GITANES嗜好者に対する決まり文句3
「高いでしょ?」
それとは無関係に・・・。
儀式が嫌いだ。
嫌いだから苦手である。
できれば御免蒙りたい。
もちろん他家・身内を問わず葬式などの儀式については
イヤとか好きという感情の問題に関わらず、儀礼に則り
粛々と行い、普通に始めて普通に終わるのが一番だと
思う。
しかし、そのほかのほとんどの儀式は
「どうでもいいではないか。それでチベット問題が解消されたり
日照りが止んで豊作になる訳でもあるまいし。」としか考えられない。
もちろんいいオトナなのだから、すべてのしきたりを無視して
都合のいいように儀式を改変したり、参加者全員が不快に感じる
ようなやり方を押し通すなんてことはしない。
しかしある種の儀式、幾人かの面子を保つことを最大の目的にして
行われる儀式など、どこに値打ちがあるのだろうか。
「いつもこのやり方です」
「これが普通です」
以外の合理的な説明があれば、そしてそれが私にとっても
合理的だ・あるいはうまく思いが込められている方式だと
納得できるものならば、喜んでその「いつものやり方」に
従うのだが。
矛盾しているかもしれないが、
法事の作法に従うことも、神社への参拝の正しい(とされる)方法
に倣うことも、実は全く抵抗はない。
古来の文化に触れることへの興味もあるし、ありがたいことに
私にそれらを強制する者はいないので、自主的に作法に則ることは
不快ではない。
まさに自然に従ってしまうものが(私にとっては)文化であり、
儀式は文化の一端であるべきで、そうであれば多くの者の敬意を
自然に集めることができるだろう。
文化にもなり切れぬうちの儀式など、そんなものはラッキー池田の
振り付けにも及ばぬ、「勝手に決めた躍り方」レベルなのだから、
全ての所作に合理的な説明を求められるのも仕方なかろう。
「いつもこの方法です」なんて言って済まされるのは、
その方法が根付いてから100年経ってからだ。
熟成前の儀式には説明責任がある。
※100年に根拠はない。
って、
単に儀式が面倒臭いだけなんですけど。
そもそも、「緊張感が3分ほどしか持続しない」という私の
性格にこそ問題があるのは自覚している。
例えば、何か新しいことを始める際の最初のミーティングで
数十人集めて、冒頭に何か一言喋らなければならない場合に、
最初こそ
「みなさんとまた新しい●●という仕事を始めることができて
大変嬉しく思います。○○という目標を■■という手段によって
クリアできるよう、全力で取り組み・・・」
なんてもっともらしいことを話し始めるのだが、ものの3分もすると
「まあ大体、世の中の大抵のことは、まあなんとかなるもんです。
ほとんどの心配は取り越し苦労であり、それ以外のほんの少し、本当に
心配するべき事柄は、どう足掻いても結局うまくいかないもんです。
その辺りはまあ適当・・・いや適切に対処していくってことで・・・。」
と続いてしまうので、
私の後にきっちりと話しをしなければならない人が、ひっくり返って
悶絶する・なんてことがよくある。
要するに緊張の糸が細くて短いのだ。
だから全く「儀式」には不向きなのである。
そういう糸の細い人間を儀式的な催しに呼んではいけない。
お互いの不幸だ。
ああ。
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