※昨日は講演会の後の先生の慰労会にも参加し、反省会にも参加したため帰宅は今日になりました。大盛況だったため、社長はご機嫌で盛り上がってしまいました。私は水を飲んでお付き合い。楽しい時間を過ごさせていただきました。
江戸時代の指名手配書である「人相書」とはどんなものだったのでしょう。
最近の指名手配書は本人の写真が添付されるのはもちろん、変装パターンや「ふけ顔」の予測まで画像化して示されています。しかし写真すらなかった江戸時代には、氏名・年齢・生国に続いて背格好や容貌、着物・所有品、しゃべり方の特徴などを言葉で列挙していく形式でした。
時代劇でお馴染みの、似顔絵が描かれた人相書きではなかったのです。
時代劇では、いちいちこの人相書きを読んでいたのでは時間のロスになりますので似顔絵を描いたもので表現しています。これはあくまで劇中のことですので、このことに関しては、それはそれで良しとしておきますが、事実はそうではなかったということです。
■解読文
人相書之事
十右衛門事
浜嶋庄兵衛
一 せひ五尺八九寸程 小袖鯨さし三尺九寸程
一 歳弐拾九歳 見掛三拾壱弐歳ニ相見候
一 月額濃引疵壱寸五分程
一 色白歯並常之通 一 鼻筋通り
一 目中細ク 一 皃おも長なる方
一 ゑり右之方江常かたき罷在候
一 ひん中ひん 中少しそり元ゆひ十ヲ程まき
一 逃去り候節着用之品
こはくひんろうしわた入小袖
但紋所丸之内橘
下ニ単物萌黄紬 紋所同断
同白郡内ちばん
(中略)
一 鼻紙袋萌黄羅紗うら金入り
一 印籠 但鳥のまき絵
右之通悪党仲間ニ而者異名日本左衛門与申候其身ハ曾て
名乗不申候
右之通之もの於有之者其所々ニ留置御料者御代官私領ハ
領主地頭江申出夫より江戸京大坂向寄奉行所へ可申達候尤
見及聞及候ハヽ其段可申出候若隠置後日脇より相知候ハヽ可為
曲事候
寅十月
右之趣可被相触候
■読み下し文
人相書きの事
十右衛門事
浜嶋庄兵衛
一、せひ(背)五尺八九寸程 小袖鯨さし三尺九寸程
一、歳弐拾九歳 見掛け三拾壱弐歳に相見え候
一、月額(さかやき)濃引疵壱寸五分程
一、色白、歯並び常の通り 一、鼻筋通り
一、目中細ク 一、皃おも長(面長)なる方
一、えり右の方え常かたき(傾き)罷りあり候
一、ひん(鬢)中ひん 中少しそり、元結十ヲ程まき
一、逃去り候節着用の品
こはく(琥珀)ひんろうし(檳榔子)わた(綿)入小袖
但紋所丸の内橘
下に単物萌黄紬、紋所同断
同白郡内ちばん(襦袢)
(中略)
一、鼻紙袋、萌黄羅紗(らしゃ)うら金入り
一、印籠 但鳥のまき(蒔)絵
右の通り悪党仲間にては異名日本左衛門と申し候、其の身は曾て
名乗り申さず候
右の通りのものこれ有るに於いては其の所々に留め置き、御料は御代官、私領は
領主地頭え申し出、それより江戸京大坂向寄(もより)奉行所へ申し達すべく候、尤
見及び聞き及び候わば其の段申し出づべく候、若し隠し置き、後日脇より相知れ候わば
曲事たるべく候
寅十月
右の趣相触れらるべく候
語句説明 月額=さかやき 通常月代と書く。江戸時代、成人の男性が額から頭上にかけて髪を剃ること。またその剃った部分のこと。 ひん=鬢=びん 頭の左右側面、耳際の髪。 こはく=琥珀 絹織物の一種である琥珀織のこと。緯糸(よこいと)の方向に低い畦がある平織物で、帯・袴地等に多く用いられた。 ひんろうし=檳榔子=びんろうじ ヤシ科の植物檳榔樹の果実。薬用・染色用とする。ここでは檳榔子染めで染めた赤みを帯びた暗黒色のこと。 ちばん=襦袢=じゅばん 羅紗=らしゃ 紡毛を密に織って起毛させた厚地の毛織物。 |
さすがにこれだけ特徴的な人物であれば江戸時代の人相書でも相当の有効性をもったでしょう。大勢の手下を率いて東海道筋を荒らしまわった強盗の首領、浜島庄兵衛は指名手配された翌年の延享4年(1747)正月、京都町奉行所に自首し、江戸へ護送された後、3月11日、江戸市中引き廻しの上打ち首となりました。
ところでこの人相書によれば浜島庄兵衛は仲間内で「日本左衛門」との異名をとっていたといいます。大きな名前です。すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、彼、浜島庄兵衛こそ、幕末の河竹黙阿弥作「白浪五人男」(正式名「青砥稿花紅彩画」)に登場する賊徒の首領、日本駄右衛門のモデルとなった大盗賊なのでした。
にんそう‐がき〔ニンサウ‐〕【人相書(き)】 犯罪者や行方不明者を捜すために、その顔つきの特徴などをかいて配布するもの。 デジタル大辞泉の解説 |
人相書の成立年代ははっきりしませんが、実際に整備されたのは寛保2年(1742)に成立した「公事方御定書」によるものとされています。しかし、全ての犯罪に適用された訳ではありませんでした(『徳川幕府事典』竹内誠編,東京堂出版,2105/1142/003よりより)。
人相書とは当該人物の顔つきや身なりを文章で箇条書にしたものであり、領主が出した人相書に絵で画いたものはない、とあります(「時代劇を読む~人相書から」神崎彰利(雑誌『本郷』第37号p8)より)。
なお、人相書が現在の様に面体を描く様になったのは明治期に入ってからとされています。『明治事物起源』によれば明治5年に小菅刑務所における、囚人脱走防止のための写真撮影が始まったと記されており、人相書の面体もこうした中で描かれる様になったのでしょう(前記『徳川幕府事典』より)。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000013884
人相書きを読んで、犯人を特定するのはさぞかし大変だったろうと推測できます。実際にこれで捕まったのかと思うほどです。
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雑貨(Tukuru ・nagomu) 0155-67-5988
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したっけ。
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この先生は、全国テレビでも紹介され、本も出版されている有名人ですが、身近であってみると普通のお爺ちゃんでした。
人相書きは、想像の世界ですから疑えばみんなそう見えて恐かったかも知れませんね^^
したっけ。
これは、一般庶民に知らせるというよりは、与力同心に知らせるためだったのだと思います。一般人は文字が読めませんし、暗記していられないと思います^^
したっけ。
いつもありがとうございます♪
昨日は講演会の後の先生の慰労会
などにも参加されて楽しい時間を過ご
されて良かったですね。
今と違って顔写真がありませんから
書かれているだけではどんな人が犯
人かわからなくて想像をしていても怖
くて夜などは眠れなかったでしょうね。
人ぞれぞれにイメージする顔が違って
探すのも大変でしょうね。
これだけ読んで頭に入れるのも大変だけど
文字を読める人ばかりではなかったでしょうから
逃げおうせてしまう悪人も多かったのかもですね。
人相書きは、文字で書かれていて、どれだけの想像力が必要だったかと思うと難しいですね。
しかし、この文章が残ったおかげで後世まで語り継がれるというのは、また皮肉なものですね^^
したっけ。
文字だけの人相書きだと
真剣に読んで想像をめぐらさないといけなかったでしょうね。
書くにも苦労されたでしょう。
こうして読むと、浜島庄兵衛って色白で鼻筋通って
なかなかのイケメンだったみたいですね^^
大盗賊も後の世まで語り継がれて本望でしょうか^^