敵に塩を送る
そんな言葉がありました
語源は戦国時代に端を発するとか
1567年、武田信玄は今川氏との同盟を破棄し、東海方面への進出を企てます
それに怒った今川氏は北条と結託し武田の領内に塩が行かないようにします
これが「塩留め」
海に面した土地の無い武田の民は苦しみました
この様子を見た信玄のライバル、上杉謙信
義を見てせざるは勇無きなり
謙信は越後から信濃へ塩を送り、武田氏とその領民を助けました
そこから、
たとえ敵でも、相手が苦しい立場にある時は助けてあげることを
「敵に塩を送る」 と言うようになったのだそうです
松山千春さんのコンサートで、本人がこの言葉を使ったことがあります
前日からの雨がやまないまま、野外コンサートを迎えたのですが、
リハーサルも終え、とうとう本番という時になって、空が晴れてきたのです
野外コンサートにとって、お天気は、どれだけ重要なことか
それで、
『塩を送ってくれた』
天に?ライバルに?周りの人に?
ここまで来るのに、いい出会いも悪い出会いも和合も衝突もあったでしょうし、
今まで関わった人達みんなに、感謝してたのかもしれません
1982.7.24 札幌真駒内競技場でのコンサートの日でした
直虎に話を戻します
この塩留めから波及した危機を乗り越えたものの、
気賀では尋常でないことが再び起きていきました
気賀の町
(セットですが、雰囲気ありますね)
第26回 誰がために城はある
「井」の字の焼き印のついた材木で
今川氏が気賀に城を造る話が広まってきました
龍雲丸としては、そんなことになれば気賀で商売をしようにも窮屈でならない
井伊は今までの恩をあだで返すのかと、怒鳴り込んで来ました
直虎が、今川に楯突く力など無いと言ったものだから
龍雲丸は、『何が世を変えるだ!』
と言い放つや、去って行きました
直虎は、何か力になってやれることはないかと考えます
政次に、あれこれ言えば、政次、堪忍袋の緒が切れたましたか、
『お前は一体どこの当主なのだ!』
この目線の先に何がある…
踏んだ、
政次が直虎の打掛の裾を、バンッと踏みつけたものですから、
直虎は、その場に見事にこけましたね~
直虎はこのまま龍雲丸と仲違いのままになることは避けたい
政次はいつも龍雲丸にこだわる直虎を見るのが悲しかったかも
龍と鶴、恋敵ですから…
実は…私、気付いたのですが、政次は龍雲丸に相対する時、
凄みますでしょ?
気賀の龍雲丸のアジトに行った時もそうでしたよ
あのポーズそうですよね♪
右腕の手首辺りを、左から右に向けて突き出ている刀の柄(ツカ)に
だらんと乗せます (↓写真参照)
(何か前に段や台がある時は、そこに右足を乗せます)
こんな感じ?
ここは突っ張っておこう、てとこかな(^_^;)
直虎のためなら、なんでもします政次
とうとう気賀の町の人が築城反対派と賛成派に分裂です
(反対)
城が出来れば当然武士の誰かが、もれなく付いてくるから
思うように商売も出来ない
(賛成)
そこを好機とばかりに城主候補トップの大沢基胤(モトタネ)に
上手く取り入ろうとする者
中村屋与太夫さん、そんな両派をいさめたがため、
両方からつまはじき、 方無しですね アラマ!
直虎は、ここで両派に文を出し集合をかけました
材木のことと言われれば、放ってはおけず、大手の商人に加え、
海賊、でもいい人の龍雲丸もやって来ました
やっぱり話はそう易々とまとまるものではなかったんですね~
会議を終えて、これ以上関わりようがないと
館に戻った直虎は六左や方久に泣き言ともとれることをぶっちゃけてます
『こ~~ん』
そんな中、金の亡者、方久は閃きましたね~
『もっと関わるという手はございませぬか』
他の役人が入る代わりに井伊が城に入れば、という案でした
思いのほかの方久の言葉に、直虎はどうするのでしょうか?
そこには大きな壁、駿府が立ちはだかっています…
直虎と政次、碁を打ちながらいいアイデア出してニャ~ン♪
ではまた