第29回 女たちの挽歌
挽歌、元は中国で葬送の時、柩を挽く者が歌った歌。
転じて、悲しみを歌った詩・歌・楽曲のこと
万葉集では人の死を悲しみ悼む歌
古今和歌集以後の哀傷歌
とありました
私は、挽歌というといちばんに、「石狩挽歌」を思います
” …あれから鰊はどこへ行ったやら
…
おんぼろろ おんぼろぼろろ… ”
さて、戦国の女たちの挽歌は、如何に歌われたのでしょうか
直虎は戦をせずに済むようにと手段を講じ、
徳川に書状を出しました
『戦をここでとどめるというお考えはないか、
例えば、御家が上杉家と結ぶなどして…』
ところが、情勢は刻々と代わり、この書状は功を奏すどころか、
三河がもめる引き金となったというのです
こんな時に今川は大切な人をなくしてしまった
寿桂尼がみまかられたとの知らせが入り、
畏怖の念もあれば、敬愛の人でもある、
直虎にとってすべてだった人の死に、経を捧げるのでした
徳川に出入りしている山伏の松下常慶が龍潭寺にやって来て、
井伊は今川か徳川かどちらにつくかと迫られます
「人間万事塞翁が馬
禍福は糾える縄の如し
沈む瀬あれば浮かぶ瀬もあり」
すみません、しつこかったですね(^_^;)
事の発端は、直虎が徳川に出した書状だというのです
直虎が半ば仕方なく徳川につくと答えると、
常慶は、虎松の母しのを人質にと伝え、去って行きました
庭の暗がりの中でこれを聞いていた政次は
『勇み足になってしまいましたな』
しのに自分から伝えようかと言った政次に、直虎は自ら告げると
覚悟をしていた直虎に、しののののしりは覆いかぶさって来ましたね
『要するに殿が大それたことをおやりになったせいで、
私を人質にという話になってしまったということにございますか』
『何ゆえ、かような小さな国衆が戦の勝敗を動かせるなどと思うのですか
思い上がりにも程がございましょう
気賀が手に入り、図にのられたのではございませんか』
しのさん、言うよネ~
でも、覚悟はしてくれたようで、受けてくれました
が、それを聞いた虎松は、そうはいきませんでした
母は行きたくないと言っているから、取り消してほしいと、
子供ながらにも、たいしたもので、あの手この手を考えだし
母の人質となることを阻止しようと努力します
すごいですよね、賢いのですね、
私でも、私の息子でも、あんな知恵はとうてい浮かびません!
母しのも、この出来事をもう一つの大切なことのため、利用していました
それは、いずれ頭首となる虎松のため、
大切な人を人質に出さねばならぬということを考えるための機会だと、
そのため敢えて行きたくないと虎松に言ったのだと
転んでもただでは起きないしのさん、
直親、直虎、しの
この三角関係の時も、この方は直虎よりも強烈でしたものね
母となってもそれは衰え知らずです
一方、母の愛は揺るぎないものと伝えておきたくて、
虎松に心のよりどころをしっかり残して、人質として旅立ちました
そりゃあ、もう二度と会えないという事も考えなければならない世ですものね
ここにもまた、戦国の理不尽が…
しのを送る代わりにひとつ望みがあるとし、
徳川が攻め入った折り、城は明け渡す
その先、兵を出さない
井伊と気賀以上の安堵は望まない
目指すのは、喜びに満ちた日、
民百姓、ひとりたりとも殺さぬこと
そう、直虎は常慶にしっかというのでした
こうして、しのは松下家へと旅立ちました
虎松はこれからは、直虎と同じ館で暮らすことになりました
直虎は、虎松の父として
(於:龍潭寺)