澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

安藤彦太郎教授の”真実”

2009年01月31日 05時50分00秒 | 中国

「日華事変と山西省」というウェブサイトに興味深い記事を見つけた。
このHPの筆者は、中国・山西省と関わりのある人らしく、日中戦争期のかくされたエピソードを採り上げている。
その中で興味をひいたのが、次の記事である。全文に近くなってしまうが、引用をさせていただく。


孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判

かつて文革を評価した親中派の論客として著名な早稲田大学名誉教授の安藤彦太郎。安藤が1995年に勁草書房から出版した『虹の墓標―私の日中関係史』は、安藤の記憶に残る20人の中国人との交遊の思い出が書きつづられている。郭沫若、周恩来、廖承志などそうそうたる人物とともに、戦争体験談で紹介している孫東元さんも登場している。表紙をめくると、当時孫さんと一緒に撮影したとする写真が載っているが、そこに写っている顔は確かに若かりし頃の孫さんといって良い顔だ。しかし、一章(60~67頁)をさいて安藤が紹介している孫さんとの思い出話は、このホームページで紹介している事実と大きく異なっている。

安藤は孫さんを、1937年(昭和12年)の廬溝橋事件を機に帰国していった愛国学生の一人として描いている。安藤は「孫君はひたすら事変の不拡大をねがい、医学を身につけるまでは、と頑張っていた。だが、ついに七月末に孫君も引き揚げることになった」(64頁)とし、留学生活を三週間で切り上げ、博多から船に乗って天津経由で帰国したという。しかし孫さんは官費支給がうち切られた後も日本に残り、1940年(昭和15年)まで九州医専で私費の留学生活を続けている。廬溝橋事件の時に帰国した事実はない。

安藤にとって孫さんは愛すべき祖国のために生きようとする立派な愛国学生として記憶されており、その思いは次のようなエピソードに込められている。
孫君は熱烈な愛国者で、こう言った。「僕は日本に来て良い日本人をたくさん識った。君はその一人で、僕の心の友と言っていい。でも君は、日本の兵士として召集されて中国に来るかもしれない。僕は帰国して抗戦に参加する。そして戦場で君に逢ったら断固として君を刺し殺す」。そのとき、マルクス・ボーイであった私は「いや、そういう考えかたは小児病的ではないかな」と、利いたふうな答えをした。するとかれは眉を揚げて、「でも僕は君を刺し殺す以外にないのだ」と言い切った。(64-65頁)
そして7月30日頃に東京駅で安藤は孫さんを見送り、乗船の直前によこした手紙を最後に消息が絶えたとする。安藤は「気性は激しいが快活で、ときおり皮肉な笑いを浮かべるおもしろい青年だったが、抗戦のなかで死んだにちがいない」(67頁)とし、あくまでも抗日に命をささげた愛国学生と記憶しているようだ。しかし孫さんは抗日どころか、一時帰郷中は傀儡政権が設立した医学専門学校で教壇に立っていた。たとえ"心の友"であっても、日本人=敵である以上"刺し殺す"と涙を浮かべて主張するほどの愛国心に固まった青年像。安藤が著書で描くその姿と、傀儡政権に職を得た事実から受ける印象には大きな隔たりがある。

安藤は著書の中で、当時の日本では反中・嫌中の嵐が吹き荒れ、孫さんをはじめ中国人が肩身の狭い思いや身の危険を感じていたという印象を与える書き方をしている。しかし、違和感がある。孫さんは、保証人を引き受けた布施先生をはじめ学友たちも皆が戦争前と全く変わらず接してくれたとし、むしろ戦火の広がる祖国を心配してくれた彼らへの感謝を今でも忘れないと語っている。安藤の日本人と中国人との関係についての見方は、もうひとつのエピソードでも違和感を与える。安藤は孫さんが"帰国"したあとに父親の達生さんから手紙が届いたとしてその内容を紹介しているが、それは父が日本留学時の自分の経験からして「日本人は中国人を軽蔑し、戦時はとくにひどいと思われるから、途中できるだけ日本人を装って帰るように」と指示したとする(67頁)。もちろん、彼はその手紙を自分が受け取って孫さんには渡していないと書いているから、たとえ孫さんが父親からそのような指示を受けた記憶がないと言っても不自然ではない。しかし孫さんは反対に戦火が迫りつつある太原に居る家族に対して当時なんら心配はしなかったという。日本の大学を卒業した知日家の父なら、日本軍が来ても全く心配ないと思っていたからだ。日本人を警戒して息子を帰国させようとする父親が、日本軍が攻めてくる太原に家族と一緒にそのまま居続けるだろうか。

安藤の書く孫さんとの思い出は、孫さんが自ら筆者に話してくれたものと比較して事実関係で大きな開きがあり、性格描写は正しい印象を与えるものの、人物像という点では正反対に近い。安藤が話を脚色しているのか、"愛国者"の振りをして孫さんが彼を騙したのか。すでに70年も前の話で、しかも当事者の一方である孫さんが既に他界している今、それを第三者が判断することは難しい。しかし少なくとも安藤が古き良き思い出として書いたこのエッセイは、次の事実によって痛烈な歴史の皮肉として彼自身に跳ね返ってくる。

安藤が評したように"気性は激しい"孫さんは、中共治下の集団狂気にも怯むことなく自己主張を続け、反動のレッテルを貼られて三角帽をかぶらされることとなった。安藤が中国共産党の治世と文化大革命を賞賛していたとき、孫さんは1950年代の反右派闘争から1970年代の文革終結までの20年もの間、政治的迫害を受けていた。現地の人は皆一様に、孫さんは「投獄されていた」という。判決を受け、罪人として獄につながれた。良く言われる労働矯正よりも深刻だったのだ。安藤はエッセイの中で「太原には一九六四年、北京シンポジウムの旅行で一晩立ち寄ったとき以外、行っていないが、いちど達生医院のことを訊ねたいと思う」(67頁)と呑気に書いているが、1964年に彼が太原を訪れたとき、父親の達生さんは毛沢東の失政で中国全土を空前の飢餓が襲っていた二年前に他界しており、孫さん自身は長治市の郊外に設けられた強制収容所にいたようだ。

戦後に孫さんが受けた迫害については詳しく聞き取りをしていない。精神的に限界までいったトラウマに触れることを恐れたからだ。孫さんの自宅には、部屋中に周恩来の写真(毛沢東ではない)が貼られ、一種異様な雰囲気を醸し出していたのを憶えている。足腰が弱くなり、移動には車椅子を使っていたが、迫害を生き抜いた老人は、同行していた省政府の歴史研究員を前にして「閻錫山の治世は素晴らしかった」「中共はスローガンばかりだった」と大きな声で堂々と話した。これぐらいの内容でも彼らのような戦前世代が口にするには相当の覚悟が今でもいるのだ。布施先生のご子息をはじめ、数年前に連絡がとれるようになった日本の同窓生からは学術誌が定期的に届いていたが、80歳を過ぎたその時も医学論文に目を通すことを楽しみにしていた。私が取材した数ヶ月後に他界した。現地の人たちは皆一様に彼の気質を「すごい」と評する。何度も復活を遂げた小平になぞらえて「不倒爺」とも呼ばれた。親日と反骨に生きた83年の人生だった。

            (「日華事変と山西省」より引用)

疑問符を付けられた著作は、安藤彦太郎著「虹の墓標ー私の日中関係史」(頸草書房 1995年)である。
著者である安藤氏は、元・早大政経学部教授(中国語・中国経済論)で、中国の文化大革命を賛美した「進歩的文化人」でもある。日本共産党員であったが、「日中友好」運動の分裂を巡って、共産党を除名され、「親中国派」文化人となった。文革期に「北京留学」という「恩恵」を中国から授かり、文革がいかに素晴らしいかというレポート(「中国通信」)を書き続けた。それは、当時の学生等に大きな影響を与えた。同僚で「文革礼賛派」でもあった故・新島淳良が、文革終結後、早大教授を辞して、「ヤマギシ会」に入ったのとは対照的に、安藤は早大教授のポストに座り続けた。

この人の変わり身の早さはすごかった。文革が収束すると、「文革礼賛」をすぐに引っ込め、新しい中国指導部のお追従を始めた。「学者」として文革を総括することもなく、その後は「中国語と近代日本」(岩波新書)というような、中国の威光を借りて日本を批判する本ばかりを出版した。

そういう安藤氏は知っていたが、上記の引用文献を見て、「そこまで不誠実な人だったのか」と改めて驚いた。
そういえば、安藤氏が育てた学者、研究者は皆無に等しい。自身の学問的業績も「満鉄ー日本帝国主義と中国」(お茶の水書房)くらいしかなく、早大以外の場所では評価もされていない。おそらく、早大内部の「日中友好運動」家として幅を利かせ、教授にまで登り詰めた人なのだろう。それはそれであの大学内部の問題なので文句を付けることではないが、自己の都合のため真実をねじ曲げる態度は、到底許されないことだ。
孫東元氏と安藤氏がどちらが真実を語っているのか、それは言うまでもないことだろう。安藤氏もいよいよ人生の最期を迎え、毛沢東と会う年齢となっているのだから、不誠実な自己弁護は止めるべきなのだが、「日華事変と山西省」の著者の問い合わせには次のように答えたという。

追記:安藤彦太郎氏からの手紙

安藤氏に手紙で事実関係を質問したところ、著書での記述はフィクションではないとの返事を頂きました。安藤氏は孫さんの談話内容との乖離について、「対日協力者の複雑な心境ではないか」と評しています。そもそも"対日協力者"であるのは私からの手紙で初めて知ったはずで、しかもその談話の内容は、(中共治下では)自らに不利な内容で、かつ嘘をつく必要のないものです。

安藤氏からの手紙を読んで、孫さんが雑談のなかで話していたことを思い出しました。「ある日本の古い友人が、戦前の私のことを本に書いているが、事実が違っているので訂正を求める手紙を出した」というものです。その本が安藤氏の著作がどうかは、孫さんが亡くなった今では確認できません。

文革」が「魂に触れる革命」などではなく、「世紀の大厄災」であったことは、今や明らかだ。当時、日本でも「文革」を礼賛した「知識人」「大学教授」が何人も出た。その多くは、後に自らの不明を恥じるのだが、安藤に限っては、全くそういうそぶりも見せず、「中国当局」へのお追従を貫いた。早大退職後も、「日中学院院長」として中国との太いパイプを持ち続けた。

「文革」期に安藤の言説に欺かれた若者は、今や疲れ切った還暦世代となった。
彼らが孫東元氏のエピソードを知れば、「安藤のようなやつが、うちの会社にもいるなあ~」と嘆息することだろう。その「安藤のようなやつ」は、きっとしっかり会社の中枢に収まっているのだ…。

「進歩的文化人」の悪しき典型がここにある。「人の評価は棺を覆ったとき定まる」という言葉があるが、上記のような疑念に何ら応えることなく、安藤氏は「上帝にまみえる」
というのだろうか。そこに毛沢東が待っているかどうか、それははなはだ疑問だが…。

 

陳綺貞(チアー・チェン)を聴く

2009年01月30日 10時37分43秒 | Weblog
台湾の音楽動向は、日本にはなかなか伝わらない。
しかし、youtubeを使うと、多くの映像を見ることができる。私が気に入った歌手は、陳綺貞(チェン・チーチェン)だ。チアー・チェン(Cheer Chen)というネームでも呼ばれている。私は知らなかったのだが、彼女の歌はNHKの中国語講座でも使われているようなので、ご存じの方も多いのではないか。




(2009年1月 台北アリーナでのコンサート)

彼女は台湾では珍しいシンガー・ソング・ライターで、現在33歳。10年以上の歌手キャリアがある。台湾らしく彼女も高学歴で、国立政治大学を卒業している。
日常生活の光景をさりげなく歌う彼女の歌は、日本人にも馴染みやすいものだ。シチュエーションを台北から東京に移しても、全く違和感のない歌だと言えるだろう。
台湾の歌手映像には、中国語の字幕が付けられている。なんとか意味も通じるので、さらに親しみがわいてくる。

http://jp.youtube.com/watch?v=Gwc8Jowsfls (嫉妬※)
                    ※ 中国語では、「女扁に戸」

http://jp.youtube.com/watch?v=LIxeYGCsPc4&feature=related (旅行的意義)


日本ではCDも入手できないようだ。台湾に行ったら、ぜひ、レコード店をのぞいてみたい。今月、台北アリーナで2万人コンサートが行われたというニュースも伝えられている。

【華流ニュースより】
美人歌手チアー・チェン、台北コンサートで2万人動員
台湾の美人シンガーソングライター、チアー・チェンが台北アリーナで2日間のコンサートを開催。約2万人の観客が、チアーの美しい姿と歌声に酔いしれた
 美人シンガーソングライターとして知られる、台湾のミュージシャン陳綺貞(チアー・チェン)が、1月10-11日に台北アリーナでコンサートを開催。両日共に満席状態で、約2万人を動員した。

 新曲「魚」を歌う時には人魚姫をイメージした白いドレスに身を包むなど、美しい衣装と姿でファンを魅了したチアー。アンコールタイムには革ジャンスタイルでバイクにまたがりワイルドに登場したが、バイクを傷つけないようにと大緊張。実はこのバイク、テレサ・テンがCM撮影で使った高級バイクで、40万台湾ドル(約120万円)以上の価値がある物だった。

 コンサート会場で販売されたグッズはチアーのデザインで、ほぼ完売状態。1月22日には台湾でニューアルバム「太陽」をリリースし、香港やシンガポールでもコンサートを予定。アジア中が注目する、才能あふれる旬のミュージシャンと言えそうだ。





【Wikipwdia】より
陳綺貞

台湾でのコンサート (2006年)
基本情報
出生名 陳綺貞
出生 1975年6月6日
血液型 AB
学歴 国立政治大学
出身地 台湾台北市
ジャンル ポップス、ロック、フォークソング
活動期間 1997年 - 現在
共同作業者 少女標本
公式サイト www.cheerego.com/
著名使用楽器
ギター、ピアノ
表・話・編・歴
陳綺貞(チェン・チーチェン、Cheer Chen, チアー・チェン、1975年6月6日 - 台北市)は、台湾では珍しいシンガーソングライターである。曲のほとんどを自分で作詞・作曲している。

目次 [非表示]
1 略歴
2 ディスコグラフィー
2.1 アルバム
2.2 ベスト版
2.3 シングル
3 外部リンク



[編集] 略歴
1994年 - 台北市立景美女子高級中学卒業。
1999年 - 国立政治大学哲学系卒業。
1996年7月 - ロックレコードの子のブランド魔岩レーベルと契約。
2003年 - レコード会社を離れ独立。

[編集] ディスコグラフィー

[編集] アルバム
1997年9月 (台湾) - 「Demo 1」
1998年7月 (台湾) - 「讓我想一想」
2000年3月 (台湾) - 「Demo 2 - Cheer's Walkman」
2000年4月 (台湾) - 「還是會寂寞」
2000年4月 (日本) - 「Princess From East '01 Series」
2001年11月9日 (台湾) - 「Demo 3」
2002年8月 (台湾) - 「Groupies 結他手」
2005年9月 (台湾) - 「華麗的冒險」
2007年5月 (台湾) - 「陳綺貞2005-2006花的姿態演唱會經典實録」
2009年1月 (台湾) - 「太陽」

[編集] ベスト版
2002年10月 (台湾) - 「陳綺貞精選」
2005年3月 (台湾) - 「CHEER」

[編集] シングル
2003年11月 (台湾) - 「Sentimental Kills」
2004年3月 (台湾) - 「旅行的意義」
2004年12月31日 (台湾) - 「after 17」
2007年2月8日 (台湾) - 「pussy」
2008年7月 (台湾) - 「失敗者的飛翔」

「果し得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの」を読む

2009年01月29日 01時54分06秒 | 
「果し得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの」(井上豊夫著 ㈱コスモの本 2006年)を読む。




この本を読んでみようと思ったきっかけは、youtubeで3年ほど前のこのニュースを見たからだ。




三島由紀夫が組織した「楯の会」に属していた井上豊夫氏が、三島の「檄」を未だ果たさざる約束として捉え、これまでの生き方を綴った本である。

「東京大学では、大学当局が警察力の導入に消極的だったために、状況が泥沼化しました。1969年(昭和44年)1月には安田講堂に立てこもった全共闘と機動隊が激しい攻防を繰り広げた結果、学生全員は逮捕されたものの、安田講堂はいたるところが破壊され、東京大学は1969年の入試中止を発表しました。…東京大学の入試中止でこの年の大学入試は史上最難関となり、受験生たちは志望校を変更せざるを得ませんでした。私も国立一期は一橋大学から神戸大学に志望校を変えましたが、あえなく失敗。合格したのは上智大学と関西学院大学だけでした。」(同書14-15ページ)

今はもう語られることもないが、1969年の大学入試は、東大、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止となり、弱小の東京外国語大学では「暴力学生」が入試を妨害するからという名目で1科目30分という「変則入試」が行われた。4科目で120分だけ、あとは「内申書」で選抜という前代未聞の「奇策」だった。

こうした状況に受験生は狼狽し、志望校のレベルを下げた者も多くいた。私自身も友人が持っていた志願書を1枚もらい、それまで一度も受けたことのないある私立大学を受験した。創始者が紙幣の肖像にもなっている「名門」K大学とこの大学の二つに合格したのだが、入学金の払い込み時期の関係で後者の大学になってしまった。これが人生の岐路だったと感じたのは、入学してすぐのことだった…。「入試のような人生の節目ではカネをケチってはならない」という、惨めな教訓をそこで学んだわけだ。その教訓は、我が子供たちのときには十分に活かされたが…。

ともあれ、1969年の時点では、井上氏と私は、同じような境遇で、同じ場所・出発点にいた。当時の著者は、髪の毛もふさふさしており、眼光の鋭い青年だった。しかしながら、彼自身が「楯の会」の会員であることを広言していたので、親交を結ぶことはなかった。この大学には、こんな「右翼」が跋扈しているのかというのが率直な印象で、そこにいる自分自身にますます嫌悪感を募らせたことを思い出す。

井上氏が「楯の会」に熱中していたとき、私はアルバイトと市井の「中国語講習会」に精を出していた。この中国語講習会には様々な人がいた。三里塚闘争で空港司令塔に立てこもったMさん、のちに某市の市長選にも立候補したOさん、共同通信記者となったTさんどは今でも忘れられない。みんな「新中国」に希望を求め、「思想」を理解する手段として中国語を学んでいた。中国語を「チャイ語」と呼ぶ今の学生からすれば、信じられないことだろうが…。
外国語を学ぶということは、ある目的を達成するための手段に過ぎない。だが当時、「ひとつの中国」というイデオロギーが持ち込まれ、中国語学習は毛沢東の著作などを教材とすることも多かった。「中華民国」(=台湾)という言葉を使うだけで、「反中国的」だと本気で騒ぐ連中がいた時代だ。当然、まともな日常会話など教わっていない。今考えれば噴飯ものの話だった。

この本で井上氏の個人史の空白部分を知ることができたのだが、これまでの彼我の人生は、全くの平行線だったと思い知らされた。「楯の会」から家業(?)の「会社社長」へと優雅に転身した井上氏の人生は、ずっと順風満帆であったかはともかく、華麗な生き方であったことは間違いない。翻って、私はどうだったのか…? ここで触れたくはないが、まさに「人生さまざま」というほかはない。

三島由起夫の「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」という予言は、まさに今日の日本を言い当てている。これらの形容詞に付け加えるべきものは何もない。今となっては、三島の先見性にただただ脱帽するばかりだ。
日本人であること」「自分の国を守るということ」を忘れたツケは、限りなく大きい。そのことを考えると、絶望的な気分にさえなる。
この点で、初めて著者の生き方と交差したように思えてくる。


(同書より引用)







中国知識人の国営テレビ批判

2009年01月15日 11時07分31秒 | Weblog

中国共産党独裁政治を批判する「零八憲章」に続いて、中国知識人の国営テレビ批判が報道されている。

中国で、作家や弁護士らが、国営テレビについて中国政府の宣伝ばかりを放送していると批判する文書をインターネット上に発表し、当局は、胡錦涛政権に反発する動きに対する警戒を強めています。

この文書は、中国国営の中央テレビについて「視聴をボイコットし、洗脳を拒絶する」と題して中国の著名な作家や弁護士らあわせて22人が、連名でインターネット上に発表したものです。この中では、中国中央テレビが市民の政府に対する抗議行動について冷淡な扱いしかせず、喜ばしい話題ばかりを伝えて社会問題を十分に報道していないなどと厳しく批判しています。文書に署名した弁護士の1人は、NHKの取材に対して「中国の報道はもっと開放されるべきだと思い、当局による尋問や拘束も覚悟のうえで賛同した」と述べました。中国では先月にも、300人以上の有識者らが共産党の一党支配体制を痛烈に批判する文書を発表したばかりです。このため中国政府は、民主化を求める学生らの運動が武力で鎮圧された天安門事件からことし6月でちょうど20年になるのを前に、胡錦涛政権に反発する動きが広がることへの警戒を強めています。(NHKニュースより)


蟻の一穴という言葉が示すように、中国共産党政権にとっては、インターネット上の政府批判が最も怖いのだろう。
世界金融危機がじわじわと中国企業にもダメージを与えている今、一連の反政府運動には目が離せない。

視聴率目当てのバカ番組ばかり放送していながら、「報道の自由」などとエラそうにしている日本の民放各社は、中国の国営テレビ批判報道を他人事のように嗤っていられるのだろうか?

 


老醜を晒す久米宏

2009年01月15日 00時53分26秒 | マスメディア

夜は誰にも邪魔されずに好きな音楽を聴くことにしている。今夜はマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を聴いていたのだが、田母神・元航空幕僚長がTV出演することを知り、久しぶりにリモコンをONにした。

「久米宏のテレビってヤツは!?」という番組なのだが、私の嫌いな方々(姜尚中、久米宏)が出ているので、これまで見たことはなかった。今夜はレギュラー?のはずの姜尚中が不参加で、拍子抜けというか、イヤなものを見ないで済んだというような気分だった。

田母神氏の他には、森永卓郎、東国原知事、山田五郎、室井佑月が出演した。
予想どおりと言うべきか、久米宏の司会は、田母神氏を皮肉るばかりで、まともな会話は成り立たなかった。東大、早稲田、慶應の学生もスタジオにいたが、その中の東大生の容貌をおちょくったりしたのも実に不愉快だった。

田母神氏に対しては、7千万円の退職金をどう使ったのかと嫌味たっぷりに訊いたり、司会者であるにもかかわらず「護憲派」の代表のような顔をして「自説」を説く態度はとても容認できるものではなかった。
久米宏の「平和論」などは、古びた進歩的文化人の受け売りに過ぎない。もっと言えば、TBSの報道姿勢をなぞっているに過ぎないのだが、あのエラそうな態度は何様なのか。

久米宏の言動を見ていると、典型的な早稲田大学OBという感じがする。「野党気取り」「粗雑な論理」「東大コンプレックス」「いいかっこしい」「気取り屋」「小心・軽薄」…こんな言葉がすべて当てはまるようだ。
それと、よほど自分の容姿に自信があるのか、人をみかけで判断する傾向が強いようだ。田母神氏には、「モンスターのような人かと思っていたら、小さな方なんですね」と軽口を叩き、会場の東大生に向かって「君の名前は”勝利”だが、顔は”敗北”みたいだね」などとよく言えたものだ。自分の顔を鏡で見ればいい。白髪だらけのクソじじいではないか。

防衛庁時代の田母神氏は、こんなバカ番組を見る時間もなかったろうから、いざ出演してみて、あまりの程度の低さに驚き、憂国の情をますます深めたのではないか。

TBSは、室井某というバカ女をこんなときに使うべきではなかった。よってたかって、田母神氏を貶めようとする番組の意図が、室井のアホ発言の連発で、ぶっとんでしまったではないか。図らずも視聴者は、TBSの制作意図を見透かすことになったはずだ。

あの姜尚中が「紅白歌合戦」にまで出たからといって、田母神氏まで真似する必要はない。田母神氏におかれましては、ぜひ、まともな番組を選んで出演し、自説を主張していただきたい。


麻生首相が漢字を読めないわけ

2009年01月12日 17時57分40秒 | Weblog

マスコミの”矜持”が問われるような番組が放送された。

フジテレビ系列のニュース番組に麻生首相が生出演したのだ。現役総理が生放送のニュース番組に登場するというのは、まさに”未曾有”のことだ。

予想していたとおり、番組は麻生首相のPRに終始した。イヤな質問もされず、本人はご機嫌なようだったが、やはり落とし穴はあった。映像のインパクトと言うべきか、視聴者は、麻生首相がいかに世間知らずの浅薄な男かが分かってしまったようだ。

一段高めの目線で、分かり切ったことを説明する無能な男、というのが、おおかたの印象だったろう。典型的なオーナー会社の2代目社長なのだ。会社では、下僕のごとく社員を使い捨て、首相になってからは、霞ヶ関のエリート官僚を好きなだけ「使いこなし」たつもりだろうが、その傲岸不遜さを視聴者が見逃すはずもない。

漢字が読めない点について、原稿を読むとき、老眼鏡を使わないからだと言い訳をした。だが、こんなことを信じる人がどれだけいるというのか?
学習院時代は、ヨット部に所属していたようだが、オリンピックに出場したクレー射撃といい、どちらも「カネで勝負」するスポーツだ。

学習院大学の悪口を言うつもりはないが、一般入試で入学した学生にとっては、「皇族+ブルジョアジー」の生え抜きが跋扈しているのだから、極めて居心地の悪いところに違いない。

フジテレビ系列は、横田めぐみさんの娘(ヘギョンちゃん)のインタビューでも物議を醸したが、今回も同じようなことをしてしまった。こんなバカな麻生を盛り立てても、もはや時を失したということが分からないのだろうか? 

 

 

 


テレビ局の赤字転落を嗤う

2009年01月08日 13時02分09秒 | マスメディア

民放テレビ各局の赤字転落が、次々と報道されている。たとえば、テレビ朝日については、次のとおり。

テレ朝、単体で営業赤字に 今期予想を大幅下方修正

テレビ朝日が今期の業績予想を大幅に下方修正。テレビ事業を手がける単体業績は営業赤字に転落する見通しだ。

 テレビ朝日は12月16日、2009年3月期の業績予想を修正し、テレビ事業を手がける単体の営業損益は22億円の赤字(従来予想は8億円の黒字)、純損益は4億円の赤字(同16億円の黒字)になると発表した。広告出稿の落ち込みが厳しいため。

 連結では営業利益は8億円(同41億5000万円)、純利益は1億円(同26億円)と、黒字ながら大幅に下方修正した。連結売上高は2475億円(同2515億円)にとどまる見通し。スポット広告の落ち込みに加え、上場株式の評価損計上なども響く。


赤字転落の原因は、デジタル化に伴う投資の他、金融危機に伴う広告収入の落ち込みが響いているようだ。
テレビ朝日と言えば、新聞各紙を貼りだして、アナウンサーが”論評”するという、ワイドショー形式を編み出した会社だ。他のメディアを借用して、口だけが達者なアナウンサーが大衆受けのコメントをするというやつだ。

吉沢某とかいうアナウンサーは、公務員や政治家を偉そうにコケにして、「民間ならば…」とバカの一つ覚えのように繰り返している。公務員攻撃が、メディアの「職責」だというのなら、大層な考え違いだろうが…。

そして、テレビ朝日の赤字転落。「民間会社」である「テレビ朝日」は、おおいにリストラ経費削減に努めていただき、社員給与を「公務員並み」にでもしていただこうではないか。

 


坂本哲志総務政務官の”問題発言”

2009年01月06日 11時38分51秒 | Weblog

坂本哲志総務政務官の発言が問題となっているようだ。


派遣村「まじめな人たちか」 総務政務官

 坂本哲志総務政務官は5日の総務省の仕事始めで、仕事や住まいを失った人々を支援した東京・日比谷公園の「年越し派遣村」について「本当にまじめに働こうとしている人たちが公園に集まっているのか」と指摘。「『講堂を開けろ。人が出てこい』と学生紛争の時の戦略が垣間見える」とも述べ、政治的な色彩が濃いとの認識を示した。

 民主、国民新両党は5日夜、都内のホテルで開いた幹部懇談会で坂本政務官の発言を追及する方針で一致。民主党は今後の国会審議で罷免を要求していく方針だ。(05日 20:36)


この人の経歴を見ると、確かに「学生紛争」の時代と重なっている。

昭和25年11月6日生まれ
大津町立陣内小学校(現大津南小学校)
大津町立大津中学校
坂本てつし
熊本商大付属高校(現学園大付属高校)
中央大学 法学部 政治学科卒業

当時の中央大学なんて、4年間のうち、まともに授業があったのは2年間くらいのものではなかったか。その経験から、坂本氏が「学園紛争の時の戦略がかいま見える」と言ったのは、決して間違いではない。「派遣村」なるものが大々的に報道されて、その「村長」とかいう人が、プロ活動家風の口調でマスコミのインタビューに応えているのを見ると、私自身、坂本氏と同様の印象を受けた。

でも、マスコミが虎視眈々と麻生政権閣僚の「失言」を引き出そうとしているのに、仕事始めの挨拶に率直な印象?を喋るなんて本当にKYな人ではないか。

それと同時に、マスコミの的はずれな報道にもほとほと愛想が尽きる。今年も視聴率狙いの大衆迎合報道を続けるのか?「百年に一度の危機」らしいのに…。