夢見るババアの雑談室

たまに読んだ本や観た映画やドラマの感想も入ります
ほぼ身辺雑記です

佐藤賢一著「小説フランス革命⑤ 議会の迷走」集英社文庫

2012-10-03 21:53:24 | 本と雑誌

ミラボーはひそかにマリー・アントワネットに会う
フランス王が革命と共にある状態をつくろうとしていた

デムーランの結婚の為に動いたり 病身を押して動く

フランス革命はどうなるのか

混乱の中にある


佐藤賢一著「小説フランス革命④ 聖者の戦い」集英社文庫

2012-10-03 16:51:21 | 本と雑誌

佐藤賢一著「小説フランス革命④ 聖者の戦い」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命④ 聖者の戦い」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命④ 聖者の戦い」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命④ 聖者の戦い」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命④ 聖者の戦い」集英社文庫
ミラボー伯と付き合いあるオータン司教のタレイランが財政面な問題解決に出てくる
ダントンはロベスピエールの話を聞き応援を決意

ロベスピエールはミラボー伯のもとを離れる

王の扱いには 一人一人思いが違った


佐藤賢一著「小説フランス革命③ バスティーユの陥落」集英社文庫

2012-10-03 16:42:55 | 本と雑誌

佐藤賢一著「小説フランス革命③ バスティーユの陥落」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命③ バスティーユの陥落」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命③ バスティーユの陥落」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命③ バスティーユの陥落」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命③ バスティーユの陥落」集英社文庫
蜂起したものの このままではただの暴動で終わるかもしれない
次はどうする
バスティーユを落とし
漫画「ベルサイユのバラ」では ここでオスカル(漫画における架空の人物)が死んでしまうのです

女達はパンを食べ物を求め 国王一家をパリへ連れてくる

ミラボー伯は体調に不安を抱えていた


佐藤賢一著「小説フランス革命② パリの蜂起」集英社文庫

2012-10-03 16:31:21 | 本と雑誌

佐藤賢一著「小説フランス革命② パリの蜂起」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命② パリの蜂起」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命② パリの蜂起」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命② パリの蜂起」集英社文庫
佐藤賢一著「小説フランス革命② パリの蜂起」集英社文庫
ミラボー伯は侯爵の父の死を知る
ミラボー伯を醜いと嫌い 廃嫡の手続きをとり 投獄もした

自分の成功を見せつけてやりたかったのにー

ロベスピエールはミラボー伯にお供のようについて歩いている

ミラボー伯はロベスピエールの後輩の弁護士デムーランをたきつけ 行動させる
デムーランの言葉の下 パリの民衆は蜂起した


食い意地の人

2012-10-03 16:16:37 | 子供のこと身辺雑記

食い意地の人
長男が体調崩し病院へ
それが午後2時近くまでかかり
終わった頃には「お腹減ったね 」
「疲れた~ 病院も体力」

あれこれ検査の結果
風邪からのようで 処方箋出ました

娘も休みで留守番してくれていたから 娘を迎えに行って何か食べよ♪ってことになり

行きつけの近所のお蕎麦屋さんへ

で 料理が届いたら 写真撮って ブログ・ネタにしようと思っていたのにー

料理見たら忘れました

食べ終わってから気がついて

だから壁を写します(笑)

寿命が細く長く続くように蕎麦を食べたーって由来など書かれております

ちょうど新蕎麦の季節なのですが

私は大盛り蕎麦とミニ天丼の定食にバナナジュース

娘が天ぷら皿蕎麦
長男が炙りサーモン丼

長男だけ蕎麦を食べて無かったのですね
娘が長男に言いました
「(寿命が)細かく小さく ぷつんぷつん千切れるように・・・ご飯粒食べたんやな」


「強行帰国  忘れ去られた花嫁たち」 2012年10月1日放送

2012-10-03 02:08:12 | テレビ番組

日中国交正常から40年ー

かつて12人のおばあちゃんが 成田空港に篭城 祖国への永住帰国を国に訴えた事件があった

86歳の女性は振り返る -日本にいれば貧しい家は辛い 地主がバカにしてね それで満州行こうって・・・

1931年 満州事変

満州国 都市計画に基づく街づくり

500万人移住

開拓民には妻が必要 国策としての「大陸の花嫁」

日中戦争ー太平洋戦争へ

日本とは戦争しない条約を結んでいたソ連だったが 日本の敗戦が決まると終戦しているのに

ーロシアの兵隊が来た みんな恐くなって 家族が中国で自殺

胸に銃置いて・・・ちょうど俳優の田宮二郎さんがされた猟銃自殺のような格好で

取り残された女性は・・・生きるために!中国男性と結婚するしかなかった

ところが日本政府の判断は{自らの意志で中国に残った}という事実とかけ離れたものだった

「絶対違います 私達は いつも ずっと絶対 国に帰りたかった」

戦後浪曲師として人気を博した芸名国友忠という男がいる 戦時中彼は堪能な語学を生かし中国でゲリラ戦をしていた

私は最初のドキュメント部分だけで 泣きそうでした

これは現実のドキュメント部分とドラマで かつてあったことを伝えようという番組です

1941年(昭和16年 夏)中国 河北省

国友(阿部力)22歳 敵に囲まれている

「投降しましょう」という仲間達に 国友は言う「あの崖からなら(逃げられる可能性がある)

俺が食い止める いいから行け! こんな所で死ねるか!」

中国兵相手に戦う国友

沢村弘子(前田敦子)の声でナレーターーおじさん(国友)は中国人になりすまし 日本軍の作戦に従事していたー

負傷しながら逃げる国友は 逃がした仲間の死体を見つける

死体の目を閉じてやる 他には何もしてやれないから

天を仰ぎ 月を見る国友

「生きて 生きて帰ってやる!」

弘子ーその言葉通り おじさんは生きて日本に帰ってきたー

1981年(昭和56年 3月) 国友62歳

国友(渡哲也) 沢村豊子(藤吉久美子)の三味線で浪曲を歌っている

音がして声が止む

部屋の戸を開けて まだ学生の弘子「ちょっとラケットがひっかかりまして すみませんでした」

国友「おかえりなさい」

弘子「ただいま帰りました」と頭を下げる

国友 何もなかったかのように浪曲を再開

弘子ー母が あい三味線をひいていた縁で おじちゃんの牧場で一家は暮らしていた

血縁関係はないけれど 私達の躾には 親以上におじちゃんは厳しかったー

けれど国友は自分が貰った自分の好物でも「これでじゅうぶん」と沢村一家に「食べなさい」と分けてくれるのだった

弘子ー偏屈で頑固親父 でも私は そんなおじちゃんが好きだった

別々に暮らすようになってからも

毎晩8時の囲碁は 私とおじちゃんの日課だったー

呼ばれて食後に慌てて 弘子が部屋へ行くと 国友「弘子 お前はほっぺで飯食うのか」

弘子が頬につけたご飯粒を取って食べたりする

国友「おぬし そこに置くのか いいな 後悔はないな」

弘子「はい」

国友「これにて 一一件落着」

弘子「また 負けた」

弘子は負けず嫌い また1回とせがむ

国友「お前は顔に出すぎる」

部屋のテレビに中国残留孤児のニュース

国友「弘子 この続きは また明日だ」

国友は窓から浮かぶ月を見ている 思い出す「生きて 生きて帰ってやる」

あの中国での夜を

戦後35年が過ぎていた 中国残留孤児の肉親との再会

何故 多くの日本人が中国に取り残されたのか?

1980年代 日本人の遺骨が中国の満州で多く見つかっている ここで集団自決があったのだ

満州開拓団の日本人が集団自決を図った

鈴木幸子75際はその生き残りである 27万人の開拓民がいた

昭和20年8月9日ソ連軍が突然攻めてきた

死んだ人々は東を向いていた 祖国日本へ向かう道 遺体の多くは日本の方角を向いていた

麻山地区では421人が死んだ

まず男達が女子供を殺していった

その時 鈴木さんは10歳

子供は目隠しをされていた 奇跡的に鈴木さんには弾が当たらなかった

男達は「苦しんでいる人はいませんか」と声をあっけていたという

バアンという音が聞こえる 目隠ししていても音は消せない

鈴木さんの二人の兄と妹も殺された

今も思い出すのは 母の顎に弾が当たったカサっという音

7人の子供が生き残り 他の5人は中国人の養子となって生きた

2800人残留孤児

13歳以上は残留婦人と呼ばれた

86歳の斉藤さと子は 終戦時19歳

「収容所は地獄だった 夜が明けると あそこでもここでも日本人が死んでいた

遺体を片付けるのが仕事」

4000人以上の残留婦人

「日本に帰りたい・・・・いつ帰れるんだろう 早く帰りたいな」

侵略者である日本人 

「この公園には 日本人がいて 東京音頭を歌いだすと みんな立ち上がり踊りだす」

それが少しは楽しい思い出なのだろうか 中国人におびえつつ・・・・

忘れ去られた中国残留婦人

春陽会は一時帰国の支援から始める 代表者の名前は国友忠

私財を投じて・・・牧場を抵当に入れ 時に売り・・・金を作り・・・・・

残留婦人への国の予算の少なさに国友は「けしからん」と怒っていた

弘子「おじさん一人じゃ大変そうだし -」

春陽会を手伝うと弘子が言い出す 母親はせっかくいい仕事についたのにもったいないーと言うが

弘子「現在(いま)ってみんな自分の損得ばかり考えている

でも おじさんは違う

私ね おじさんの見てる景色を見てみたいの」

国は やれ中国政府からクレームついたから延期とか いやがらせをしてくる

国友「みんな高齢なんですよ そんなこと言っていたら 帰ってこれない」

春陽会を手伝うことで弘子と弘子の母親「今日からよろしくお願いします」と挨拶

国友「マスコミが取り上げてくれてね 嬉しいことです

日本人も捨てたもんじゃない 弘子もこうして手伝ってくれる

よろしく頼むよ」

日本が満州国をつくる 男達には伴侶が必要という国策

早く移住して沢山子供を産んでください

人を増やすため

政府の試算 68169人と7万人近くが必要

「大陸花嫁の歌」も作られる

お芝居ー劇も上演される 現在 主演女優の藤井いち子は91歳になってる

劇の題は「心の赤紙」-花嫁を送る運動の宣伝に使われた

86歳の栗原貞子は言う「国は何で人を騙したのか」

彼女は18歳で大陸花嫁になった

当時は大豆畑が多かったのだと言う

各地に訓練所があった 「お国のため」半年間 開拓実習に「開拓女塾」と呼ばれていた

栗原さんがいたところでは 二十歳前後の女性50人 実際は花嫁養成所だったのだ

大和民族の純血を保持するための

栗原さんは語学の勉強と「広い広い満州を見たい気持ち」で満州へ

ところがわずか三ヶ月で所長が結婚話を持ち出す

かわいそうな男性のために「お嫁さんがいなきゃ困るじゃないか」

不本意な婚姻を強いられる

黒龍江省

栗原さんはここで残留婦人となる 夫と死に別れ妊娠していた

「お腹の子を守りたい その一心で」中国男性と結婚するが 地方の農家の暮らしは楽ではない

生きるのがやっと

ある物を食べるだけ 自分で作った野菜 とうもろこしが主食

よくもここまで生きてこれた 6人の子供を抱え

今日は帰ろうか 明日は帰ろうか けれど身元引受人がいない

支援金がもらえない 身元引受人がいないと

お金が一銭もない・・・帰る途が てだてがなかった

親族は身元引受人になることを拒否した

「いうことを聞かないから・・・・こういう目にあうんだ」

永住帰国など 夢のまた夢

一時帰国が許されても 再び中国へ帰るのが前提

それでも春陽会の里帰り支援は6回目を迎えていた

中国残留婦人だった斉藤さと志(角替和枝)は日本への永住帰国が叶い 春陽会へ協力している

弘子「ふるさとの家 いよいよ今日からですね」

国友は残留婦人の受け入れ施設として宿泊所を建てていた

吉田は国友の姿を両手を合わせ拝んでいる

畳に頬当てたりさすったりして感触や匂いを確かめている

他のみんなも用意された浴衣を着て 娘時代にかえったよう・・・と喜んでいる

吉田「懐かしいです 帰ってこられて嬉しいです」

夜になり 

弘子「おじちゃん チェックお願い」と書類を渡す

国友は月を見ていた

弘子「満月きれい やっぱり日本で見る月のほうが綺麗なのかな

あの人達からしたら 今夜の満月は特別なんだろうな

おじちゃん おじちゃんがどうしてあの人たちを助けたいのか ちょっとだけ分かった気がする」

あんなに日本にいられることが嬉しいと喜んでいた吉田が自殺する

吉田は死ぬつもりで日本に来たのだ 日本で死にたかったのだ 中国には戻りたくなかった

日本人だから日本で死にたい

他の人たちが「先生ごめんなさい」と言うも

国友「みなさんが謝ることではない」

斉藤が言う 吉田はずっと日本に帰るのをためらっていた

それが「今回は急に帰国したいって」

吉田には先に日本へ帰った養子がいた こんな年寄り 引き受けるの迷惑でしょう

こうして帰れた それでじゅうぶんと 吉田は話していたと言う

国際結婚ー現地民の生活に同化していくー政府の見解

鈴木あさみは福井県敦賀港から大陸へ

国は成人した子供については支援しない

「家族を自由に連れ帰るのは難しい」

元・厚生大臣の河島雄二は言う「それぞれつながる地域 日本社会での孤立を危惧

集団でいわば異質な集団が拠点をおいて暮らせばマイナスも出てくる」

よくわからない理屈に思えるが

鈴木さんはいつも歌っていた 「旅のつばくろ」を 

中国では夕日が赤い

日本を偲び 望郷の思いこめ歌っていたという

さてドラマでは吉田さんの遺骨は量が少なかったそうだ 栄養状態が悪かったから

吉田の葬儀で 国友 後姿を見せ声上げて泣いている おさえきれない慟哭

弘子は心をいためる

そこへ厚生省の役人「色々と大変でしたね」悔やみの言葉を言う

そして「このたびの費用をどういう名目でー」と無神経に続けるのだ

国友「吉田さんには この日本で やすらかに眠ってほしいと思います」

弘子「帰って 帰ってください こんなとこまで来て そんな話しないで

おじちゃんが どんな思いで見送ったかわからない・・・」

国友「全部 こちらでやります お引取りください」

弘子「おじちゃん どうして何も言わないの 悔しくないんですか」

国友は精力的に役人達と話し合いの場を持つが

国友「永住帰国の途を開いてほしい 色々条件をつけられては帰国はむずかしい

親族の同意が必要というのは人権侵害です」

だが役人たちは「そう簡単にはいかない 税金の使途には国民の同意が」

国友「国民の意見・・・・おっしゃるとおりです

今日は有難うございます」

弘子は嘆く

ことあるごとに陳情を繰り返すも有耶無耶にされる 霧の中でもがいている気分だと

弘子「本当に読んでいるんですかね 陳情書」

国友「囲碁で一番重要なことは

いかにいい布石を打つかということ 丁寧に布石を打てば最後の一手で大きく局面が開けることもある」

1993年春 取材を受けている国友

国友「こちらこそ有難うございました みんながあなたくらい熱心だと嬉しいんですが」

嬉しそうに女性記者「今回参加の竹越さんは 今までの方と違いますよね」

国友は弘子に記者を駅まで送るように言いつけ 弘子車の鍵を確認している

1923年生まれ北海道の小樽出身の竹越リエは 軍人に嫁いだ未亡人

中国人と再婚し3人の子供がある

リエが結婚した中国人・李映中はインテリだった

ゆえに文化大革命でインテリであることを批判され首から木の札・・板をさげられリンチにあう

リエの長女は話す「おかあさんはすごい」と尊敬している

カレー おにぎり てんぷらを作ってくれた母

母は幽閉された父親を救出に行った

父親の首の札投げ捨て連れて帰った

長女は言う「おかあさん強い」

竹越リエは大勢の子や孫と暮らしており 永住帰国にはバツをつけていた

国友は今までの残留婦人を「日本人であることで迫害されてひっそり隠れるように生きてきたから

立ち上がることを恐れる 生き延びるには ただ耐えるしか途がなかった 虐げられて抗う気持ちを失う」と見ていた

帰国した残留婦人は国友に縋る「私達 中国に帰りたくないんです 日本にいさせてください」

国友「皆さんが日本に帰りたい 永住したいと いくら私に頼んでも何も変わりません

どうして国に訴えないんですか

国は 厚生省は皆さんが帰りたくないと思っています」

「どうやって どうすればいいんですか」と尋ねられ

国友「皆さんは日本人です いろんな条件をつけられて 日本に帰れないなんて間違っています

恐がらないで自分で立ち上がるんです

皆さんが動けば必ず事態は変わるんです」

国友は竹越リエを呼び別室で話した

国友「行動を起こすんです あなたは誰よりも分かっているはず

残留婦人の苦しみを救えるのは あなたしかいない

あなたならできる

私が必ず皆さんを守ります

但し 一つだけ約束してください」

他の残留婦人たちは 竹越が国友とどんな話をしたか知りたい

「私達は日本人です ふるさとで死にたいんです」

竹越「わかりました 誰かがやらないといけないんです そうでしょう

私がなんとかします」

1993年 春

竹越は中国で行動を共にする仲間を集め始める

佐々木久栄 長春駅で竹越と会う「日本に帰るって言うから私も仲間にって」

荒木美智子に宮ざきあさみ「雨降る日は心から寂しい その日はふるさとを思い泣きます」

年老いた残留婦人に残された時間は多くなかった

身元引受人なしに強行帰国 永住帰国させる!

佐々木「自分の国に帰るのが当たり前」

決行の時期

1993年7月18日 自民党大敗 政権交代

第79代首相 細川護煕

竹越から国友へ手紙が来る

中国へ残していく家族とは 二度と会えないかもしれない その覚悟をしてください

9月2日 北京市

弘子ーそしていよいよ決行の日が やってきたー

心配するみんなに竹越「大丈夫よ」落ち着かせるように言う

政治家からの手紙を皮肉っぽく読み上げる弘子「頑張ってくださいだって あんたが頑張れっての」

国友「今日は店仕舞いだ できることは全部やった 弘子ちょっと付き合え」

碁を打つ

国友の信念「当たり前だ 戦うからには 勝たなきゃ意味がない」

斉藤から国友に電話「出国カードが手元にないって パスポートでいいって言われたって」

竹越は中国で仲間に話す「いいえ ダメです (国友)先生には頼りません 明日公安と掛け合ってみます」

国友から竹越は言われていた「一つ約束してください 私と連絡を取り合っていることは 誰にも話さないでください

世間が同情すれば 国はあなた達を放っておけなくなる」

国友は懇意の女性記者に連絡を入れる「あさって9月5日に12名 残留婦人が帰って来ます 日本で死にたいと言っています

あさって成田空港へ行けばわかります」

国友は用心し「成田には顔の知られていない西田さんに行ってもらう」

空港で竹越は西田に話す「総理に連絡取ってください 私たち帰国したいんです」

不安がる仲間には「皆さん聞いてください 大丈夫です 警察につかまるような理由はありません

もう一晩 ここで頑張れば 必ず道は開けます 2000人以上の人が日本へ帰れなくなります

私たちが ここでくじけたら」

竹越はマスコミに頼む「取材してください 取材してください」

女性記者は記事にしようと頑張る「彼女達は決死の覚悟で 成田空港へ篭城しているんですよ」

取材陣が集まり騒ぎになる

竹越は用意してきた陳情文を読み上げる

「私たちは日本国民です いつでも日本に帰れるはずです

これ以上待っていたら 生きて日本に帰れません

私たちに一日も早く日本へ帰る喜びを与えてくれますよう お願いします」

総理大臣は出てこない なかなか会おうとしない

竹越「私たちが根負けすると思ったら 大きな間違いです」

残留婦人の一人が倒れる

ニュースで見た人々から 春陽会へも様々な電話がかかってくる

「どうして助けに行かないのか 空港へ行ってやらないのか 」

抗議の電話も いままでよく問題がわかっていませんでしたーという支援申し込みの電話もある

反響が大きい

「頼みますよ なんとかしてあげて いったい国は何をやっているのかしら」

遂に武村官房長官の会見

弘子ー遂に国が動いたー

残留婦人たちは国友に感謝を言うが

国友「私は何もしていません みんなが頑張ったんです

(竹越に向かって)よくやってくださいました ご苦労様です」

竹越「これで これで日本で死ぬことができる」

国友「何を言っているんですか 皆さんは死ぬために日本に帰ってきたんじゃない 

これから しっかりと生きるんです

(竹越に) お帰りなさい」

竹越「はい はい・・・」と繰り返し頷く

翌年 一つの法案成立 中国帰国支援

支えるのが国の責務となる

12人のおばあちゃん達の頑張りが 実を結んだ

1994年には祝賀会も行われ 4年後「ことは成就した」と国友は春陽会を解散した

2012年 夏

沢村豊子は三味線を現役で弾いている

東京都府中市 芸名 国友忠の墓はある 2005年 肺がんで死亡 86歳

国友の意志で その死まで強行帰国の立案者であることは伏せられていた

69歳の竹越リエ「世間を騒がせました私たちにも関わらず 各方面から励ましの言葉 有難うございます」

そうして12人は それぞれの土地に別れていった

強行帰国から19年経ち長崎で暮らす荒木さんは言う「海に飛び込んででも死んでも中国には帰らない覚悟」だったと

荒木さんの孫の愛子さんは25歳 日本人男性と結婚する

名古屋市には竹越さん一家が住んだアパートがある

夫の李映中さんは91歳 高齢の夫婦は別々の施設で暮らしている

89歳のリエはコーヒーが好き 日本にあこがれた味だと言う

彼女は政府の援助は受けないで 独立生活をした それが彼女の意地

こうして帰りたいのに帰れない残留婦人はいなくなった

戦争の負の遺産の中国残留婦人問題は 強行帰国という行為により清算された

こうして番組は終わったが しかし私は思う

帰りたいと思いながら死んでいった方も 帰れないまま死んでいった方々もおられるのだと

私たちは・・・・忘れてはいけない