震災で被災していた郡山市開成館を訪ねる。まだ10時前だったが館内の人頼んで入れてもらい、暑いので中のベンチに座って時間を過ごす。今見学できるのは安積開拓官舎と開拓民小屋で特に開拓民の小屋は時代が不明だが実に粗末な家だ。この様な小屋が大正時代まで続いていたのだろうか。久米正雄のことは郡山のことが気になるまで知らなかった。彼もやはり三島通庸の影響を受けた人だった。父が不慮の死を遂げ、郡山で少年時代を過ごした。久米の母は立岩一郎の娘だった。
石井研堂が少年時代に通った郡山市立金透小学校と石井の菩提寺、如宝寺,安積疎水工事とかの位置関係が書物から出て、立体的に感じることができた。石井の心の中にある福島はどうだったのだろうか?大久保利通の暗殺で一時は安積疎水事業は危機を迎えたが郡山商人の力で明治15年8月試験通水、翌16年6月灌漑事業を始める。この明治15年頃から福島県政界は県令三島通庸と福島県自由党との衝突が激しくなっていた時期った。当時の郡山市民は大規模な土木工事で潤っていて、どちらかといえば明治政府寄りだったという。
今年の少雨も疎水があるので郡山の田んぼは心配ないだろう。郡山は少雨の地域という。