kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

じゃっどん西郷どん16

2018-06-17 12:41:04 | 西郷どん

 

西郷隆盛は、名前を何度か変えています

奄美大島に潜居させられた時は、菊池源吾

大久保一蔵(正助)によって薩摩に呼び戻されると、大島三右衛門

大きな転換点に立つごとに変えていきました

 

その名前ごとに納得できないことを、西郷どんはしている

と、私は思っています

「西郷吉之助」の月照さんとの入水

どれほどの決心だったのか分からないけど、自分だけ生き残るなんて…

無念な思いだけが残ったのでは

 

 

「菊池源吾」の奄美大島の娘との結婚し、結局は別れの時を向かえた…

アンゴのままのほうが傷を深くせずに済んだかもしれない

 

そんな気持ちでドラマ「西郷どん」を見ています

西郷どん、まこち、腹立たしか気持ち分かってくいやんせ

 

結局大久保によって奄美大島から薩摩に呼び戻された…

呼び戻されたことを私は諸手を挙げて喜べなかったが、

西郷どんは、薩摩にとってどうしても必要な人、と大久保は言ってるけど…

 

腐敗の進んだ幕府は一向に改善されず、

不満の声は倒幕へと、藩士たちを逸らせたのでした

 

大久保一蔵は、 

血気に逸る若い薩摩藩士をいさめることが自分では出来ないと、

西郷どんを薩摩に帰還させることに手を尽くしたのでした

西郷どんは、生前の島津斉彬に大いに期待されてました

「明日からおまえが我になれ」

とまで言われてました

 

西郷どんは太かお方でごあんそ♪

 

まずは、薩摩の若い藩士、その中には弟の西郷もいましたが、

説得をなんとか聞き入れてくれました

倒幕のために京へ向かって倒したところで

そのあとは誰がどうする?この日本を!

説得力がありました

斉彬公なら、日本を腐敗から救う術があったかも…

 

早逝が悔やまれます

 

じゃっどん、西郷どん、若者を説得したまではよかったけれど、

国父となった島津久光が!

 

「幕政を正し世の中を変えてやる」

と意気込んでいた久光に、西郷どんは久光では無理だと

正面切って言ってしまいました

それはそれは、大久保さんも焦ったでしょうね

西郷どんは、更に

久光には幕府にも他藩にも同志がいないとか、

慶喜たちに会ったこともないとか、言い放つ始末

これが、西郷どんの一本気なところなのでしょうか?

何だか、悪い予感がします

薩摩を出たことのない久光ですが、「地ごろ」扱いされたと、

激怒です

 

斉彬のいた頃、久光は斉彬を慕っていましたし、

その才能には尊敬の念を持っていたのに…

 

確か、お父さんの斉興に斉彬のようにはなれないとか言われ、

自尊心をずたずたにされたことがありましたが、

あれから、荒んできたかな

 

さあ、西郷どん、久光がどう出るのか

ただでは済まないでしょうね

せっかく薩摩に戻れたのに、どうなるのやら

 

次々、南国にやって来る台風のように振り回しますが、

 

西郷どん、気張いやんせ!

 

 

 

ところで、この頃島津藩は斉彬の造った集成館の事業が

上手く行って、武器をはじめいろいろな物を造っていたとか

そのおかげで、久光は京へ兵を送れたようです

 

先日鹿児島へ行って、集成館の跡を見ました

 

島津氏の館、「仙厳園」の一角に

第28代島津斉彬公は、日本最初の洋式工場群を設置しました

今は、「明治日本の産業革命遺産」として

世界文化遺産に登録されています

 

 

尚古集成館 本館

 

「旧集成館機械工場」です

今は島津家八百年の歴史文化を紹介する博物館になっています

 

 

尚古集成館の別館です

島津家代々の当主が紹介されたり、

今も残る美術品などが展示されています

集成館は撮影禁止で、残念でしたが、さすが、江戸時代の大藩

素晴らしい調度品、書画などがいっぱいでした

本館のほうは、大きな機械から、小さな機械まで、

こちらも、立派なものでした

武器にも力を入れていたのが分かります

というか、武器がいちばん、だった?

大変失礼な言い方ですが、日本の南の端の方の藩なのに、

これだけのものを揃えるだけの莫大な力があったのですね

すごいです

 

今度は、その薩摩藩の財力の源について、勉強してみたいと思います

 

では。

 

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じゃっどん西郷どん15

2018-06-12 17:38:27 | 西郷どん

 

鹿児島のこと、早くお話したいのに10日も経ってしまいました

うかうかしてると、記憶が全部飛んでしまいます

気持ちを伝えたいなら新鮮なうちですよね

でも、何をしても遅い私には、それは望めません(@_@。

 

さて、 

自宅から鹿児島へは、新幹線で4時間弱で着きました

 新幹線と言えば、ものすごいことが起きましたね

 

「座面を外して、それを盾にしてください!」

 

12号車の混乱の中、

これを車掌さんは、乗客の皆さんに言ったとニュースで知りました

心に留めておこう!

そう思いましたが、

用心深くしていても、狭い車両の中でこんなことに遭遇したなら…

 

 

また 脱線しました、あ、私の話のことです(^^;)

 

今回は、島津家のお屋敷だった「仙厳園」にあった、

斉彬公の肝いりの施設を見て頂けますか? 

 

 

 

この石垣は、「反射炉」の跡です

 

斉彬公は、大おじいさんの島津重豪(しげひで)の影響で蘭学に傾倒し、

西洋文明に憧れていたことはいたんですが…

考えは一歩進めて、日本が欧米諸国に対抗するために、

欧米の文明を取り入れてようとしていました。エライ!さすが♪

 

そんな先見の明のあった島津斉彬は、

他藩に先駆けて近代化・工業化に取り組みました、そして

 

「洋式工場群・集成館」

 

を磯の仙厳園に築きました

 

まず、「反射炉」 

金属融解炉のことで、鉄を精製し鉄製大砲などを鋳造しました

それまでは、衝撃に弱い「硬い鉄」でしたので、

鉄の炭素の量を減らし粘り気のある「軟らかい鉄」に

変える必要があった

更に、そのためには反射炉を形成する耐火煉瓦の開発も必要でした

 

そういえば、斉彬公が反射炉の状態を見に来た時、

煉瓦が割れてしまうのを見て、もっと固い煉瓦をと、

命令していましたね

あの時のお殿様の激昂は忘れられないです

 

実はこの反射炉、技術を教えてくれる者も、既存の建物もなく、

オランダの書物を参考に苦労して築きました

すごい才能ですよね!

 

この耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど

思わぬ形で日本の西洋化にも貢献していくことになりました

今残る明治の建築物は、煉瓦造りが多いですよね

 

現在反射炉は写真の石垣の土台だけしか残っていませんが

「維新ふるさと館」で模型がありましたので、

 

反射炉、土台の上にこの施設がそびえていたのですね~

高さ、20mあったそうです

 

そして、ここで鋳造された代表的なものが

 

80ポンドカノン砲(2分の1模型) 維新ふるさと館にて

 

砲弾の重さが80ポンド(約36kg)

砲の長さが4m

 

薩英戦争では、150ポンドのボンカノン砲やいろいろな大砲が使われ、

敵国イギリスは、アームストロング砲という最新のものを

薩英戦争の実戦で初めて使用したということです

 

 

中国でのアヘン戦争などで欧米諸国がアジアの植民地化を進め出し

琉球や薩摩に異国船が度々来航するようになり、

斉彬公は危機感を持ち「富国強兵と殖産興業」の藩政改革を行ったのでした

蘭癖などという言葉で片付けてはならないですよね

 

が、志なかばで亡くなったことは、とても残念でした

 

 大河ドラマ「西郷どん」で斉彬は大活躍でした

個人的な気持ちではありますが、

西郷どんより、斉彬さんが輝いていました

この方の藩に及ぼしたものは大きかったですね

鹿児島の街を、少し見ましたが、

斉彬公を祭神としてお祀りされてる神社もあったし、

この方は、薩摩人にとって、神様なんですね

 

 

 

1467年の応仁の乱を皮切りに戦国時代は延々と続きました

やがて、

徳川家をリーダーに、太平の世になりましたが、

さすがに、エンドレスではなかった… 

江戸幕府を築いてほぼ260年後、とうとう迎えた幕末、

幕末の乱世は藩にとって、戦国時代の再来みたいなもの?

 

もう、刀や槍を振り回すだけでは何ともならない

海外の強国がやって来ているし…

 

もし、斉彬公がもう少し生きていたなら、

日本はまた違う道を進んでいたのでしょうか…

 

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じゃっどん西郷どん14

2018-06-03 18:20:07 | 西郷どん

 

西郷どんの故郷の桜ん島は、怒っちょりもす

 

5月30日、鹿児島市の仙厳園(磯御殿)に行ってきましたが、

見学している間に、何度か灰色の噴煙が吹き上がるのを見ました

距離があるので、ゆっくりもくもくと上がって見えました

音も聞こえませんでした

 

 

 

今の日本に業を煮やして噴火したのか、或いは歓迎の印か

地元の方が、数日前から噴火しているとおっしゃってました

 

辺りはかすんで、車、屋根、ベンチ、手すりや花、葉に

灰が積もって、何だか枯れそうな色に見えました

白い紫陽花もこの通り

 

 

この上、雨が降ろうものなら、大変だそうです

きれいに灰を流してくれるなんて、もっての外

灰の混じった雨が降るから、そこら中ドロドロになるとか

それも、地元の方から聞きましたよ

 

「克灰袋」という黄色い袋に降った灰を入れて、その置き場所に置いてありました

回収車が来るのでしょうか

この、克灰袋、持ってみましたが、

重たい!

たぶん、砂より重たいです

桜ん島ん眺めはまっことよかですが、灰には苦労があるんですね…

 

 この写真の左下の砂利の部分にセットされた土俵で、御前相撲があり、

斉彬公を西郷どんは負かしてしまいました

また、

子供達がかくれんぼした時かな?

石灯篭の上から首を出して覗いてましたね♪

あの時、何を見ていたのか?忘れました

ひょっとして、架空のシーンでしたか?

覚えが悪かです<m(__)m>

 

 

 ここは、御殿

1658(万治元年)に19代島津光久によって建てられた島津家の別邸

ドラマでは、斉興公とお由良様とお犬様が、優雅に暮らしておられましたね

 

シンプルで美しい御殿です

 

 

曲水の庭

曲水の宴を開くために造られた池

 

ドラマで、斉興公と由良様と息子の久光さんがお庭で、お茶してはりましたね

すっとまっすぐに伸びた、菖蒲でしょうか?きれいでした♪

 

仙巌園のたくさんの灯籠の中で代表的なのが、鶴が羽をのばした形の

「鶴灯籠」

 

28代島津斉彬公が、安政4年(1857)

この灯篭にガス灯の火を灯しました


 日本初のガス灯より、鹿児島では15年早く灯りました

ちなみに、日本初といわれるガス灯は

明治5年(1872)に横浜の馬車道に設置されたものです  

やはりこれも、斉彬公の蘭学に長けていたことや、

貿易も行っていたからでしょうか

 

蘭学に造詣が深い斉彬公は、色々な設備を仙厳園の一角に造りました

もう機能はなくなってはいますが、設備の一部は残されていました

後日、写真をアップしようと思います

では長くなる前に、ここらで(^O^)/

 

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じゃっどん西郷どん13

2018-05-27 18:41:36 | 西郷どん

 

じゃっどん西郷どん、お久しぶりです

その間、ドラマは目まぐるしい展開でございもした

 

なので、気が気やなかったんですが、

私もけっこう目まぐるしい毎日で(^^;)

言い訳は、やめにしよう

 

西郷どん、思い起こせば…

 

まるで、恋人との心中のように、美しい月照さんと

錦江湾に身を投げて…

西郷隆盛という方にこんなことがあったなんて知りませんでした

 

大君のためにはなにか惜しからん薩摩の迫門に身は沈むとも 月照

 

 勤王の僧と呼ばれてる方だったのですね…

 

二つなき道にこの身を捨て小舟波立たばとて風吹かばとて 吉之助

 

辞世の句を残し入水して、自分だけ死ねなかったなんて

どれだけ辛かったかと思う

 

そんな心情の西郷どんを奄美大島に潜むようにしたのは

親友の大久保正助ですが、この方、頭がよくて説得上手で、

ただ、なんか、冷たい人に思えて

西郷どんのためなのか?

自分自身の大望を叶えるためなのか?

確かに一時期お父さんが島流しになり、自分も謹慎という

不幸があって、世の中を変えたいと逸る気持ちがそうさせるのかも…

 

でも西郷どんは、何度も正助どんに助けられたのも事実ですね

 

奄美大島に潜み、島の人と結婚した

この事も月照さんと入水したことと同様知りませんでした

ほんとに”西郷どん”を見るほどにイメージと違う人になっていく

 

波乱万丈のストーリー、この先まだまだ渦巻くんでしょうね

島津久光さん、一橋慶喜さん、木戸孝允さん、龍馬さん、

ぶつかる?

でしょうね~

実は、坂本龍馬が好きなんです

西郷どんとの関わり、どの様に描かれるのか

京都には、幕末の志士ゆかりの地が、たくさんあります

以前の大河ドラマ「龍馬伝」の時には、あちこち行きました

「西郷どん」ではまた違う所が舞台になるかもしれません

出来れば、訪れたいなとは思います

 

じゃっどん西郷どん、

今京都は観光客がわんさかわんさで、ちょっと大変

ないがあったじゃろかい

 

とりあえず、今夜20時の「西郷どん」

見ましょ♪

 

力の入らないブログで、歯がゆいですが、時間が出来たら

きばりもす

その日が自分でも楽しみです

 

 

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じゃっどん、西郷どん12

2018-05-06 17:18:27 | 西郷どん

 

薩摩藩十一代藩主  島津斉彬

 

曽祖父である、島津重豪のDNAなのか、

海外の政治や文化に興味を持ち、様々な物を取り入れていた

 

折から、フランスやイギリスの軍艦が、琉球に上陸し、

交易を迫って来ていて、斉彬の考えた事は

”日本を強くて豊かにし、強国に負けない国にならなくては”

 

斉彬は藩主になると「集成館」という工場群を造った

そこで、造った船は、

帆船「いろは丸」

大砲船「昇平丸」

蒸気船「雲行丸」など、

漂流者だった、ジョン万次郎が、斉彬に認められ

造船、航海術、英語の指導者として活躍したのも大きかった

 

ジョン万次郎や西郷隆盛といった人材発掘にも力を入れた斉彬公

でも、安政5年(1858)7月、薩摩で京へ送る兵の指揮をとっていた時、倒れ

帰らぬ人となった

 

安政元年(1854)に、藩主になってわずか4年

・海外から迫る強国

・将軍継嗣問題

・篤姫の輿入れ

次々と迫り来る難問に、果敢に挑んでいった

 

 

じゃっどん、斉彬さぁ、ちょっと急ぎ過ぎたんじゃなかと?

 

 こうと思えば突き進むタイプで、それゆえ敵が多かった

新しい考え方に、付いて行けない人達が敵に回った

 

斉彬さぁ、生まるっのが早すぎたんじゃなかと?

 

織田信長、吉田松陰、坂本龍馬、

 

生き急いだ英雄は、いっぱいですが、

その方たちのおかげで、今があると思います、感謝です

 

私なんかは、長生きすれば、無駄に長生き…、となる

 斉彬さぁ、西郷どん、自分はどげんしたやよかか?

 

いやこれは、今関係なか

 

斉彬公亡き後の西郷どんは、どう動くのか

 

井伊直弼が、江戸幕府に歯向かう者たちを処罰し始めた(安政の大獄)

死刑、蟄居、隠居、謹慎、約100人が罰せられた

その中には、吉田松陰、橋本左内、ひー様、徳川斉昭などなど

 

幕府の追っ手を放たれた西郷どんは

同じ志の勤王の僧・月照、幼なじみの有村俊斎と共に

薩摩へ逃れることとなる

 

昔の人はほんとに大変でした

岩のごろごろした山道を、あんなごわごわの草履で歩き続けるなんて

京都から鹿児島?

新幹線に乗っても遠い所ですよ

文字通り、必死の逃避行

 

疲れ果てて休んでいた所に斉彬公の幻覚が見えて…

 

でも、幻であり、確かに斉彬公は死んだ

と実感した西郷どんは、また、斉彬公への熱い気持ちが湧いてきた

 

自分が斉彬公となって、斉彬公の思いを成し遂げると誓い、

月照をかばいながら薩摩へ向かうのでした

 

妖艶な月照さんと、武骨な西郷どん

対照的なおふたり、この先どうなるのかな

 

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じゃっどん、西郷どん11

2018-04-29 15:48:49 | 西郷どん

 

西郷隆盛は、如何にして出世していったのかと思っていたのですが、

持前の正義感、誠実さ、裏表のなさ、優しくて熱い心

そんなところを斉彬さんが気に入って、お庭方にされたのが、

始まりだった…違うかな?

 

お庭方?

斉彬のごく近くに居るとはいえ、来る日も来る日も庭掃除と履物を揃えること

どないなん?と最初は思いましたが、

お庭方という役目は、社長付秘書みたいな重要な役目なのですね

 

裏切らないし、期待以上の努力で結果を出してきた西郷

斉彬も誠実なお殿さまだからこそ、認めてくださったのでしょうね

 

そんな斉彬が西郷をお庭方から外してしまった

何故?

 

次期将軍を慶喜とすることが実現すると思った矢先、

徳川家定が倒れてしまった

それを利用し直弼は、慶福を将軍にするとの承諾を得たかのように

周りの者に振る舞ったし、大老に就任し幕府の最高権力を握った

日米修好通商条約も調印しようとする

 

これらのことを、薩摩にいる斉彬に伝えるべく、

西郷は、薩摩へ急ぎ、殿に会った

事態を察して斉彬はもう自分の夢は潰えた…と考え、お庭方を解いた

 

西郷は家に帰ると大久保正助がやって来た

その意気消沈した西郷に正助は、怒りと期待をぶつけた

正助の言葉に、また西郷は立ち上がり、

再び斉彬の元へ行き、血を流さず戦う策を申し出た

 

何もかも諦めていた斉彬だったが、西郷の言葉に挙兵を決めた

そして、

 

”西郷、今からおまえはわしになるのだ”


その頃、篤姫に看取られることもなく家定は亡くなり

斉彬も出陣のあと、亡くなった


西郷どんは、大切な大切な斉彬様から言われた、

”今からおまえはわしになるのだ” 


この言葉が、遺言のようになってしまいました



じゃっどん、西郷どん


井伊直弼相手に西郷どんは、まだまだ斉彬公ほどの力を示せるとは

思えないのですけど…

大丈夫ですか

篤姫様も家定公を失い、大奥でどれだけの地位が残されているのやら…

 

西郷どん、

どうすっつもりと!?

 

 

さて、これらの出来事はすべて、安政五年(1858)に起きました

いえいえ更に、大きな出来事が起きるんですね

井伊直政から十五代目の直弼、

若い頃は、埋木舎に住み、”お堀端のちゃかぽん様”と揶揄されるような

人物だったとか

高い地位というのは、今も昔も

パワハラ 

 

 

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じゃっどん、西郷どん10

2018-04-22 17:51:14 | 西郷どん

 

慶喜を守るため、刺客を殺してしまって…

西郷どんは、

 

”あん男の命も慶喜様の命も尊さは同じでごわんど

じゃっどん、慶喜様は国を変え多くの民を救えもす

そいでもまだ逃げるち言わっとじゃったら、あん男も浮かばれもはん”

 

今回、この言葉が、響きましたね~

 

さすがのひー様も、心動きました

 

 

(さて、今年は憎まれっ子の井伊君、時代は井伊直弼の大活躍中です)

 

直弼のもとへ慶喜は西郷、左内と共に行きました

直弼は、慶福が次期将軍になれば、紀州藩を渡すなどと、

言葉巧みに、慶喜を引き込もうとしましたが、

もう、心に決めていた慶喜は、高飛車な物言いの直弼を一蹴、

あのひー様とは思えない、どか~んと雷が落ちた様な怒りのお言葉でした

 

かっこよかったですね、ひー様

 

西郷どんの、嘘のない言葉が、一橋慶喜を動かした今回でした

 

もうひとり、ちょっと変わりもんの将軍、家定さん

 

”幾久しく友好を保ちたいと大統領に申し述べるべし”

 

篤姫さんと、一生懸命、稽古されたのでしたね

で、篤姫さんにも、”幾久しく友好を保つべし”

と、伝えてました♪

身近な人達をなくしたくないと思う優しい心の家定さん、

いじらしいですね

篤姫さんも、次第に寄り添っていく、気持ちが湧いてきたようです

 

せめて、家定さんより先に逝くことのありませんように…

 

さて、渦中の ひー様は、

 

どう動く?

 

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じゃっどん、西郷どん9

2018-04-14 12:37:06 | 西郷どん

 

西郷どんと、正助さんは、幼なじみで、

こんな友達は、なかなかないなあ…

 

 

『大久保正助を忘れてきた』

 

『吉之助さあ、すまんじゃった』

 

鹿児島の龍門司坂で、江戸に発った西郷どんに、

正助さんが、追いついた時の会話でした

 

大久保正助の江戸行きを、斉彬公に願い出て許されました

西郷どん、篤姫さんの婚礼道具も立派に整え、斉彬公の信頼もばっちりで、

許されたのでしょうね♪

 

始めは、正助さんは行くのを断ってました

どんどん出世していく西郷どんに、妬む気持ちもあったかな?

自分の力で志を果たすんだと断りましたが、

若い時、ありがちなことかも…

(私もそうでした)

 

そんな時、

祝言を挙げたばかりのお嫁さんの満寿さんに諭されましたね

旅支度までしてくれて、いいお嫁さん

 

西郷さんの元、お嫁さん須賀さん、この方もよく出来た方でした

薩摩の女性は、強い!

須賀さんと満寿さんの共通点は、

だんなさんのことを想い、自分のことはさておき、江戸に行かせる

 

鹿児島の言葉では、”よかおごじょ” ですか?

 

 

あ、鹿児島のことばといえば、

テレビで、

”んだもしたどげなもんな…” で始まって

”まこてげねこちゃ わっはっはっ” で終わる

 

なぜか旋律が、私のこのピーマン頭に沁みついているのです

歌詞は、ところどころなのですが…、

いつ聞いた?習った?修学旅行の時?

まったく覚えがないのです

 

ドラマ「西郷どん」が始まってから、ちょくちょく聞くようになり、

そんなこと思っています

ほんといつ知ったんでしょうね(^_^;)

 

 

さて、老中首座の阿部正弘の急逝により、斉彬の立場はどうなるのやら

じゃっどん、井伊直弼さんが怖…

(おんな城主直虎の時と違って、井伊は憎まれもん?)

 

西郷どんと正助どんは、江戸へ

 

『行っど~!』

 

 

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じゃっどん、西郷どん8

2018-03-27 15:55:17 | 西郷どん

 

西郷どんの前に、ちょっとよかですか?

 

フォントが昨日?おととい?に変わりました?

メイリオになってるのですか?

ふぉんとに、明瞭♪ (^_^;)

見やすくなりました

以前から文中でフォントを変えようとしても、PCを使いこなせていないので、

変換したと思って進めていたら、元のフォントに戻っていた(*_*;

今回の変更に、感謝です

以上です(^^♪

 

さて、西郷どん 第12回 運の強き姫君

 

うたかたの恋…

儚かったですね、西郷どん

 

じゃっどん、篤姫様に、いっしょに遠くに逃げてほしいと言われて

そうしようとしましたね

ひったまがったあ~、

きっと、姫様を諌めると思ったのですが…

 

あの上野の銅像や、教科書に出て来る西郷どんからして

断ると考えたのですが…

私は、西郷隆盛さんのこと、全然知らないと思います

日本国を、薩摩を、斉彬公を、懸命に守ろうとした反面

女性にもその熱い心を傾けるという、

ええとこあるやん♪

 

 

そして、篤姫さん、

 

安政二年(1855) の大地震の中、お邸にいた篤姫を助けに来た西郷どん

西郷どんにすがって泣いた、その涙を拭いながら、

鬼の教官、幾島さんが現れたら、きりっと!

 

”西郷、御台所となるべきこの身体を、傷ひとつなく、

よう護ってくれました、 もう下がってよいぞ”

 

と、こうですからね、さすがです、のちの天璋院様

 

どうでしょう?

こんな時は女性の方が、割り切りが早いかもしれません

西郷どん、ちょっとは、目がテン

だったかな

うたかたの恋は、消えました

 

これで篤姫様は、心を決めたような気がします

 

 

先だって、打掛、陶磁器、かんざしなど、たくさんの献上品を持って、

将軍の母君である本寿院さんを、幾島さんは大奥に訪ねました

 

千両、万両、遠慮なく申して本寿院に働きかけよ

と、山田為久、斉彬の側近ですね、この方から幾島は言い渡されました

だからか、他にも、品川の花街へ身分を隠して侵入し

あれこれ、他藩の様子を探っていました

その、巧みさに西郷どんは、ひったまがったあ~!様子でした

 

幾島は、篤姫を、体だけでなく運の強い姫だと、ぐっと推しました

 

この効果があったようです

 

”ならば、その運とやらにのってみようか”

 

そこで母、本寿院さんは、今で言うお見合い写真を見せてアドバイス

家定公は、似顔絵の中から篤姫さんを選びましたものね

 

篤姫さんは体も強いし、運もきっと強いはずですよ♪

 

 まだしばらく、幾島のスパルタ教育は続きそうですが、

江戸での父、斉彬公から篤姫が将軍に嫁ぐ本当の意味も聞きました

不幸になってでも、義父の思いを成し遂げるという

固い決意で、輿入れの日を篤姫さんは待っています

 

篤姫さん、きばれー! 

 

ではまた~

 

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じゃっどん、西郷どん7

2018-03-21 08:11:35 | 西郷どん

 

じゃっどん、西郷どん 

 

斉彬公のお庭方となり、庭を掃いたり、草を引いたり、  

斉彬公の話を聞く時も、お庭から、

なかなか、お屋敷には上げてもらえないですね~

 ま、こんなことで西郷どんがへこたれるとは思いませんが…

 

斉彬公の命が下りました

 

どっこいこれが、なかなかの重要なお役目で

 

西郷どんの心の中は、斉彬に命を差し出してますから、

どんな役目も、OK!

 

水戸藩の徳川斉昭のもとへ手紙を届ける密命を履行、

たまたまそこで、ひー様すなわち、一橋慶喜に会いました

 

西郷は手紙を届けた折に、慶喜に会って話した!

 

それを聞いた斉彬公、あまりの展開の早さに、西郷に対する期待は更に深まり、

これからは、慶喜の動向を監視するようにと命じました

 

”丸に十の字”の島津の家紋の入った短刀を授かり、

「秘密が守れなくなった時、これを使え」 と言い渡されました

 

子供の頃、斉彬公に会ったことがありましたね

肩の怪我で右腕は刀を振れなくなったと嘆いた西郷どんに

刀を持たなくていい時代が必ずやって来る

と言われ、その言葉を心の支えに今まで生きてきた西郷どんでしたね

 

斉彬公の思いは、命をかけてこの国を変え、民を救うということ

その決意の深さを西郷どんは知って、命を差し出して仕えようと心に決めました

 

でも、斉彬公が、気にかかることを言っておられますね…

 

急がねば、自分にはもう時がない”

 

”於篤は不幸になる”

 

斉彬公の体は何かに蝕まれ出してるのだろうか、

 

そうであれば蝕んでいく恐ろしい物はいったい誰が仕掛けているのだろうか

井伊? 

斉興とお由羅?

 

斉彬は、そのことに気付いて、もう時がないと言っているのだろうか…

 

 

また新たなお役目が西郷どんに言い渡されました

次なるお役目は、篤姫付用人、篤姫の警護をすること

 

その篤姫に指南役の幾島が付きました

大奥に上がるための修行が始まります

 

篤姫さん、実の父が亡くなったと知らされた時には、ホームシックにかかって、

いっとき、脱走してましたけど…

 

”こん海は薩摩に繋がっておいもす”

 

西郷どんも励ましていましたし、もう大丈夫でしょうね

なかなかの気丈なお姫様ですしね♪

 

さて、西郷どんの次なるお役目として篤姫付用人を命ぜられていますが、

斉彬様の警護、密偵はもういいのですか?

兼任ですか?

それなら、大変!

忙しくなりますね、きばれ~

 

 

あの~余談なのですが…、 

この篤姫様、薩摩から江戸に向かわれる時、

草津宿を利用されてます(滋賀県草津市内)

宿泊だったのか、休憩だけだったか、どっちだったかなあ~?

 

(史跡草津宿本陣には、たくさんの宿帳が残ってまして、

とにかく歴史上とても有名な方の名前が並んでいて、

もちろん、篤姫さんも、皇女和宮さんも載っていますよ

上段の間もあり、とても位の高い方が泊まられたことが分かります)

 

3年前、私が俳句入門講座を受け始めた時、

始めて吟行で訪ねたのが、草津宿本陣でした

その時の句が、お恥ずかしいですが

 

長旅の姫のかたわら宿の梅

 

だったのですが、先生が

”梅の宿と違って宿の梅でいいの?”

 

と尋ねられ、私は、はい!と、こともなげに答えました

かなり後で 何でそう尋ねられたのかなあ~と少しは思いましたが…

 

そして次の春がやって来た頃でしたでしょうか

 

「梅」の傍題に「梅の宿」というのがあるのに気付きました

あ、それであの時先生があの質問をされたんだなあ~と合点がいきました

 

あの時は2月頃で、本陣のなかには、幾つかの梅の盆栽が置かれていました

立派なものでした

篤姫さんや和宮さんが、この鉢を見られた訳ではないけれど、

もし、ここへおいでになった時、この様に梅が置かれていたならば

ひと時の癒しになっただろうなあと、思ったものでした

 

特別なお駕籠に乗って行かれたとはいえ、どれほどしんどかっただろうなと、

長い長い旅になったのだろうし、先の不安は募るばかりだっただろうし…

 

 

さあ!いよいよ、大奥へ、

家定さん、どんな感じで篤姫さんを迎えられるのでしょうか

ちょっと心配

でも、篤姫さんと家定さんの仲睦まじいところが見れるのを期待しています♪

 

 

 

私、最近さつまいもをよく焼いて食べます

西郷どん、ドラマの中でよく見かけますでしょ?

見ると食べたくなるのです

店頭には、たくさんの種類のさつまいもが並んでいるので飽きませんよ♪

 

ではまた

 

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