年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市の謎が一つ解けた

2012年09月20日 | べったら市

棚橋正博先生の本を読んでいたら、べったら市を調べていたとき不明だった『藤問屋』が大伝馬町、小伝馬町付近にあった理由が判った。
 中央区日本橋本町は薬関係の会社が多い。これは江戸時代薬種商が中心地である本町付近に集まったからである。当初は薬種商が砂糖をついでに商っていたが次第に砂糖の扱い量が増え、隣地のところに砂糖を扱う問屋が増えた。
 江戸時代の日本産の砂糖は少なく輸入された砂糖は南方アジア、台湾から船に積まれてきた。船を安定させるため藤製の籠に入れられて日本に運ばれた。籠入りのまま長崎で検量され、大坂を経由し江戸に届いた。砂糖を入れた藤製の籠は水桶の中で踏みつけると中にしみこんだ砂糖分が押し出され、煮詰められ水あめ等になったと言う。残った容器の藤製の籠は藤細工の素材として利用されたようだ。つまり『藤問屋』は本町付近にあった砂糖を扱う商人から出る廃棄物再生事業でもあった。江戸時代は帆船の時代で船のバランスをとるため重いものを積み込む必要があった。しかし明治になって石炭が積み込むようになれば藤製の籠は不必要となり、廃棄物が出なくなる。明治の中頃には大伝馬町界隈から藤問屋が消えた理由だと思われる。(山東京伝の黄表紙を読む223頁)
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