避けていた特攻に立ち向かうとき、どこを基準として良いのかわからないで60年以上経った。昭和30年代、埼玉の親族の法事の席で犬死論が記憶に残っていてとても世間の英霊論と言う雰囲気でなかった。このことから他の人には特攻遺族と言うことはごく最近まで無かった。今日のネットの文である海軍の生き残りの人の文章を見て同感した。(惜しい人たちを大勢亡くしたと思いますね。体格はいい、頭はいい、器量はいい、世のなかにはこんな人もおるのかな、と思うようなすばらしい若者たちが次から次へと死んでいって、それがいまでも残念です。)
親族の中での叔父への思い出はこの文章のようだった。埼玉師範学校を出て教師になる夢が戦争の激化で村の子供たちを守るため、負けと知りつつ特攻したようだ。私の父と最後に横須賀海軍基地内で面会し、何を話したのだろうか。戦後の法事の席で犬死論が出ているときに父は反感を持っていたようだ。昭和28年ごろに生まれた3男は叔父の台湾からの特攻作戦名を子供の名前としてつけたようだ。母はこの父の隠れた意志を知らず、昭和30年に父が死んだ後、家庭裁判所で長男でもないのに特攻作戦名の後に一と言う字を付け足した。3男の友人からよく長男で無いのに一と言うこと聞かれていたようだ。