GITANESの匂いが漂ってきそう。
それとは無関係に・・・。
内田洋子氏の著作をすべて読むようになった。
「ジーノの家」の書評を読んだのがきっかけで購入し、
読み終わるや、既刊の著作をすべて購入し読みつくした。
現役の方だからもちろん今後も著作は出版されるし、それが楽しみになっている。
そこそこの年齢になってもこうやって、新たに作家が広げる世界に
没入し、没入といいながらでも俯瞰で眺めながら楽しむことができるというのは、
つくづく、本を読む習慣を持ちあわせていてよかったと思う。
他人が勝手に書く書評などまったく無視してきたが
最近では書評が大きい指標となっていて、何か本を買うときの参考となっている。
これは通販で本を買うことが多いためで、パラパラとめくってみる訳にもいかないから
立ち読みのつもりで書評を読む訳だ。
内田洋子氏の書く舞台が『イタリア』で、その『イタリア』つながりかと
思われるかも知れないが、本当にまったく関係なく、まったく偶然に手を伸ばしたのが
『須賀敦子全集』である。文庫で全8巻。
これも、まったく須賀敦子氏にまったく予備知識なく、書評に惹かれて購入した。
これがまた、面白い。
最近では毎夜入浴中に、1,2章ずつゆっくり読み進めるのが楽しみになっている。
残念ながら故人であるゆえに、著作がこれ以上ふえることはない。そういう理由もあって
ゆっくり読み進める。
どの話も、もちろんすべて違う話であって定型がある訳でもないが、どの話も
その終わり方に特徴があるように思える。
まるでスルリと、手に持っていた風船の紐が離れていったような感覚で終わる。スルリと。
もちろん私個人の感想だ。
そしてそれは内田洋子氏が書く本のしっぽにも同じ感覚をおぼえてしまう。
二人の著作は運び方も違うし、起伏やスピード感、思い浮かぶ色合いもまったく異なるのだが
スルリと離れていってしまった風船の紐の代わりに、手には残心のみがあるような
その感覚だけは似ているように思える。
最近風呂では須賀敦子氏か内田洋子氏の著作を読みがちである。
そんな調子だから、しばしばのぼせ気味である。
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