり屋”が集まったデモを「市民の国際連帯」であるかのように報道する、この欺瞞は何なのだろう。

 尖閣事件のあと、東京の中国大使館を取り巻く「反中デモ」が起きて、最大2万人が参加した。ところが、TV各局も新聞も、「産経新聞」などの例外を除いて、ほとんどこのデモを黙殺した。マスメディアは、これが「右翼のデモ」だったので報道を差し控えたと言い訳した。だが、私の知人がこのときデモに参加していて、その模様をケータイで撮影してMIXIの「つぶやき」に掲載した。デモは整然と行われ、「右翼」のデモという印象は全くなかった。行進する「市民」の中には日の丸を掲げる者が多かったが、もし、その「日の丸」が「右翼デモ」の証拠だとでも言うのなら、一体、日本のマスメディアは、どこの国の報道機関なのかと問わざるを得ない。「格差是正デモ」のスローガンが、「Occupy Tokyo」(東京を占拠せよ!)という過激な言葉だったのだから、どちらがまともな「市民」なのか、改めて考えるべきだろうに。

 こう見てくると、日本のマスメディアのご都合主義が浮かび上がってくる。尖閣事件という未曾有の国家主権侵害行為に対するデモは一切報道せず、中国政府に媚びを売る。一方、ニューヨークの格差是正デモに”触発”された50名の”物好き”の東京デモを大々的に報道して、視聴者を扇動する。この違いは何かというと、前者を事実に基づき正確に報道したら、日本人の「愛国主義」「ナショナリズム」に火をつける可能性が高い。だから、「寝た子を起こさない」という理屈なのだ。後者は、面白半分で報道しても、もともと切迫感もない話なのだから、大した責任も問われない。要するに、我が身大事の保身報道なのだ。皇室、創価学会や朝鮮総連の問題は避けて通るといわれることと同根なのだ。

 日本のマスメディアがここまで堕落したのは、自らが「第四の権力」であるという自覚を欠いて、高給・好待遇に浸りきったマスメディア関係者に責任がある。何故、国益に直接関わる領土問題には正面から取り組まず、米国の「市民」デモなどに肩入れするのか。バカも休み休みやれと言っておく。 
   

 

NY格差是正デモ、東京に波及…六本木で

 

 米ニューヨークのウォール街から始まった貧困や格差に反対する若者たちの抗議行動が15日午後、東京でも行われた。

 この日、世界各都市で一斉に行動しようというインターネットの呼びかけに応じたもので、若者たちが六本木や日比谷で格差是正などを訴えた。

 約80人が集まった六本木では、若者の貧困問題に詳しい作家の雨宮処凛(かりん)さんが「貧乏人が声を上げることで社会が変わることをアピールしよう」と呼びかけると大きな拍手が湧き起こり、参加者は次々と「格差是正」などを訴えた。1%の人々に富が集中しているとして、「私たちは99%」と書いたプラカードも掲げられた。

 高級マンションが立ち並ぶ六本木での集会を呼びかけた神奈川県鎌倉市のフリージャーナリスト松元千枝さん(41)は、「富の象徴のような六本木で格差是正を訴えたかった」と話していた。

2011年10月15日13時29分  読売新聞)

台湾独立派から見た「辛亥革命100周年」

2011年10月11日 12時35分51秒 | 台湾

 林建良氏が主宰する「台湾の声」に「台湾で”シナ共和国(リパブリック・オブ・シナ)100周年”国慶節」という一文が掲載されている。
 台湾独立派が「辛亥革命100周年」をどう捉えているかよく分かる。
 いよいよ、来年の総統選挙が台湾の将来を決することも…。

 

【ニュース】台湾で「シナ共和国(リパブリック オフ シナ)100年」国慶節

 『台湾の声』より転載

 台湾で10月10日、100年前の辛亥革命によって建国されたシナ共和国「中華民国」の“建国100周年”祝賀式典が開かれた。

 式典で馬英九総統はシナ共和国「中華民国の存在は過去形ではなく、現在進行形だ」と述べ、「中華民国」が現在も続いていることを強調した。馬総統は、“国父”(孫文)の建国の理想は当時“大陸”(中国)では実施される機会がなかったが、それは台湾で実現したと語り、“大陸当局”に対して、“国父”の建国の理想である「自由、民主、均富」を忘れてはならないと呼びかけた。

 一方、来年1月の総統選挙で政権奪回を目指す野党・民進党の蔡英文主席は、台北の祝賀式典には出席せず、台南で開催された「中華民国」国旗掲揚式に出席した。蔡主席は、「(辛亥革命、シナ共和国「中華民国」建国100周年などの)歴史事件を記念するのはよいが、台湾の主権が損なわれてはならない」と述べ、国民党と中国が辛亥革命を語る際に「一つの中国」が強調されることに懸念を示した。

 蔡主席は9日に、「シナ共和国「中華民国」政府はすでに台湾の土地、人民と一体化している。今日のシナ共和国「中華民国」政府は、すなわち台湾の政府である」、「シナ共和国『中華民国』もしくは『台湾』、どのように呼ぼうが、いずれも台湾の政府である」との考えを表明しており、「中華民国=一つの中国」、「台湾は独立しない」と主張する馬総統が現実離れしていることを浮き立たせた。


辛亥革命100周年

2011年10月10日 04時59分41秒 | 中国

 今日は「辛亥革命100周年」の記念日。中華民国(台湾)の建国記念日(双十節)でもある。
 1911年(辛亥の年)のこの日、清朝の支配に抵抗する武力蜂起が起こった。これに大きな役割を果たしたのが、孫文。孫文は「三民主義」を唱えたことで知られるが、同時に「ひとつの中国」という虚構をふりかざした張本人でもある。
 
 大陸では「「ひとつの中国」を巡って、中国国民党と中国共産党の暗闘が繰りひろげられた。両者は相容れない二大勢力と考えられているが、清朝が遺した最大版図を「中国」だとして継承し、漢民族中心の「中華大国」を目指した点では、ほぼ一致している。

 皮肉なことに、「辛亥革命100年」は、本家である台北よりも北京で盛大に祝われた。


(北京・人民大会堂で開かれた「記念辛亥革命100周年」大会)

 この大会では、死亡説まで伝えれた江沢民が登場し、胡錦濤が「ひとつの中国は孫文の願いだった」と演説した。
 プロレタリア文化大革命などの動乱をリアルタイムで覚えている者にとっては、まさに夢(悪夢?)のような出来事だ。あの狂気の時代には「孫文」など一顧だにされなかった。「毛主席万歳!」以外のあらゆるものが禁じられ、知識や理性は悪とされ、無知であることが賞賛された。まさにこの時期に、現在の「大中華」「中華愛国主義」の土壌がはぐくまれたのだった。ウイグル、チベット、モンゴルなどの少数民族地域を漢民族の領域に組み込み、彼らを抑圧することで成り立つ、新たな「中華帝国」。孫文は、本当にこんな国家を目指したのだろうか?
 中共(=中国共産党)は、史実を都合よく歪め、歴史を簒奪する存在であることがよく分かる。
  
 
 意外にも、中国国民党(KMT)のニュースでは、辛亥革命について、極めて冷静に報道がなされている。
 日本のマスメディアは、「産経新聞」を除いては、台北の報道を無視しているが、私などは、このKMTのニュースの方が、ずっと客観的で真実を伝えていると思う。

 

辛亥革命100年を両岸が各自表明

 

ニュースソース:台北の各新聞

2011103

 

台湾海峡の両岸が辛亥革命100周年に直面して、それぞれ各種のイベントを計画している。しかし、同じように辛亥革命100周年を記念しながら、両岸のアピールの主軸は全く異なっている。台湾は201211日に中華民国建国100周年を「慶祝」する。また辛亥革命を中華民国創建に導いたとして1010日を国慶節にして慶祝している。中国は辛亥革命100周年を「記念」して、中華振興、民族復興を掲げる。

 

両岸には辛亥革命100周年に対して「慶祝」と「記念」の主軸がそれぞれあるが、これは両岸の歴史観の違いであり、中国は中華民国が存在している事実を具体的に直面しようとしないことに起因している。従って、複雑で解決が難しい歴史の課題、並びに敏感に対立する政治的テーマについて、双方は極力歴史の解釈権を取得しようとしているが、現実の情勢から見て、「辛亥革命100周年を各自が表明する」局面からは抜け出せそうもない。

 

中国共産党は孫中山(孫文)氏を「革命の先駆者」と呼び、孫文の未亡人宋慶齢さんを籠絡して中国人民政治協商会議副主席を担当させた。そして彼女の臨終の際には、「中華人民共和国名誉主席」の称号まで与えて、孫氏に対する礼を遺憾なく表した。しかし、中国共産党は辛亥革命100周年で、革命の精神を還元することはなく、現実の政治目的に着眼している。

 

王毅氏は最近孫文氏が述べた「統一は中国国民全体の希望であり、統一できれば全国の人民は幸福になれる。統一できなければ、害を受けることになる」を引用している。王毅氏の意図は両岸関係に対して啓発を生む作用を期待してのことだが、辛亥革命100周年で、中華民国建国100年という歴史的事実と政治の現実を無視した場合、両岸に対する啓発は自ずと制限を受けることになる。

 

なぜなら、中国共産党の辛亥革命100周年記念は、中国のネットワーク上で討論する辛亥革命100周年、民国等の題材が追従されている現象があるからだ。あるネット愛好者は、「民国時代が今より自由で民主的だったことを今知った!」、「当時毛沢東や共産党が現在の環境で共産党運動を行ったら、早くに銃殺刑にされていただろう」と述べている。

 

また、中国が最近辛亥革命100周年と民国の題材を追従しているのは、辛亥革命という事件を追従しているのではなく、辛亥革命が追求した民主自由の精神を追従するためだと述べるネット愛好者もいる。

 


台北・猫空(マオコン)でお茶を楽しむ

2011年10月02日 22時44分41秒 | 台湾

 9月22日、台湾旅行の初日、午前9時半には松山空港(台北)に着いてしまったので、ホテルに荷物を預け、台北駅2階の食堂街で食事。飲茶の店だったが、結構、美味しかった。
 夕方、台湾の友人であるTさんと食事をする約束だったので、それまでの時間をどこで過ごそうかと相談。結局、台北の郊外・猫空に行こうと決まった。猫空(マオコン)は、MRT木柵線の終点「動物園駅」で下車、ゴンドラに乗り換えて行く。


 (猫空ゴンドラの駅表示。4つ駅があり、総距離は4,033m)

 2年前、台北市動物園を訪れたが、そのときは猫空行きのゴンドラは運行していなかった。たぶん、台風の被害があって、運行休止になっていたのだと思う。動物園には、「トロイの木馬」と揶揄されたパンダがいて、結構、見物客が群がっていた。蛇足だが、大陸から送られてきたパンダは、「台湾併呑」を意図する中共の謀略がその中に詰まっているという意味で、「トロイの木馬」に喩えられている。

 路線の距離が約4km、始発駅と終点の標高差が250mあるので、箱根のロープウェイよりも本格的かも知れない。驚くのは、この料金が50元(約130円)と安いこと。ゴンドラには、床を透明なアクリル板にしたゴンドラもあり、そちらは60元。私は高いところに弱いので、普通のゴンドラにしたが、透明床ゴンドラの方が人気があるようだった。


 (ゴンドラから見た景色とすれ違った「パンダ」のゴンドラ)

 終点の「猫空駅」に着くと、旅行案内所やコンビニがあって、その向こうにはお土産屋と茶店が点在している。山腹を見渡すと、茶畑が拡がり、確かに茶の産地であることを確認する。

 
 (「猫空駅」=左 ゴンドラから見える「台北101」ビルディング)

 雨が降りそうだったので、近くの茶店に入った。300元(約800円)の凍頂烏龍茶を頼むと、あまりきれいとは言えない急須と湯飲みが出てきた。最初のお茶を棄て、湯飲みに残る香りを楽しむ。二番茶からは、お茶そのものを楽しむ。まあ、そのルールは知っていたが、実際に楽しむのは初めて。


 (古めかしい電熱器でお湯を沸かし、自分でお茶を入れる)

 お茶の味はよかったが、連れ合いは茶店の雰囲気がよくなかったと言う。そこで、近くの「清泉茶園」というお茶を販売するお店に行く。かなり歴史を感じさせる店だったので、高山茶を購入するとともに、片言の華語でお店の由来を聞く。すると、1667年に福建省からやって来た客家(ハッカ)だと教えてくれた。この時期は、ちょうど清朝(1644-1912)初期。福建省を含む大陸南部には、明朝の残党がいた頃なので、おそらく戦乱を逃れて台湾にやってきたのかも知れない。客家は、大陸全土に点在する漢民族系の人達だが、台湾の区分では「本省人」に位置づけられている。

 (清泉茶園)

 
猫空のゴンドラや茶店に日本人らしき人は見あたらなかった。多分、週日(木曜日)であったからだろう。
 台湾旅行というと台北、しかも故宮博物院見学というお定まりコースに飽きた人には、案外、この猫空はお薦めかも知れない。ゴンドラの料金が極めて安く、夜9時まで運行している。台北市街との交通アクセスも万全なので、短時間で十分楽しめる観光地だと思われた。
 

 
 
 
 
 


台北から高雄、屏東県へ日帰り旅行

2011年10月02日 15時20分47秒 | 台湾

 9月24日、午前10時半の高鐵新幹線(台湾新幹線)で高雄に向かう。

(台北→左営の新幹線切符)

 左営駅までは、およそ1時間半。運賃は、1,490元(約3,900円)。台北~高雄間の距離を考えると、この運賃はかなり割安に思えるが、乗客はそれほど多くはない。新幹線に平行して台湾鉄道(台鐵)も走っているからだ。言わずもがなのことだが、台湾の鉄道は、新幹線、在来線ともに、安全性、正確性という点で極めて優れている。

(ゆったりとした新幹線の車内)

 左営駅には、台湾の友人であるTさんご夫妻が迎えに来てくださった。ちょうど昼時だったので、挨拶もそこそこに、地元料理のレストラン「志傳」へ。ここでTさんお薦めの料理をご馳走になった。


 (高雄・「志傳」の料理の一部)

 台北の料理との違いはよく分からないが、野菜の種類が豊富で、しかも新鮮。味付けがさっぱりしていて、日本人には親しめる。お腹が減っていたので、遠慮せずにどんどんいただいた。とても美味しかった。

 
   (高雄・日本統治時代の「台湾煉瓦株式会社打狗工場」跡)

 レストランを出て、Tさんご夫妻が連れていってくれたのは、日本統治時代の煉瓦工場跡。私が台湾に残っている日本時代の建物に興味があることを知っていて、わざわざ見せてくださった。台湾総督府(総統府)、台北帝大医学部(台湾大学医院)、迎賓館など、偉容を誇る建物も素晴らしいが、産業遺産とも呼べる、このような工場跡も、歴史を辿ると実に興味深い。この工場は「台湾煉瓦株式会社打狗工場」と呼ばれ、1899年に「鮫島煉瓦工場」として創設された。年間生産700万個という大規模工場で、台湾の近代化に大きな役割を果たした。
 韓国や中国東北部(満州)では、日本時代の歴史的建造物が邪険に取り扱われているが、それと対極なのが台湾。日本統治時代の建物が今なお使われていたり、史跡としてきちんと保存されている。歴史的説明も客観的で、日本を非難するような内容は見あたらない。

 
(夕暮れの高雄港で。 Tさん=左と筆者の配偶者 黒塗りでご免!)
 
 煉瓦工場跡を見学した後、Tさんのご自宅へ。高雄市内の中心街に位置するマンション。そこでお茶とバナナをいただく。居間の本棚には日本語の教科書が並んでいて、Tさんの熱心な学習ぶりを改めて認識。Tさんは、台北で働くキャリア・ウーマンだが、この4年間、電子辞書の「逆引き広辞苑」(岩波書店版)で日本語を独学で学んでいる。私はと言えば、大昔の大学や、中国語講習会などでも中国語(華語)を勉強したが、未だに四声の区別がつかないという有様。Tさんの日本語は、私とは雲泥の差。明るく、大胆に話しかける姿勢が、素晴らしい。外国語の習得には、こういう積極性こそが必要なのだと、自分に言い聞かせる。われわれの会話は、ほとんどTさんの通訳によるものだった。

 (屏東県のお宅を訪問)

 Tさんのご主人の実家がある屏東県へ。高雄市内から高速道路で小1時間ほど。私には、屏東というと特別な響きがある。2年半ほど前、澎湖島・馬公市でパイワン族出身の青年老師(教師)から中国語を教わった。屏東は、まさに台湾の原住民であるパイワン族の故郷でもある。
 車内から景色を眺めていると、次第にトロピカルな風景となる。道の両側に椰子の林や檳榔(びんろう)の林が続き、台北とは全く異なる印象を受ける。そう言えば、映画「海角七号」の舞台となった墾丁は、この屏東県のさらに南側に隣接する地方だ。
 目的のお宅に到着して、ビックリ。これまで見たこともない大邸宅で、隣には椰子の林、庭には松の盆栽が植えられている。芝生には雑草ひとつない。これだけ管理するのは、大変なことだと思う。

(自分で書いたドラエモンの絵を見せてくれたNちゃん)

 
(五歳のNちゃんが読んでいる絵本。何と李白だった!)

 お宅では、会社を引退して悠々自適のご夫妻、その娘さんと5歳のNちゃんが迎えてくださった。涼しい風が吹き抜ける庭でお茶と果物をごちそうになる。広い庭を歩いて見つけたのが、ノニの木。


(庭に植えられたノニの木が、白い花をつけていた)

 日本では、ノニは大変高価で、ジュースの薬効が散々宣伝されている。だが、ここでは、普通にジュースとして飲んでいるそうだ。「不味い」と言って笑っていたけれど…。


(椰子の林をバックに記念撮影。顔がこんなになっちゃって、ご免!)

 再び、屏東県から高雄市内へ。夕暮れ近い高雄港を散歩した後、地元の名物料理を食べに行く。鶏肉がたっぷり入ったのスープとペースト状の粽のようなご飯。これは初めて食べる味だった。美味い。団体旅行では決して味わえない地元の味だった。

(旅行者では出会えない味…)

 午後8時40分には、新幹線に乗り台北に戻らなければならない。なにしろ日帰りなので。
 だが、Tさんご夫妻は、この後、蓮池という景勝地の廟に連れて行ってくださった。

(高雄・蓮池潭 夜の廟の光景)

 それほど暑くはなかったが、夕涼みをする人達で賑わい、カラオケで日本の歌を歌う若い女性も見られた。南国の穏やかな夕べ。そこに住む人には何でもないことが、旅行者にはエキゾチックに感じられる。

 Tさん夫妻は、この後、新幹線・左営駅まで送ってくれて、ホームで見送りをして下さった。突然の高雄訪問であるのに、何もかもセッティングしてくれたご夫妻に感謝。多謝!
 これで、私たちはますます台湾が大好きになった。