ドラえもんの作家は、藤子F不二雄さん。
高岡市出身です。
JR高岡駅前にドラえもんのこんなモニュメントがありました。
元々は「藤子不二雄」 という名で今の藤子不二雄A(安孫子素雄)さんと
ふたりでひとりだったんですね~、ちょっとややこしい。
このお二人は共に富山出身、高岡市の小学校にAさんが転校して来て
漫画を描くことで仲良くなり、中学校時代、手塚治虫氏に強く影響を受け、
紙芝居的なもので近所の子供たちに見せたり、雑誌投稿をしたりしていました。
その頃から2人ひと組の活動がずっと続きました。
高校も富山、卒業後就職も富山でしたが、1954年に上京しています。
そして、あの有名なトキワ荘の元、手塚治虫氏の使っていた部屋に住むことに
なったのです。
その後、すべて順風満帆とまではいかないものの、私たちの知る漫画家さんと
なられました。 と、以上ネット検索して調べた情報です。
今は、藤子F不二雄さんは亡くなられていますが、ドラえもんはまだまだ
活躍し続けるでしょうね。
同じくJR高岡駅前、「大伴家持」 の像です。
奈良時代の貴族、歌人(三十六歌仙のひとり)
日本最古で最大の歌集、万葉集の代表的な歌人で、編さんにも関わり
4516首の中、自分自身473首の歌を詠んでいます。
” もののふの 八十をとめらが くみまがふ 寺井の上の かたかごの花 ”
(たくさんの乙女が入り乱れて水を汲む。寺の井戸のほとりに咲くカタクリの花よ)
像と一緒に、この歌の銘板がありました。
家持は天平18年(746)に越中の守に任ぜられ、5年間高岡市伏木古国府
(ふしきふるこくふ)に在住していました。
住居はなだらかな山を背に、川を臨む高台にあり、立山連峰をも望める所にありました
家持はこの越中の四季折々の風物に触発されて、独自の歌風を育んで行きました。
都が恋しい時もあったでしょうが、充実した青春時代をこの地で過ごしたと思われます。
百人一首では「中納言家持」 の名でこの歌↓を詠んでいます。
” かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける”
(鵲~かささぎ: カラス科の鳥で肩と腹部だけ白く、あとは真っ黒)
百人一首といえばお正月にはかるた取りをしたものですね。
実家に昔から古びたかるたがありまして、私は気に入ってまだ持っています。
破れて繋いだり、みすぼらしいのですが、大伴家持の絵札、無事です。
高岡市内の桜は、満開でした。
草津より少し遅いだけでした。
満開で、風が吹きますとはらはらと花びらが…
この時から4日経ち、新緑が輝き始めたことと思います。
不思議ですね、行って帰って来ると行く前より更に行きたい行きたいと思いす。
あ、それからもひとつ、
家持の歌ですけどね、たくさんの乙女が水を汲んでいるそばに
カタクリの花が咲いてる… 文字通りである一方
都から離れて遠くに来た家持が都の乙女を恋しく思う気持ちも読み取れる…
そうでして、青春してますね~
その気持ちを汲んでか汲まずか、家持さんの像のそばには乙女がふたり。
お好みのタイプか否か、分かりませんが。
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