著者の堀田季何さんは、俳人であり歌人でもある。
だから、俳句も短歌もよく知っている方だ。
その彼女が、俳句や短歌について、その歴史やら楽しみ方やらを書いてくれたのがこの本。
図書館で新刊として紹介されていたから、借りてきた。
本の前半では、和歌から俳句、川柳となるまでの歴史が書かれている。
本書のすばらしいところは、必ず参考となる歌や句が載っているということ。
だから、言わんとしていることが具体的にわかって来る。
特にいいなあと思ったのは、俳句も短歌も、とにかく「自由でいいのですよ」ということ。
例えば、俳句は「五七五」、短歌は「五七五七七」の字数だと思っている。
だが、その字数は別に守らなくてもいい。
字余りとか字足らずとかよく言ったが、そうでなくてもいいと言っている。
現に、字余りゆえに俳句なのか短歌なのかわからないものもある。
童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日日和とはなれり
…これは33音で成っているが、俳句なのだとか。
何かせねばおさまらぬ手がこうして石をにぎりしめたり
…これは27音だが、短歌なのだそうだ。
こんなふうに具体的に示されると、区別できなくなってしまう。
また、俳句には季語がなくてはいけないと思っていた。
だけど、それがなくても成り立つ作品もある。
季語という言葉は、明治生まれなのだそうだ。
著者は、主張している。
俳句を俳句たらしめるものは、日本語の場合、
一 季語的な、切れで活きるキーワード(場合によってはキーフレーズでもいい)
二 切れ
三 短さ(定型なら満たすが、定型に限らない)
以上の三つであろうと私には思われます。
なるほどなあ。
もう一つ、響いた言葉。
俳句は、その短さゆえ、読者が銘々完成させる詩なのです。
俳句は、読んだ読者が、自分なりに感じたことをもとに、詩として完成させるものだという考え方には、共感した。
また、短歌や俳句は、まずは自分の実体験に基づくものでなくてはならないという考え方があるが、著者は、そこにこだわらなくてもいいとも言っている。
そうはいうけど、やはり体験に基づくものは説得力があるのだなあ、と読み進んでから思った。
恋の歌についてもページを割いているのだが、与謝野晶子の歌からは、実体験からくるのだろう、愛欲に関する圧倒的な迫力が伝わって来る。
本の後半には、外国人の作る句や歌についてや、ジェンダー的な考察など、現代的な視点からも書かれていたのは興味深い。
さらに、現代的と言えば、AIについても言及している。
今後、AIによる作品が作られることもあるようになるかもしれない。
だが、確かに1つや2つだとよく見える作品にはなるだろうけれども、作品が多くなるほど意外な言葉と言葉の組み合わせが生み出される偶然性があまり望めなくなり、「なんか前に見たような、つまんない作品ばっかり」になるかもしれないということも、述べている。
なるほどなあ、と思えた。
読んで思ったことは、俳句や短歌を作るなら、自由でいいんだよ、ということ。
専門的な内容も一部入れながらも、一般人である私にもわかりやすく解説されていて面白かった。