路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は? 

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【政界地獄耳】:秋国会は政権批判防止の閣議決定から?

2019-08-22 00:20:00 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【政界地獄耳】:秋国会は政権批判防止の閣議決定から?

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【政界地獄耳】:秋国会は政権批判防止の閣議決定から? 

 ★10日、参院選期間中に札幌市で行われた首相・安倍晋三の街頭演説にやじを飛ばすなどした聴衆が北海道警の警察官に現場から排除された問題で反対する市民らのデモが行われた。また6日、道議会常任委員会でもこの問題が取り上げられ、道警本部長・山岸直人が「現場のトラブル防止の観点から措置を講じた」と説明。だが法的根拠の説明はない。

 ★ただ、道警の説明は、はなはだ説得力に欠ける。街頭演説で「増税反対」と声を上げた女子大生のとっさの判断による録音でのやりとりでは、道警(以下、警)「いきなり声上げたじゃん」、女子大生(以下、女)「なにそれ、犯罪なわけ?」警「取り押さえたんじゃなくて、やめよ」女「腕つかんで取り押さえたじゃん」警「それは取り押さえじゃないんだよ」女「じゃあ日本語が違うんだ、あなたたちと」警「法律に引っかかっているとかじゃなくて」。この法に基づかない問答が続くが、聞いていると現場トラブル巻き起こしているのは道警ではなかろうか。

 ★もしかしたら、それ以外のやりとりや犯罪要件を道警は知っていたり持っていたりするかもしれないが、いずれにせよ排除という名の連行に山岸が言うだけの説得力はない。選挙中の街頭演説で「増税反対」で私服や制服の警官に取り囲まれただけで民主国家の住民はその異様さに緊張するはずだ。当然、首相を応援する人たちの声やプラカードにおとがめはないとなれば、唯一、住民、市民、国民をその場から排除するにはそれなりの法的根拠が必要だ。無論、道警はじめ、警察がそれを無視して超法規を行使したか、までには法律を作ってやじのみならず、政権批判防止法でも作るなら、予行演習とでもいえよう。それを間違いだったと正し、謝罪するチャンスが6日の道議会だったにも関わらず道警突っ張った国会ではまず政権批判防止閣議決定からか。こわーい(K)※敬称略 

 ◆政界地獄耳

 政治の世界では日々どんなことが起きているのでしょう。表面だけではわからない政界の裏の裏まで情報を集めて、問題点に切り込む文字通り「地獄耳」のコラム。けして一般紙では読むことができません。きょうも話題騒然です。(文中は敬称略)

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【コラム・政界地獄耳】  2019年08月13日  07:46:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性

2019-08-22 00:16:20 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性 

 ●これまでの記事はこちら

 <モズラーによって発見されたMMTの中核命題や、それに基づく会計分析それ自体は、必ずしも正統派と共存不可能ではない......>

 経済学派としてのMMTの一つの大きな特徴は、自らを正統派と対峙する異端派として位置付け、現代の主流派マクロ経済学を全体として拒絶している点にある。その主流派ないし正統派としてMMTの主な批判となっているのは、新しい古典派マクロ経済学というよりは、ニュー・ケインジアンによるNMC(新しい貨幣的合意)である。これは、現代のマクロ経済政策とりわけ金融政策に理論的根拠を提供しているのが、もっぱら広義のニュー・ケインジアン経済学であるという事情を反映している。 

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性

marchmeena29-iStock

 MMT派はまた、新古典派的総合の系譜にある新旧のケインジアンを亜流ケインジアン(Bastard Keynesian)と呼び、彼らと対峙し続けてきたジョーン・ロビンソンやハイマン・ミンスキーらを、自らを含む異端派としてのポスト・ケインズ派の先駆とし、それをケインズの本来のヴィジョンを受け継ぐ本流ケインジアンとして位置付けている(本連載(1)の「マクロ経済学系統図」を参照)。これは、カール・マルクスが、古典派経済学の始祖であるスミスやリカードウを、彼らを追随する「俗流経済学者」たちから区別し、自らをスミスやリカードウら元祖古典派の「真の」後継者として任じたことに似ている。

 こうしたMMTの自己規定からも、また本連載でこれまで論じてきたことからも明らかなように、MMTと現代の主流派マクロ経済学は、「緊縮派」に対抗して政策的に同盟できる局面がないわけではないにしても、多くの部分において共存不可能である。つまり、MMTのある部分を受け入れるのであれば、それに対応する主流派マクロ経済学の一部は受け入れることができなくなるし、その逆もまた真ということである。

 とはいえ、それは、現代の主流派がMMTの「すべて」を受け入れ不可能であることを意味しない。実は、MMTの中には、主流派にとっても何の変更もなくそのまま受け入れ可能な部分も確かに存在する。そしてそれは、これまでの主流派には大いに欠けており、しがたってMMTから積極的に学ぶべき部分でさえある。

 ◆意味のある「中央銀行の金融調節を通じた財政の金融の協調」という把握

 以下は、本連載(1)で明らかにした、ウオーレン・モズラーによって「発見」されたMMTの中核命題の再掲である。

 政府の赤字財政支出(税収を超えた支出)は、政策金利を一定の目標水準に保つ目的で行われる中央銀行による金融調節を通じて、すべて広い意味でのソブリン通貨(国債も含む)によって自動的にファイナンスされる。したがって、中央銀行が端末の「キーストローク」操作一つで自由に自国のソブリン通貨を供給できるような現代的な中央銀行制度のもとでは、政府支出のために必要な事前の「財源」は、国債であれ租税であれ、本来まったく必要とはされない。

 驚くべきことに、この命題それ自体は、一言一句の変更もなく、正統派にそのまま受入可能である。さらに、MMT派が得意とする、政府、中央銀行、民間銀行部門、民間非銀行部門等のバランスシートによる資金循環表を用いた「財政と金融の協調」に関する分析も、それ自体として正統派にとって受け入れ難い部分は何もない。というのは、それはMMT派が常々強調するように、確かに単なる「会計的な事実」にすぎないからである。

 正統派にとって受け入れ難いのは、MMTが示している会計分析ではなく、彼らがこの「政策金利を一定の目標水準に保つ」同調的金融政策を絶対視し、中央銀行による金利調整の役割を認めないことである。MMTはまた、政府財政支出に関する実際的な意味での財源の無用性という把握から、政府の通時的な予算制約の無用性をそのまま導き出すが、それも正統派には受け入れられない。確かに中央銀行の金融調節さえあれば個々の具体的な財政支出にいちいち財源は必要ないというのは疑いもなく正しいが、それは必ずしも政府財政の長期的持続可能性を無視してよいことを意味しない。

 おそらくは自らを正統派と峻別するためにあえて付け加えられたこれらの無用な「拡張」を別にすれば、MMTの中核命題それ自体には正統派が問題視すべき点は何もない。それはむしろ、正統派の把握と補完的でさえある。というのは、「中央銀行の金融調節を通じた財政の金融の協調」というMMTの把握それ自体は、財政および金融政策の実務的運営に関する重要な一側面であり、かつそれは正統派の中で必ずしも実態に即して描写されてきたとはいえない部分だからである。 

 もちろん、正統派が貨幣外生説一辺倒ではまったくないことは、マクロ経済学におけるヴィクセル以来の伝統からも明らかである。とはいえ、初級の教科書などでは、金融政策のすべての出発点は中央銀行によるベース・マネー操作であり、それが信用乗数的なプロセスを通じてマネー・サプライを生み出すといった素朴外生説的な説明に終始しているものも未だに多い。より専門的な文献では、「信用乗数式はベース・マネーとマネー・サプライの需給関数から利子率を消去した誘導型であり、前者から後者への因果関係を示すものではない」といった注意が書かれている場合もあるが、それは必ずしも一般的ではない。その意味で、財政政策と金融政策の実務的および会計的実態に即してそこに何が生じているのかを追求するMMTの姿勢は、モデルと現実との「距離」にしばしば無頓着になりがちな現代の経済学全体が学ぶべきところかもしれない。

 さらに、このMMTの中核命題は、市場関係者であったモズラーによって指摘されるまでは、誰によっても明確に指摘されることはなかった。それまでも、「政府が財政支出を行えば民間銀行部門のマネー・サプライが自動的に拡大する」とか「マネー・サプライが拡大すればベース・マネー需要が拡大するので、金利一定である限り、それに同調して中央銀行のベース・マネー供給も自動的に増える」といったことは、さまざまな立場の金融専門家によって指摘されてはいた。しかし、それらを、単なる断片的な把握を越えて、中央銀行による財政支出の自動的ファイナンスという一般的な「概念」にまで高めたのは、疑いもなくMMTの独自性であろう。 

 このMMT命題にもう一つ大きな意義があるとすれば、それは、政府が何らかの財政支出を行うという時に必ず生じる財源論議の無意味さを明らかにした点にある。たとえば教育無償化にせよ子育て支援にせよ、新たな財政支出を伴う政策を実行すべきか否かが議論される場合に必ず争点になるのが、この「財源をどうするのか」という問題である。この場合の財源とは、一般には「増税」か「他の歳出の切り詰め」のどちらかと理解されている。しかし、MMT命題によれば、あらゆる政府支出は中央銀行による国債を含むソブリン通貨供給によって自動的にファイナンスされるのであるから、そこで財源を云々することに意味はまったくないことが明らかになる。

 このMMTの把握は、正統派にも完全に受け入れられる。もとより、反緊縮正統派の多くも、従来から緊縮派を批判するに際しては、「重要なのは全般的な財政状況であるから、個々の支出の財源を云々しても無意味である」とか「その財政状況とりわけ税収は財源どうこうよりも経済状況により大きく依存する」と論じ続けてきたのである。MMT命題は、その反緊縮正統派の従来の主張とまったく整合的である。MMTとの相違は、もっぱら政府財政の長期的維持可能性についての把握にある。

 ◆金利が果たす役割の把握に対する根本的な相違

 これまで詳述してきたように、正統派とMMTとの最大の相違は、マクロ経済政策という領域における政策戦略にある。すなわち、正統派が基本的に財政政策と金融政策をそれぞれ独立した政策手段として把握しているのに対して、MMTは両者の分離を概念的に否定する。MMTによれば、政策手段として独立しているのは財政政策のみであり、金融政策はそれによって誘導される存在にすぎない。MMTのこの部分には、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの把握がそのまま受け継がれている。

 つまり、MMTの体系には同調的金融政策が存在するのみであり、「中央銀行による金利操作」という本来の意味での金融政策は存在しない。実際、ランダル・レイのModern Money Theoryでは、金融政策については単に「ケインズの後継者たち--自らをケインジアンと呼んでいる連中と混同しないように注意されたい--は常に、金利政策が投資に大きな影響を与えるという考えを拒絶してきた」(p.282)と一言述べられているのみである。MMT派の教科書であるMacroeconomicsでは、第23章第5節で金融政策についての一般的な解説がきわめて手短に記されているが、その最後は「したがって、金融政策が持つ総支出への影響と、そのインフレ過程への間接的な影響は、きわめて疑わしい」(p.366)という総括によって唐突に締めくくられている。

 MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している。MMTにとっては、金利とは何よりも中央銀行が政策的に決めるものであり、「市場の需給」とは無関係である。さらにその金利は、単に民間銀行がその資産を国債で持つか準備預金で持つかというポートフォリオ選択に影響を与えるにすぎない。そして、民間銀行がその資産を国債と準備預金のどちらで持ったとしても、それらはともに政府の債務としてのソブリン通貨である以上、両者の間に本質的な相違はない。

 それに対して、正統派における金利は、資金市場における資金の需要と供給、その背後にある財市場における投資と貯蓄によって、本来的には市場において決まる。それが、かつては貸付資金説と呼ばれていた、資金市場の需要供給分析である。その背後には、貯蓄における人々の時間選好と投資における投資家の収益期待が存在する。つまり、金利にはその背後に、待忍に対するプレミアムや投資に対する収益という実物的な基礎が存在する。したがってそれは、名目的に表示されてはいるものの、基本的には実物的な変数である。

 その両者の関係を明らかにしているのが、「名目金利=実質金利+期待インフレ率」というフィッシャー方程式である。この実質金利は、短期的には財市場における投資と貯蓄の均衡によって決まるが、長期的には実質経済成長率に収斂する傾向を持つ。仮にこの右辺の期待インフレ率が中央銀行の目標インフレ率と一致しているとすれば、中央銀行はその目標を維持するためには、名目金利をこのフィッシャー方程式に合わせて設定しなければならない。というのは、そうでないと、例のヴィクセル的なインフレあるいはデフレの累積過程が生じてしまうからである。

 正統派は他方で、こうした金利の持つ市場調整機能が十全に発揮されるのは基本的には完全雇用時であり、不完全雇用時には中央銀行による金利設定の裁量余地がより大きくなることを認める。というのは、労働市場にスラックが存在する不完全雇用経済では、中央銀行が金利を政策的に引き下げることにより、投資と所得と貯蓄を同時に増加させることができるからである。フィッシャー方程式を用いていえば、中央銀行は完全雇用時には名目金利を右辺に合わせて設定しなければならないのに対して、不完全雇用時には逆に、名目金利の引き下げを通じて実質金利の引き下げをもたらすことができる。このようにして行われる金利の調整こそが、正統派にとっての金融政策である。

 このように、MMTと正統派との間に横たわる金融政策あるいは金利の役割についての認識上の隔たりはきわめて大きい。MMTはしばしば、正統派が時に用いる貸付資金説的な把握を、赤字財政による金利上昇や民間投資のクラウド・アウトといったその結論とともに否定する。しかし正統派の側からすれば、MMTの金利についてのきわめて非市場的な把握は、単に中央銀行の裁量余地が大きくなる不完全雇用での状況を一般化したにすぎない。また、そこにおいてさえ、金利の役割は極度に矮小化されている。それはいわば、経済学でこれまで展開されてきた金利についての数百年にわたる考察の大部分を無視しているようにさえ写るのである。 

 ◆MMTの政府債務把握がはらむ「矛盾」

 正統派から見たMMTのもう一つの大きな問題点は、政府債務についての把握にある。MMTは常々、政府の債務は民間にとっての純資産であることを強調する。これは正統派にとっては、政府と民間が共に非リカーディアンであることを意味する。というのは、もし政府と民間がリカーディアンであったとすれば、民間の持つ資産は同時に将来の増税によって確実に返済を強制される負債ということになり、ロバート・バローが述べる通り「国債は純資産ではない」ことになるからである。

 正統派の発想では、政府と民間が共に非リカーディアンであることが想定されている場合には、赤字財政政策の無効性を意味する「リカード=バローの中立命題」は成立せず、政府債務の拡大によって人々の支出が拡大し、その結果として物価が上昇するはずである。しかしながら、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTにおいては、政府債務の拡大は、財政破綻の可能性の高まりといった「悪いこと」をもたらさない反面で、人々の支出を拡大させるという「良い効果」も持たない。それが、MMTがFTPLやヘリコプター・マネー政策とは異なるということの意味である。 

 つまり、MMTの世界は、その前提が非リカーディアンであるにもかかわらず、そのふるまいはまったくリカーディアンなのである。これは、明らかに矛盾している。正統派から見れば、その矛盾を解消するための方法は一つしかない。それは、政府の通時的予算制約の明示である。

 重要なのは、この政府予算制約の設定は、財政の長期的持続可能性に留意するものではあっても、「不況下の増税」的な緊縮主義を含意するわけではまったくないという点にある。正統派的には、財政の長期的持続可能性には通貨発行益(シニョレッジ)も考慮する必要があるから、通貨主権を持つ国の政府予算制約はより緩やかになる。それは、不況期における循環的財政赤字の許容度や持続性がより高まることを意味する。この点の把握は、ソブリン通貨という概念こそ用いていないものの、MMTと軌を一にしている。他方では、上述のように、非リカーディアンである限り、そのように許容された財政赤字そのものにも支出拡大効果が期待できる。要するに、不況下の増税に反対する反緊縮主義は、政府の通時的予算制約を想定しても十分に成り立つのである。

 財政の長期的持続可能性を考える場合にもう一つ重要な点は、各国における将来的な徴税可能性である。仮に完全な通貨主権を持つ国であったとしても、将来の現実的な徴税能力以上に政府債務が拡大した場合には、ハイパー・インフレとは言わないまでも、FTPL的な物価調整プロセスが望ましくない形で生じる可能性は存在する。そのような可能性は先進諸国ではまったく考えられないが、税金逃れが横行しているとか徴税制度が十分に整備されてないといった状況が稀ではない新興諸国では、一定の現実味を持っている。本来であれば、「ソブリン通貨の裏付けは政府の徴税にある」という把握から出発するMMTこそがこの課題に正面から取り組むべきであるが、政府債務は良くも悪くも何の意味も持たないとするMMTの赤字フクロウ派的な認識がそれを妨げているように思われる。

 ◆財政主導初期ケインズ主義の再興としてのMMT

 現状のMMTの経済学派的特質を一言で表現すれば、「モズラーの発見を媒介とした財政主導初期ケインズ主義の再興」ということになるであろう。その初期ケインズ主義が何であったのかは、マネタリズムによるケインズ経済学批判が学界を席巻しつつあった1960年代後末に、その潮流を横目で見ながら、ケインズ派内部からの自己改革を唱えて旧来の"ケインジアン"経済学を根底的に批判したアクセル・レイヨンフーブッドによって、以下のように描写されている。

 金融政策の有効性に対するケインズの悲観論と、財政政策の慫慂は『一般理論』の特徴点ではあるが、これが多くの初期"ケインジアン"の手により、単純化されたドグマに作りあげられてしまった。つまり景気後退期における金融政策はまったく有効でなく、一方財政政策は景気の加熱、停滞どちらにも有効であり、かつマクロ経済問題に対する唯一の処方箋である、とされたのである。(Leijonhufvud, A.[1968] On Keynesian Economics and the Economics of Keynes: A Study in Monetary Theory, p.158)

 このレイヨンフーブッドの『ケインジアンの経済学とケインズの経済学』で詳述されているように、初期ケインジアンたちは、金融政策の無効性と財政政策の有効性をまさにドグマチックに信奉していた。その根拠の一つとなっていたが、オックスフォード大学グループによる1930年代の実態調査などを受けて浸透した、企業家の投資に関する意志決定は金利からはほとんど影響を受けないという「投資の利子弾力性悲観論」である。このレイヨンフーブッドとは逆に、レイはModern Money Theory, p.282で、「この弾力性悲観論こそが"ケインジアン"とは区別されたケインズの真の後継者たちの認識である」と述べているのであるから、レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである。

 MMT派による「新しい貨幣的合意」という言葉が示唆しているように、その後のケインズ主義は、財政政策重視から金融政策重視へとその政策戦略を大きく転換した。それは、ミクロ的基礎を持たないケインズ型消費関数に基づく45度線モデル的な財政乗数理論や、それに依拠する財政一辺倒主義が、ケインジアン内部からも粗野なケインズ主義(crude Keynesianism)と批判されるようになった状況を反映している。金融政策に関しては逆に、資産市場の一般均衡分析、マンデル=フレミング・モデル、合理的期待形成理論、貨幣についてのクレジット・ビュー、ファイナンシャル・アクセラレーターの理論等々を通じて、資産チャネル、為替チャネル、期待チャネル、信用チャネルなどのさまざまな波及経路が理論的に確認されていった。その結果、かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった。そこではもはや、金利チャネルは金融政策が実体経済に影響を与える数多くの経路のうちの一つでしかなくなったのである。ちなみに、拙著『世界は危機を克服する』(東洋経済新報社)は、初期の財政政策重視ケインズ主義を「ケインズ主義Ⅰ」、その後の金融政策重視のそれを「ケインズ主義Ⅱ」と名付けて区別している。

 こうした現代マクロ経済学の展開から見れば、現状のMMTは、旧ケインジアンのマネタリズム批判から分岐した、マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない。既述のように、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論は、ニコラス・カルドアが1970年代から80年代初頭にかけて展開していたマネタリズム批判に始まる。端的に言えば、ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである。 

 ◆共存可能な正統派と「モズラー経済学」

 興味深いことに、その観点からモズラーのSoft Currency Economics IIを読み直してみると、レイのModern Money Theoryやレイやミッチェルの教科書Macroeconomicsとは、その筆致に大きな相違が存在することに気付く。そこにはまず、レイやミッチェルなどでは二言目には出てくる「正統派マクロ経済学批判」がほとんど出てこない。確かに、信用乗数の外生論批判をはじめとして、金融政策に対する教科書的説明に対する実務的観点からの批判はふんだんに展開されているが、その視点はどちらかといえば翁邦雄『金融政策--中央銀行の視点と選択』(東洋経済新報社、1993年)などに近い。もちろん「利子外生、貨幣内生」の観点は一貫しており、その点ではポスト・ケインジアンと相通じる部分を最初から持っている。しかしだからといって、金利操作という意味での金融政策の意義を全否定しているわけでもない。むしろ、中央銀行によるマネタリー・ターゲティング的な金利操作を「好意的に」解説しているくらいである。

 これらの事実は、MMTにおける「反正統派」的な理論構成は、おそらくモズラー自身によってではなく、主にレイやミッチェルなどの元々の異端派によって、モズラー命題を「拡張」する形で追加されていったことを示唆している。本稿では冒頭で、モズラーによって発見されたMMTの中核命題や、それに基づく会計分析それ自体は、必ずしも正統派と共存不可能ではないことを指摘した。そのことは、モズラーのSoft Currency Economics IIや、そのオリジナルである1993年のSoft Currency Economicsの内容からも裏付けられるのである(オリジナルの方は現在入手不可能であるが、そのテキスト版と思われるものはEconPapersサイトのダウンロード・リンクから入手可能である)。

 モズラーのSoft Currency Economics II序文には、そのオリジナルが1996年に出版されて以降、現在のようにMMTと呼ばれるようになる以前には、その主張は「モズラー経済学」と呼ばれていたことが書かれている。おそらく、MMTが正統派と共存可能であるためには、このモズラー経済学の時代にもう一度戻ることが必要であろう。それはもちろん、正統派と対峙する異端派を自認する現状のMMTにそれが可能であればの話ではあるが。
(連載終わり) 

 ◆野口旭 

 1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

 元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】  2019年08月20日  17:30:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論

2019-08-22 00:16:10 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論 

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 <MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略である......>

 MMTによれば、現代の主流派マクロ経済学の大きな誤りの一つは、「政府の赤字財政支出は、希少な民間貯蓄を奪い、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウトする」と論じている点にある。MMTはそれに対して、政府の赤字財政支出は、それ自身が民間にとっての資産(貯蓄)となるので、民間投資のクラウド・アウトは原理的に生じないと主張する。これは、赤字財政は原則的に許容されるべきというMMTの結論を支える一つの大きな論拠となっている。 

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論

metamorworks-iStock

 本連載(4)で検討したように、正統派からみたこの議論の問題点は、MMTが政府の赤字財政支出を基本的に金融的な側面でのみ捉えており、財市場に与える影響を考慮していないところにある。というのは、民間投資のクラウド・アウト、金利上昇、インフレの加速等は、金融的現象であると同時に、財市場がその供給制約に直面して初めて顕在化するような実物的現象だからである。MMTも資源の制約が存在することに一応は言及するが、それは分析上何の役割も果たしていない。その意味では、MMTはいわば「終点のない45度線モデル」のような、不完全雇用が永遠に続く経済を暗黙裏に前提しているのである。

 実際、Macroeconomicsの第15章「総支出モデル」で展開されているのは、初期ケインジアンの基本モデルであったポール・サミュエルソン由来のケインズ型所得・支出決定モデル、いわゆる45度線モデルである。MMTにとってのサミュエルソンは、代表的なバスタード・ケインジアンの一人のはずである。にもかかわらず、IS-LMモデルやフィリップス曲線の扱いとは異なり、MMTはそのサミュエルソン的なモデルを自らの体系の一部として受け入れている。MMTは実際、「政府の赤字財政支出はその乗数倍の所得をもたらし、それはさらに政府赤字に見合うだけの貯蓄をもたらす」といった45度線モデルに特徴的な推論を、そのまま無批判に援用している。それに対して、正統派にとっての45度線モデルは、不完全雇用経済の考察においてのみ意味を持つ、その特質の一面を経済学の初学者に理解させるために長年用いられてきた教育上のツールにすぎない。

 以上の点は、「家計とは異なり政府には予算の制約は原理的に存在しない」という、MMTの基本命題を理解する上で、きわめて重要である。MMTは常々、政府財政における本質的な制約は政府の資金にではなく、その時々の生産資源の存在量にあることを強調する。逆にいえば、MMTは「供給に制約がない経済では、政府はその赤字あるいは債務を無限大にまで拡大できる」と述べている。それは、政府の予算制約は原理的に存在しないというMMT命題から導き出される、必然的な含意である。

 それに対して、正統派の多くは、「家計と政府はその制約の度合いが大きく異なるとはいえ、少なくとも時間的視野を無限大にまで引き延ばした時には、供給制約の有無にかかわらず、政府にも予算制約は存在する」と考える。確かに、政府の予算制約は家計や個人よりもはるかに緩やかである。例えば個人の場合には、寿命という生物的な制約が存在するため、債務を負う場合にも、残りの寿命の中で将来的に稼得かつ返済可能な金額がその上限となる。しかし、政府にはそのような生物的制約は存在しないので、それぞれの国がある時点でどれだけの債務を背負うことができるのかは、まさに千差万別である。

 たとえそうではあっても、正統派はMMTのように政府に予算制約は存在しないとは考えない。というのは、それが存在しないとなれば、「政府の予算制約を満たすように物価水準が調整される」ことを想定する後述の「物価水準の財政理論」やヘリコプター・マネー論が成立しなくなってしまうからである。そこでの政府予算制約の役割は、財政再建必要論といったような立場とはまったく結びつかないことに注意する必要がある。 

 ◆政府の財政運営に関するタカ派、ハト派、そしてフクロウ派

 MMTは、財政に関する専門家のスタンスを、以下のように3分類する。

 われわれは適切な財政戦略に関して、(a)赤字タカ派、(b)赤字ハト派、(c)赤字フクロウ派という三つの異なる視点を区別することができる。このカテゴリ(c)は、アメリカUMKCのMMT派エコノミスト、ステファニー・ケルトンによって追加された。

 一般には1会計年で政府収入と支出を正確に一致させることは難しいと認識されているが、赤字タカ派は、政府が財政収支の均衡あるいは黒字さえ達成するよう努力することを求める。したがって、均衡財政からの逸脱が発生した場合、政府は常にそのような不均衡に対応する必要が生じる。それは、ある年に赤字が発生した場合、政府はその翌年に支出削減あるいは増税を行い、黒字を作ることでそれを補うよう努めるべきことを意味する。 

 赤字ハト派は、政府は財政収支均衡を景気循環過程の中で達成することを目指すべきであり、景気後退期は赤字を創出し、拡大期の余剰を相殺すべきだと考えている。つまり、政府は民間部門の支出の変動を相殺するために、自らの財政能力を反循環的な政策手段として積極的に使用すべきということになる。たとえば、赤字ハト派は世界大不況期において、主要な西側諸国の低迷した経済を刺激するために赤字が必要だと主張した。彼らの見解によれば、均衡財政に向かうべき時は、回復が堅調に進行し、税収が増加し始めた後においてのみ訪れる。 

 赤字フクロウ派は、機能的財政の原理に基づいており、これらとはまったく異なる立場にある。 彼らにとっては、主権政府の財政的成果は、政策立案の有用な目標ではない。それは、 政策指針という意味では機能的ではない。そうではなく、政策は、完全雇用、物価の安定、貧困の緩和、所得不平等の減少、財政の安定、環境の持続可能性、全体的な生活水準などの、経済的に重要な課題の達成を目標とすべきなのである。(Macroeconomics, pp.333-4) 

 このタカ派、ハト派、フクロウ派というMMTの3分類は、財政に対する専門家たちの立場を区別するのに確かに有用である。赤字タカ派の歴史的な代表例は、政府財政赤字は単に民間投資のクラウド・アウトをもたらすにすぎないという、ケインズがかつて批判した大蔵省見解であろう。反ケインズ派の財政学者、ジェームズ・ブキャナンなどに代表されるように、こうした考え方は、ケインズ経済学が一般的に受け入れられて以降も根強く受け継がれていた。ちなみに、ケインズが大蔵省見解を批判したのは、民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用経済では必ずしも成立しないからである。

 それに対して、赤字ハト派とは、財政均衡は景気循環の過程で達成されればそれで十分であり、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという立場である。それはまた、「縮小させる必要がある財政赤字とは、不況期に必然的に生じる循環的赤字ではなく、好況期においても残っている構造的赤字である」という、財政運営の基本的指針を導き出す。この意味での循環的な赤字財政主義を最初に提起したのは、ヴィクセルを引き継ぐストックホルム学派を代表するグンナー・ミュルダールであったとされている。この赤字ハト派のカテゴリには、おそらく過去から現在に至る新旧ケインジアンの大部分が含まれる。

 MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と考えているのである。MMT派が常々強調しているように、彼らのこうした考え方は、アバ・ラーナーの機能的財政論に発している。確かに、ラーナーは『統制の経済学』(1944年)第24章で、「政府財政に均衡させられるべき何らかの理由があるとすれば、それは、財政赤字は悪いことだという人々が持つ偏見あるいはイデオロギーの存在のみである」と述べていた。

 ◆政府財政をめぐるリカーディアンと非リカーディアン

 この赤字ハト派の循環的赤字財政主義が典型であるが、初期のケインジアンたちは、景気循環の全体を通じた財政収支均衡を漠然と想定してはいたが、政府の通時的予算制約を明示的に考慮はしていなかった。それは、IS-LM分析が示しているように、ケインズ『一般理論』で用いられていた手法が、経済をある特定の時点で切り取った静学的分析だったからである。そこでは、フローとしての政府赤字財政支出の役割は考察できても、ストックとしての政府債務の役割は考察できない。

 旧ケインジアンが政府の通時的予算制約に配慮する必要に迫られるようになったのは、新しい古典派マクロ経済学の創始者の一人であったロバート・バローによる1974年の論文「政府国債は純資産なのか?」によってであろう。そのタイトルが示唆しているように、バロー論文は、「政府の赤字財政支出の結果としての国債は、民間の資産のように扱われているが、民間に対する将来の増税によって返済されるべきものである以上、必ずしも資産とは見なされない」ことを論じている。それは、「民間の資産は政府の債務によって生み出される」というMMTの視角とは、まさに対極にある。

 このバローの推論は、「政府の債務は家計の債務と同様に、将来のある時点では必ず返済される」という前提に基づく。これは、政府の予算制約が通時的には必ず満たされることを意味する。この場合、政府支出を増税で賄うことと国債を発行して賄うことには、国民全体からすれば差はまったくない。というのは、経済学的には、ある金額の支払いを今行っても100年後に行っても、割引現在価値で引き戻せば同じだからである。

 つまり、政府の通時的予算制約が満たされるという前提の下では、赤字財政の効果は増税と同じになる可能性がある。上述のブキャナンは、このバロー論文へのコメントの中で、同様な主張をリカードウが150年以上も前に展開していたことを指摘した。それ以降、この赤字財政政策の無効命題は「リカード=バローの等価定理」あるいは「リカード=バローの中立命題」と呼ばれるようになった。

 このバローの議論は、赤字財政主義を信奉するケインジアンたちに大きな難題を突きつけた。というのは、もしこの議論が正しければ、民間資産と見なされている国債は同時に民間債務でもあるということになり、減税政策などによって政府が財政赤字を作ることそれ自体には何のマクロ的効果もないことになるからである。

 ケインジアンにとっては幸いなことに、このバローの議論は、確かに一つの可能性ではあったが、必ずしも現実的ではなかった。まず、存命中に返済することが前提である個人の債務とは異なり、増税による債務の返済は「先延ばし」が可能である。それは、現世代の資産である国債の少なくとも一部は、現世代にとっては必ずしも返済する必要のない「純資産」であることを意味する。バローの議論の意義は、そのことも含めて、経済学者たちが政府の通時的予算制約の持つ政策的意味を考察する一大契機となった点にある。

 このバローの指摘以降、経済学においては、財政政策のあり方に関して「リカーディアン」と「非リカーディアン」という区分が用いられるようになった。赤字国債を将来の増税で賄おうとする政府はリカーディアン政府、それをしない政府は非リカーディアン政府と呼ばれる。また、政府がリカーディアンであると考え、将来必ず増税が行われるので保有する国債を純資産の増加と見なすことはなく、消費計画も変更しない家計は、リカーディアン家計と呼ばれる。逆に、将来必ずしも増税が行われることはなく、国債を純資産の増加と見なして消費支出を増やす家計は、非リカーディアン家計と呼ばれる。 

 ◆無制限な政府債務拡大は何をもたらすのか

 上述のように、MMTは、家計とは異なり政府には予算制約は本来的に存在しないと考える。MMTはまた、政府債務は民間にとっては純資産であると考える。つまりMMTにおいては、政府と民間は常に非リカーディアンである。それは、MMTが、「政府は債務拡大を通じて民間の純資産を無制限に拡大させることができる」と想定していることを意味する。 

 正統派は、そのような政府債務および民間純資産の無制限拡大が「そのままの形で」続くことは不可能と考える。とはいえ、それは必ずしも政府の通時的予算制約の不在を意味しない。正統派はむしろ、政府の予算制約が存在するからこそ、「政府が非リカーディアンな財政運営を続けていけば必ず何らかの物価調整が生じる」と考えるのである。 

 MMTによれば、政府は資源制約に直面しない限りその債務を拡大させ続けることができる。例えば、45度線モデルが永遠に続くような、生産の制約がもっぱら需要側にのみ存在する経済を考えよう。それは、ケインズが『わが孫たちの経済的可能性』(1930年)で描き出したような、社会が必要とする財貨が、近年でいえばITCやAIなどの技術革新によって、ごくわずかの労働資源の投入により供給可能になった経済である。それは、ケインズの楽観的展望とは異なり、大失業経済になる可能性もある。MMによれば、そのような経済状況下では、政府はその債務を極限まで拡大すべきであるし、そうしたとしても、資源制約に達していない以上、インフレも何も起こらない。

 それに対して、正統派の推論では、仮に経済が不完全雇用であっても、政府が永遠に債務を拡大させ続けていけば、必ずある時点でインフレ圧力が生じる。というのは、政府と家計が非リカーディアンであり、政府債務の増加が民間の純資産の増加を意味するとすれば、それが物価に何の調整ももたらさずに永遠に拡大し続けることは不可能だからである。民間の純資産とは、実物的な財貨サービスに対する将来的に行使可能な請求権を意味する。その請求権が拡大していけば、財貨サービスに対する支出も当然拡大する。その支出拡大が財貨の供給拡大を上回れば、それはやがてインフレを発生させる大きな圧力になる。

 そのことを最も簡潔に描写したのは、クリストファー・シムズの問題提起を浜田宏一・内閣参与が紹介したことで有名になった物価水準の財政理論(Fiscal Theory of Price Level: FTPL)である。それは、「現在の物価水準は将来の実質財政余剰を現在の名目債務残高と等しくさせるように決まる」という考え方である。それを式で表せば、「物価水準=名目債務残高/将来の実質財政余剰」となる。これは要するに、「物価水準は過去から将来にわたる政府の予算を均衡させるように決まる」ということである。

 ここで「名目債務残高」は過去から現在の財政赤字の累積として既に決まっているから、「将来の実質財政余剰」が大きくなれば物価水準は下落し、それが小さくなれば物価水準は上昇する。ただし、この名目債務をすべて将来の財政余剰すなわち増税で返済しようとするリカーディアン政府下では、こうした財政主導の物価変動は生じない。つまりFTPLでは、政府も家計も常に非リカーディアンが仮定されているのである。

 同じことは、ミルトン・フリードマンに始まりベン・バーナンキによって引き継がれたヘリコプター・マネー論についても言える。これは、財政拡張と金融緩和を同時に実行することで、あたかも紙幣をヘリコプターでばらまくかのように民間経済主体が保有する資産としての貨幣を増やそうとする政策である。上述のように、それによって人々が保有する資産が拡大すれば、財貨サービスに対する支出も拡大し、やがてインフレがもたらされる。この政策はFTPLと同様に、必ず非リカーディアンな政府と家計を前提とする。というのは、仮に人々が「政府はヘリコプターからばらまいた貨幣と同額を必ず増税によって回収するだろう」と考えれば、人々が支出を増やすはずもないからである。

 ◆根本的に異なる政府債務と予算制約に関するMMTと正統派の把握

 新旧ケインジアンの多くが含まれる赤字ハト派と、ラーナーからMMTに至る赤字フクロウ派は、少なくとも不況下あるいは不完全雇用下では、政府による積極的な赤字財政という政策戦略を共有できる。しかし、対立はやはり完全雇用が達成されたあとに生じる。赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである。

 MMTと正統派の間には、不況対策という面でも一つの大きな相違がある。上述のように、正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、「財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する」という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない。その意味で、MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略なのである。
(以下、MMTの批判的検討(6完)に続く

 ◆野口旭 

 1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

 元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】  2019年08月13日  16:30:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密

2019-08-22 00:16:00 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密 

 ●これまでの記事はこちら

 <MMTは「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と結論しているが、それがどのような推論から導き出されるのかを検討する......>

 その主唱者たちによれば、MMTの目的は、主流派マクロ経済学という「歪んだメガネ」によって生み出された財政と金融に関する誤った観念を排し、それをMMTから得られる正しい把握に置き換えていき、それを通じてマクロ経済政策を正しい方向に導いていくことにある。MMT派の教科書Macroeconomicsの第8章では、そのMMTによって駆逐されるべき主流派の誤謬(Mainstream Fallacy)として、以下の9つの命題が掲げられている。

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密

metamorworks -iStock 

 誤謬その1:政府は家計と同様な「予算」の制約に直面している。
 誤謬その2:財政赤字(黒字)は悪(善)である。
 誤謬その3:財政黒字は一国の貯蓄を増加させる。
 誤謬その4:政府財政は景気循環を通じて均衡されるべきである。
 誤謬その5:財政赤字は、希少な民間貯蓄を奪い合うことになるため、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウト(締め出し)する。
 誤謬その6:財政赤字は将来の増税を意味する。
 誤謬その7:政府の浪費は財源の喪失を意味する。
 誤謬その8:政府支出はインフレを生む。
 誤謬その9:財政赤字は大きな政府につながる。

 新旧ケインジアンを含む反緊縮正統派はおそらく、これらが「主流派の誤謬」だと言われれば、その誤謬を信じている主流派とはいったい誰のことなのか、よくメディアに出てきては赤字赤字と大騒ぎする緊縮保守派のことだろうか、などといぶかしく思うであろう。というのは、「政府の赤字は家計のそれとは違う」とか「政府の財政赤字は別に悪いことでない」というのは、まさしく反緊縮正統派がこれまで口を酸っぱくして言い続けてきたことだからである。実際、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという赤字財政主義は、ケインズ主義が誕生して以来の基本的な政策指針の一つであった。

 しかしながら他方で、この中には確かに正統派とは明確に異なるものもある。それは例えば「財政赤字は、希少な民間貯蓄を奪い合うことになるため、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウトする」である。あるいは「政府財政は景気循環を通じて均衡されるべきである」、「財政黒字は一国の貯蓄を増加させる」、「政府支出はインフレを生む」などもそこに含まれるかもしれない。これらは正統派にとっては必ずしも誤謬ではない。

 新旧ケインジアンを含む正統派も確かに、「赤字財政支出による民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用下ではそれほど起きない」と考えている。しかし他方で、「経済がいったん完全雇用に達した時には、赤字財政支出はほぼ確実に民間投資のクラウド・アウト、金利上昇、さらにはインフレを引き起こす」とも考えている。したがって、正統派の多くは、「赤字財政が明確に許容されるのは基本的には不完全雇用時である」と考える。

 それに対して、MMTは「赤字財政支出によるクラウド・アウトは原理的に起きない」と主張しているのである。それは、「赤字財政は完全雇用であってもなくてもインフレでない限り許容されるべきである」、そして「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」という、きわめてMMT的な結論を生み出す。以下では、そのMMTの結論がどのような推論から導き出されるのかを検討する。 

 ◆赤字財政支出がクラウド・アウトを起こさないMMT的メカニズム

 赤字財政支出がクラウド・アウトを起こさないMMTのメカニズムは、基本的にはきわめて単純である。それは、本連載(2)の「MMTのIS-LMモデルを用いた説明」の箇所で用いた下図から明らかになる。

image001.jpg

  既述のように、MMTでは常に、中央銀行は利子率を一定の水準に保つように金融調節を行うことが仮定されている。その場合、IS曲線の右シフトによって金利が上昇しようとすれば(左図)、必ずLM曲線の右シフトが誘発される(右図)。つまり、政府が赤字財政支出を拡大すれば、必ず貨幣供給の自動的拡大メカニズムが作用する。

 要するに、MMTの世界で民間投資のクラウド・アウトが生じないのは、基本的には「中央銀行が利子率を一定の水準に保つように金融調節を行うから」である。通常のIS-LM分析では、左図のように、政府が赤字財政支出を拡大すれば、必ず金利上昇(r0からr1へ)が生じる。それは、通常の右下がりのIS曲線が意味するように、より高い金利はより少ない民間投資をもたらすと仮定される場合には、政府の赤字財政支出によって民間投資がクラウド・アウトされることを意味する。しかし、そこで中央銀行が貨幣供給を増加させてその金利上昇を抑え込めば、確かに民間投資のクラウド・アウトは生じない。

 ところが、Macroeconomics第8章では、このクラウド・アウトに関する「主流派の誤謬5」に関連して、以下のようなきわめて興味深い叙述がある。

 それどころか、財政赤字は金利を引き下げる圧力となる。赤字国債の発行は、赤字財政支出から発生する銀行システムの超過準備を吸収するための利子付き証券を投資家に提供することで、中央銀行が正の目標金利を維持することを可能にする。もしこれらの準備が吸収されなかったとすれば、政府の財政赤字という環境下では、(収益を生まない準備を処分しようとする銀行の競争によって)オーバーナイト金利は下落し、それは通常行われているように超過準備に対して付利を行わない限り、中央銀行の目標金利の同様な下落を招くであろう。(Macroeconomics, p.126)

 MMTはつまり、政府の赤字財政支出は、正統派のいうような金利上昇やそれによる民間投資のクラウド・アウトどころか、「中央銀行が政策金利を維持しない場合には、むしろ金利の下落をもたらす」と主張しているのである。

 これは、本連載(1)で紹介した「MMTの中核命題--中央銀行による政府赤字財政支出の自動的ファイナンス」のステージ2に対応している。MMTにおける政府の赤字財政支出とは、まずは「政府による民間への財政支出支払い」である。それは、民間銀行における預金残高の増加、そして準備預金の増加をもたらす。それはさらに、銀行間短期金融市場での金利下落を誘発する。中央銀行の金融調節すなわち国債の売りオペは、その下落を放置せずに金利の目標水準を維持するために行われる。

 その現象をIS-LM分析で「翻訳」したのが、上の右図の矢印である。通常の正統派的な理解では、政府の財政支出によって銀行の持つ準備預金が拡大したとすれば、それはまさに中央銀行のベース・マネー供給が拡大したことを意味する。IS-LM分析ではそれはLM曲線の右シフト(LM0からLM1へ)を意味するから、利子率は当然ながら下落する。しかし、MMTが想定するように、中央銀行は通常こうした利子率の下落を許容せず、国債の売りオペによって超過準備を吸収し、利子率を矢印のように元の目標水準まで戻そうとする。それは正統派的には、中央銀行のベース・マネー供給が縮小したことを意味する。

 要するに、「政府の赤字財政支出は金利上昇よりも下落をもたらす」というMMTの主張を正統派的に解釈すれば、「その政府の赤字財政支出は、貨幣市場の方ではまずはベース・マネー供給の拡大をもたらすからだ」ということになる。

 ◆財市場が明示的には存在しないMMTの世界

 とはいえ、依然として問題は残る。上の左図が示すように、通常のIS-LM分析では、政府が赤字財政支出を行えば、それはまずはIS曲線の右シフトとして現れる。金利が上昇し、民間投資のクラウド・アウトが発生するのはそのためである。しかし、MMTの例示では、この「IS曲線の右シフト」に相当する状況は、どのステージでもまったく想定されていない。政府の赤字財政支出とは政府による民間の財サービスの吸収を意味するから、一国の生産と所得はそれによって押し上げられていくはずである。それがまさしく「IS曲線の右シフト」である。しかしMMTには、国民所得会計の恒等式は存在しても、IS曲線に相当する分析用具が存在していない。

 本連載(1)で紹介したMacroeconomics 第20章第4節における中央銀行と民間銀行のバランスシートによる資金循環分析とは異なり、ランダル・レイのModern Money Theoryの第3章では、民間非銀行部門のバランスシートが明示化されている。そこでは確かに、政府の赤字財政支出によって民間部門から政府部門に「ジェット」が移転されることが想定されている。しかしそれは、分析上は何の意味も持ってはおらず、単に「政府は中央銀行によるソブリン通貨の創出によって、金利上昇も民間投資のクラウド・アウトも引き起こすことなく、民間部門から政府部門にいくらでも財サービスを移転させることができる」というMMT命題の説明のために出てくるにすぎない。IS-LM分析のように、そうした政府支出による財サービスへの需要拡大が、財市場でのスラックすなわち産出ギャップを縮小させ、一国の雇用や所得を変えて行くとか、それが貨幣市場に影響を与えて金利あるいは貨幣量を変えて行くといった視点は、一切存在しないのである。

 要するに、MMTにはIS曲線に相当する財市場分析そのものが存在しない。MMTの世界で民間投資のクラウド・アウトが想定されていない最も本質的な理由は、まさにそこにある。IS曲線が存在せず、財市場分析が存在しないということは、「完全雇用」というマクロ経済にとっての最も本質的な供給制約も想定されていないことを意味する。ソブリン通貨の創出そのものには制約はないのだから、そうした実物的な制約が存在しない世界では、政府は確かに中央銀行によるソブリン通貨の創出によっていくらでも財サービスを民間から政府に移転させることができる。しかも、実物的な制約がなく、トレード・オフも存在しないのだから、それは民間投資のクラウド・アウトを引き起こすこともない。

 それに対して、正統派あるいはMMTの批判者たちの中では、「MMTにもIS曲線(のようなもの)はおそらく存在するが、彼らはそれを右下がりではなく垂直と仮定しているのではないか」という解釈も存在する。その解釈には確かに一定の根拠がある。通常の右下がりのIS曲線とは、金利の低下が民間投資の拡大をもたらすことを意味する。その場合には当然、金利の操作という本来的な意味での金融政策がマクロ安定化に大きな役割を果たす。逆に言えば、MMTのように「金融政策は財政政策に従属する存在にすぎない」と想定するためには、民間投資の利子非弾力性を仮定しておく必要がある。

 しかしながら、少なくともIS-LM分析では、政府の赤字財政支出によってIS曲線が右にシフトすれば、仮にそれが垂直であったとしても、必ず金利を上昇させる方向に作用する。MMTではそのようなステージがまったく想定されていないということは、そこにはIS曲線あるいは財市場そのものが存在していないと考えるほかないのである。 

 ◆クラウド・アウトに関する正統派的理解

 ところで、この「政府財政赤字による民間投資のクラウド・アウト」という問題は、通常の「正統派」的なマクロ経済学ではどのように考えられてきたのであろうか。その種の問題を考察する枠組みとして最も一般的に用いられてきたのは、グレゴリー・マンキューのマクロ経済学教科書などを通じて普及した総需要・総供給(AD-AS)分析であろう。

 

image002.jpg

  この図が示しているのは、政府による赤字財政支出は、総需要曲線の右シフト(AD0からAD1へ)を通じて、所得と物価の双方を引き上げるということである。ただし、所得の拡大には「完全雇用」という明確な限界が存在するため、総供給(AS)曲線は途中から垂直になっている。その完全雇用Y1にいったん到達した場合、政府による赤字財政支出は、所得の拡大ではなく単に物価の上昇すなわちインフレをもたらすにすぎない。

 ちなみに、この総供給曲線は、実証的には失業率とインフレ率との関係を示すフィリップス曲線に対応している。というのは、一国の所得は循環的にはほぼその失業率に依存するからである。そして、総供給曲線の垂直部分に対応する失業率が、フィリップス曲線におけるNAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment、インフレ非加速的失業率)である。

 このように、完全雇用下で行われる赤字財政支出は、一般に所得ではなく物価の上昇に結びつく。ただし、この総需要・総供給分析では、それによる金利上昇や民間投資のクラウド・アウトは明示的には現れない。それを確認するためには、赤字財政支出が資金市場にどのような影響をもたらすかを別途考える必要がある。

 まず、総供給曲線の右上がりの領域に対応する不完全雇用下では、赤字財政支出が行われても、それは金利上昇や民間投資のクラウド・アウトを大きくはもたらさない。というのは、財市場や労働市場にスラックが存在し、経済が実物的な制約に直面していない場合には、上述のように、金利上昇はいくらでも金融緩和によって抑え込めるからである。利子率外生のMMT世界では、それが自動的に行われる。しかし、経済がいったん完全雇用という実物的な制約が存在する世界に入れば、状況は一変する。

image003.jpg

 この図は、利子率が人々の資金供給すなわち貯蓄と資金需要すなわち投資を均衡させるように決まるという、資金市場の需要供給分析である。ここで、IS2マイナスIS0に相当する政府支出が赤字国債の発行によって行われたとすれば、貯蓄関数はシフトしない一方で、投資関数は0から1へと右にシフトする。その結果、金利はr0からr1へと上昇し、民間投資はIS2マイナスIS1に相当する分だけクラウド・アウトされる。つまり、完全雇用下における政府の赤字財政支出は、一般に金利上昇と民間投資のクラウド・アウトをもたらす。

 この資金市場の需要供給分析は、MMT派が口をきわめて批判する貸付資金説(loanable funds theory)に他ならない。確かに、貯蓄決定と投資決定の独立性を仮定するこの貸付資金説は、不完全雇用下ではそのままでは成立しない。それは、経済にスラックが存在し、所得の拡大余地が残されている不完全雇用経済では、「投資が所得を生み、所得が貯蓄を生む」という、投資と貯蓄との間の因果性が生じるからである。ケインズが貸付資金説を捨て去って流動性選好説を提起したのはそのためである(そのことはMacroeconomics 第12章第5節で解説されている)。しかし、ここでの分析はそもそも完全雇用で所得一定が前提なのだから、この貸付資金説を安心して使うことができる。

 MMT派はおそらく、このような議論に対しては、「利子率はそもそも中央銀行が外生的に決めるものであるから、利子率が市場の需給で決まるという貸付資金説の想定そのものがおかしい」と反論するであろう(Macroeconomicsのp.481にそうした叙述がある)。そこで、このMMT派の利子外生説を受け入れ、上の資金市場の需要供給分析で、政府の赤字財政支出にもかかわらず中央銀行が「金融抑圧」を行い、利子率をr0で固定すると仮定してみよう。

 その場合、中央銀行の信用供給によってIS2だけの投資が生み出されるが、それに対する貯蓄はIS0しかない。つまり、貯蓄に対する投資の超過需要が発生する。それは同時に財市場での供給に対する需要の超過を意味するので、当然ながら物価上昇が生じる。したがって中央銀行は、その需給の不均衡を解消して物価を安定させるためには、利子率r0を「自然利子率」であるr1にまで引き上げなければならない。これはまさしく、本連載(3)で紹介したヴィクセルの世界である。要するに、利子率内生ではなく外生にした場合には、利子率上昇のかわりに物価の上昇が生じるというだけなのである。

 ◆不完全雇用が永遠に続くMMTの世界

 このように、正統派的な推論によれば、「財政赤字は金利上昇も民間投資のクラウド・アウトもインフレももたらさない」というMMTの結論は、不完全雇用経済では成り立っても完全雇用経済では成り立たない。MMTは確かに、政府財政における本質的な制約は政府の資金にではなくその時々の生産資源の存在量にあることを強調する。しかしながら、MMTは他方で、財政赤字が金利上昇もクラウド・アウトも起こさないという主張を、完全雇用でも不完全雇用でも成り立つ一般的な命題であるかのように論じ、それを用いて「場合によってはクラウド・アウトが生じる」とする正統派の立場を批判している。それは、MMTが基本的には「永遠の不完全雇用」を前提とする理論であること、そして時々思い出したように言及される「資源の制約」がその分析上は何の役割も果たしていないことを意味する。
(以下、MMTの批判的検討(5)に続く) 

 ◆野口旭 

 1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

 元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】  2019年08月08日  15:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜

2019-08-22 00:15:50 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜 

 <MMT派と正統派とは、基本的に水と油にように混じり合わないマクロ経済思考の上に構築されている。しかし、反緊縮正統派の側からは時々「少なくともゼロ金利であるうちはMMTと共闘できる」といった発言が聞こえてくる。それはなぜか......>

 ●前回の記事はこちら: MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性

 MMT(現代貨幣理論)の主唱者たちによれば、MMTと正統派の最も大きな相違の一つは、前者が貨幣内生説であるのに対して後者は貨幣外生説を信奉している点にある。しかしながら正統派にとってみれば、貨幣内生と外生の相違は、単に現実を理論化する場合の抽象の仕方の相違にすぎない。実際、近年のニュー・ケインジアンのモデルも含めて、ヴィクセルに発する系譜のモデルは基本的にすべて貨幣内生である。

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜

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 正統派にとっては、本質的な対立点はまったく別のところにある。それは、貨幣供給の内生性を強調する議論は一般に、利子率の外生性を絶対視する「同調的金融政策」の是認ないしは擁護に陥ってしまう点である。それが、「中央銀行には経済が必要とする貨幣を供給する以外にできることは何もない」という中央銀行無能論である。

 その立場は、古くは真正手形主義(Real Bills Doctrine)と呼ばれていた。ランダル・レイの1990年の著作 Money and Credit in Capitalist Economies: The Endogenous Money Approachでの学説史的整理が示すように、ポスト・ケインズ派の内生的貨幣供給論は、まさしくその系譜の上にある。当然ながら、MMTによる「赤字財政の拡張によって貨幣(ソブリン通貨)の拡張を誘導する」という政策戦略も、その延長線上にある。

 以下でみるように、正統派はこれまで、この同調的金融政策を厳しく批判してきた。というのは、インフレやデフレを伴う貨幣的な攪乱の背後には、必ずといってよいほど、この同調的金融政策が存在していたからである。その政策批判の系譜は、19世紀初頭のリカードウから19世紀末のヴィクセル、さらには20世紀後半の日本にまで及んでいる。

 ◆ヴィクセルの不均衡累積過程

 経済学の展開の中で、同調的金融政策の持つ問題性を最初に理論的に明らかにしたのは、クヌート・ヴィクセルである。それが、ヴィクセルの主著『利子と物価』(1898年)で展開された、不均衡累積過程の理論である。

 ヴィクセルのそもそもの発想は、少なくともその出発点としては内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンと同じであった。というのは、「古典派の中心的な物価理論である貨幣数量説は、中央銀行が貨幣をどのように供給するのかを無視しているため、現実の適切な近似になっていない」というのが、自らの理論を導くに際してのヴィクセルの問題意識であったからである。

 ヴィクセルは、社会で実際に用いられる貨幣が、数量の限られた貴金属ではなく、帳簿や証書上にのみ存在する簡単に創造可能な「信用貨幣」である以上、物価理論もその前提に基づいて再構築されるべきだと考えた。その信用貨幣は、中央銀行から民間への信用供与を通じて供給される。したがって、「貨幣供給は中央銀行が外生的に設定した利子率に対する民間の資金需要によって内生的に決まるように定式化されるべきだ」というのが、ヴィクセルの基本的な発想であった。この図式は、まさしく内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの水平主義そのものである。しかし、同じなのはここまでである。

 この「利子率外生、貨幣内生」の水平主義世界では、中央銀行は確かに貨幣供給量をコントロールはできないが、利子率は「勝手に」決めることができる。というよりも、中央銀行はとにかく利子率をどこかに決めなければならない。

 例えば、毎年5%成長している経済で、中央銀行が利子率を2%に設定したとしよう。成長率が5%ということは、銀行から資金を借り入れて投資を行った場合の収益率もほぼ5%程度と考えることができる。それは、中央銀行が利子率を2%に設定した場合、民間の人々は2%の投資コストで5%の収益を得られてしまうことを意味する。こうした状況が続けば、民間の資金需要そして貨幣供給は無制限に拡大していくことになろう。その結果は、仮に貨幣数量説を前提とすれば無制限のインフレである。中央銀行による信用貨幣の供給は「帳簿上の操作」のみで可能なのであるから、それを制約するものは何もない。同様に、中央銀行が利子率を過度に高く設定した場合には、逆のメカニズムを通じて累積的な貨幣収縮とデフレが生じることになる。

 それでは、インフレにもデフレにもならないようにするためには、いったいどうすればよいのであろうか。その答えは、「中央銀行が利子率をインフレもデフレも起きないような水準に設定する」である。そのインフレもデフレも起きないような水準の利子率が、ヴィクセルが定義する「自然利子率」である。この率は、長期的には経済成長率に収斂する傾向を持つと考えられるので、上の設例では5%程度である。しかし、現実の経済では、自然利子率それ自体が失業率や設備稼働率を含むさまざまな循環的要因に左右されるため、中央銀行が設定した利子率が本当に自然利子率に適合したのか否かは、基本的には事後的な物価動向によってしか分からない。 

 いずれにせよ、このヴィクセル的世界では、中央銀行が利子率を適切に調整しない限り、マクロ経済の安定化は実現できない。というのは、中央銀行が利子率を適当に固定してそれに同調しているだけの場合、経済は必ずインフレかデフレのいずれかの累積過程に陥ってしまうからである。つまり、このヴィクセル的世界では、マクロ安定化はひとえに中央銀行の金利調整すなわち一般的な意味での金融政策に委ねられることになる。それは、中央銀行には貨幣を必要に応じて供給する以外の役割はないという、MMT的な金融同調主義あるいは中央銀行無能論とは対極にある。

 要するに、同じ「利子率外生、貨幣内生」ではあっても、ヴィクセルとMMTの政策的結論は正反対と言えるほどに異なる。両者は明らかに、それぞれ根本的に対立するマクロ経済把握と結びついている。その証拠に、MMT派はこれまで、中央銀行による政策金利調整を重視するこのヴィクセル的な把握を、その「自然利子率」という中核概念ともども批判し続けてきた。その実例の一つは、MMTの主唱者の一人であるビル・ミッチェルによる2009年8月のブログ記事 The natural rate of interest is zero!である。そこでは、本稿とほぼ重なる事柄が、まったく逆の評価に基づいて論じられているのである。

 

 ◆真正手形主義とその批判

 以上のように、貨幣に関するヴィクセルの把握によれば、中央銀行による金利調整の失敗は必ずインフレないしデフレへの途に通じる。それは、決して机上の空論ではなく、現実の世界で何度も起きていた。そして、経済学者たちはそれを指摘し続けてきた。

 最初の実例は、19世紀初頭に展開された、いわゆる地金論争である。これは、ナポレオン戦争を背景にイングランド銀行が銀行券の金兌換を停止した時期(1797〜1819年)に生じたインフレの原因と対応策をめぐる論争である。この時、地金論者といわれた人々は、インフレの原因はイングランド銀行による不換紙幣の過剰発行にあるとして、イングランド銀行を攻撃した。その急先鋒が、『地金の高い価格』(1810年)というパンフレットで颯爽とデビューしたリカードウであった。

 ただし、この論争で最も重要な役割を果たしたのは、実はリカードウではなかった。それは、上のビル・ミッチェルのブログ記事でヴィクセルの先駆として言及されているヘンリー・ソーントンである。ソーントンはこの時、『紙券信用論』(1802年)という書の中で、真正手形主義に基づくイングランド銀行の弁明論を、本質的にヴィクセルと同じ論法を用いて完全論破していた。

 イングランド銀行がこの時に信奉していた真正手形主義とは、「銀行券の発行が実需に基づく真正手形の割引を通じて行われている限り、仮に不換紙幣であっても銀行券の過剰発行は生じない」とする考え方である。これはまさしく、「中央銀行は経済が必要とする貨幣を供給するしかない」という金融同調主義あるいは中央銀行無能論の先駆である。この真正手形主義によれば、仮に銀行券がどんどんと発行され、それにつれて物価がどんどんと上がったとしても、それは「民間が真正手形をどんどんと持ち込んで来たのだから仕方がない」ということになる。それに対してソーントンは、「そうやって真正手形がどんどんと持ち込まれるのは、そもそもイングランド銀行が決めている手形割引率(今で言う政策金利)が低すぎるせいだ」と批判したわけである。

 ◆「日銀理論」をめぐる論争

 こうした経済学者たちによる批判にもかかわらず、真正手形主義の思考様式は、その後も中央銀行固有の政策思想として生き残った。それは、この理論を用いれば、貨幣供給の変動もその結果としてのインフレやデフレも、「貨幣を求めた民間側の都合によるものだ」という言い逃れで対応できるため、責任回避にはきわめて好都合であったからである。

 そうした実例の典型的な一つは、1970年代初頭に発生した日本の高インフレの原因をめぐって展開された、経済学者・小宮隆太郎と日銀の外山茂による論争である。その発端は、小宮が「1970年代初頭の高インフレは高いマネー・サプライの伸びを放置した日銀の政策ミスである」と論じたことよる(「昭和48、9年のインフレーションの原因」『経済学論集』1976年4月)。それに対して、日銀理事であり調査局長であった外山は、「この時期のマネー・サプライとベース・マネーの高い伸びは民間部門における貨幣需要増加の結果にすぎない」と反論した(『金融問題21の誤解』東洋経済新報社、1980年)。小宮はその外山への再反論の中で、「資金の過不足はそもそも金利水準に依存するのだから、その金利を無視して資金需給実績の恒等式だけから資金の逼迫とか緩慢を云々すること自体がおかしい」と指摘したのである(『現代日本経済』東京大学出版会、1988年、131-2頁)。この論争以降、小宮が「日銀流貨幣理論」と名付けて批判した考え方は、より手短に「日銀理論」と呼ばれるようになった。

 この「日銀理論」をめぐっては、1990年代初頭に、経済学者・岩田規久男と日銀の翁邦雄との間で、再び同様な論争が展開された。この時の両者の立場は、岩田による『金融政策の経済学--「日銀理論」の検証』(日本経済新聞社、1993年)と翁による『金融政策--中央銀行の視点と選択』(東洋経済新報社、1993年)によって確認できる。岩田はそこで、日本のベース・マネーとマネー・サプライは景気過熱期の80年代後半に急拡大し、バブル崩壊による景気後退とともに急減したが、これは日銀による「同調的金融政策」の結果に他ならないと批判した。翁はそれに対して、政策金利(オーバーナイトのコールレート)を一定とする限り、日銀は対応するベース・マネー需要に応じてそれを供給するしかなく、日銀にベース・マネーを任意に増減させる余地はないと反論した。それはまさしく、中央銀行能動論と無能論との対立であった。

 翁の上掲『金融政策』を今読み直してみると、MMTの生みの親であるウォーレン・モズラーのSoft Currency Economics IIと視角があまりにも似ていることに驚かされる(特にその第Ⅰ部「金融調節」)。違いがあるのは、当然だがモズラーの本が主に米FRBを念頭に置いている点と、日銀の資金需給実績でいう「財政等要因」にもっぱら焦点が当てられている点である。要するに、真正手形主義、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論、日銀理論、そしてMMTは、その思考回路においてまったく地続きなのである。

 中央銀行はどのように金利を調整すべきか

 ヴィクセルが論じたように、マクロ経済の安定化のためには中央銀行による適切な金利調整が必要不可欠だとすれば、それはこれまで、どのような制度によって担保されると考えられてきたのであろうか。

 古典派経済学者たちについていえば、彼らは概ね、信用貨幣に金兌換を課すこと、すなわち金本位制こそがその必要条件と考えていた。というのは、もし中央銀行の低金利政策によって貨幣が過剰に発行された場合には、インフレや為替下落が生じ、中央銀行が保有する金準備の流出が生じるので、中央銀行はそれを阻止するために金利を引き上げざるを得なくなると考えられたためである。こうした19世紀的原理は、後にケインズによって「金本位制のゲームのルール」と名付けられた。 

 ケインズが『貨幣改革論』(1923年)で批判したように、金本位制には金本位制なりの大きな欠陥がある。それは、金準備という「足かせ」に縛られて貨幣供給が不足しがちになり、デフレが生じがちになるという点である。しかし、リカードウやソーントンの時代のように、中央銀行の役割も明確ではなく、また真正手形主義による野放図なインフレのリスクが明らかな状況では、その足かせの方が「まだまし」と考えられたのである。

 1971年のニクソン・ショックすなわちドルと金の兌換停止、さらには世界的固定為替相場制度としてのブレトン・ウッズ体制の崩壊によって、世界は最終的にMMT論者のいう「制約なき不換紙幣(fiat money)」の体制に移行した。各国はもはや、金融政策を為替平価維持のために割り当てる必要はなくなった。そこで、政策運営の基本枠組みとして主要中央銀行が採用し始めたのが、「中央銀行がマネー・サプライを安定化させるように政策金利を調整していく」という、マネタリズム由来のマネタリー・ターゲティングであった。

 しかし、このマネタリー・ターゲティングは、いくつかの理由により、1990年代半ば以降は徐々にすたれていく。その後に主流になったのは、「中央銀行がテーラー・ルール的な金利調整ルールを用いてインフレ目標を達成する」という、インフレ・ターゲティングである。このテーラー・ルールとは、「中央銀行がインフレ率と産出ギャップを両睨みしながら政策金利を調整する」というルールである。こうした政策論の理論的裏付けとなっているのが、MMT派が批判してやまない「新しい貨幣的合意(NMC)」である。しかしそれは、ヴィクセルが提起した課題に対する、現代の「正統派」マクロ経済学からの現時点での回答なのである。

 ◆MMTと反緊縮正統派の呉越同舟が続く理由

 以上が示すように、正統派とMMT派とは、基本的に水と油にように混じり合わないマクロ経済思考の上に構築されている。しかし、クルーグマンやブランシャールなどが典型であるが、反緊縮正統派の側からは時々「少なくともゼロ金利であるうちはMMTと共闘できる」といった発言が聞こえてくる。それはなぜかといえば、1990年代末以降の日本やリーマン・ショック後の各国のように、金融政策が政策金利の下限に直面した状況では、「金利調整を通じたマクロ経済の安定化」というNMCの根本戦略が実行不可能になるからである。反緊縮正統派の多くが、金融政策と財政政策との何らかの意味での政策協調を訴えているのはそのためである。反緊縮正統派が唱えるその政策協調は、財政政策が主導し金融政策がそれに同調するというMMTの政策戦略と、少なくとも結果においては一致する。

 しかしながら、インフレ目標が達成されてゼロ金利の世界を抜け出そうとしたとたんに、両者は再び元の対立関係に戻る。MMTは当然、これまで通り、中央銀行による金利調整の無効性を訴え、マクロ安定化の役割をすべて財政政策に担わせようとするであろう。それがMMTの基本的な論理だからである。しかし、正統派の多くは当然ながら、「中央銀行による金利調整もなしに財政政策だけに頼るのでは、マクロ経済の安定化など到底実現できるはずはない」と考える。それは、ヴィクセル的な不均衡を自ら引き寄せるようなものだからである。浜田宏一・内閣参与がその論考 Does Japan Vindicate Modern Monetary Theory?で述べているように、それはまさに最悪の選択(the worst thing to do)なのである。
(以下、MMTの批判的検討(4)に続く)

 ◆野口旭 

 1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

 元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】  2019年08月01日  16:30:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性

2019-08-22 00:15:40 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性 

 <現在、世界および日本の経済論壇において、賛成論と反対論の侃々諤々の議論が展開されているMMT。その内実を検討する......。第二弾>

 ●前回の記事はこちら:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割 

 MMT(現代貨幣理論)の主唱者たちによれば、彼らがその理論を提起した大きな目的は、これまでの「正統派」によって作り上げられてきたマクロ経済に対する「ものの見方」あるいは「思考枠組み」を根底から覆すことにある。彼らは、その既存の視角は、堅牢で強固なものであるかのように装ってはいるが、実際には現実の経済を大きく歪めて見せる、いわば「歪んだレンズ」のようなものであるという。それに対して、MMTは現実の姿をありのままに見せる「歪みのないレンズ」であるというのが、彼らの自負である。

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性

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 そうしたMMTからの批判に対して、「正統派」の側からは果たしてどのような反論が可能であろうか。そのことを、多くの「正統派」経済学者たちがこれまで紡ぎ上げてきた理論に基づいて考えてみようというのが、本連載「MMTの批判的検討」の主旨である。

 前回の検討(1)で述べたように、ここで主に念頭においている「正統派」とは、MMT派の教科書Macroeconomics 第30章で要約されている「マクロ経済学における支配的主流としての新しい貨幣的合意(the dominant mainstream New Monetary Consensus in macroeconomics)」のことである。マイケル・ウッドフォードやベン・バーナンキらに代表されるその担い手たちは、一般にはニュー・ケインジアンと呼ばれている。その立場が「新しい貨幣的合意(NMC)」とされているのは、マクロ安定化のための政策としてはまずは金融政策を重視する彼らの考え方が、元々はケインジアンと厳しく対立していたマネタリズムやその後の「新しい古典派」による旧来的なケインズ経済学への批判を消化した上で生み出されたものだったからである。

 MMTにとっての彼ら主流派すなわちNMCは、ケインズを名乗ってはいるが実際にはその敵である新古典派から流れ込んだ亜流ケインジアン(Bastard Keynesians)の末裔にすぎない。しかし主流派の側からみれば、MMTあるいはポスト・ケインズ派の内生的貨幣供給論は、これまでのマクロ経済学全体の大きな進展に背を向け、特定の視角に固執して狭い党派的思考の中でガラパゴス的な進化を遂げた辺鄙な異端理論でしかない。以下では、MMTや内生的貨幣供給論がどのような意味で「辺鄙」なのかを、逆に「正統派のレンズ」を通して考えてみることにしよう。

 ◆正統派とMMT=内生的貨幣供給論との真の対立点

 最初の焦点は、貨幣供給の内生性と外生性についてである。MMTあるいはその前身である内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンは、内生的貨幣供給こそが通貨制度についての正しい理解であって、正統派の最も大きな誤りはその点の看過にあると主張し続けてきた。この批判はしかし、正統派の側にとっては単なる「いいがかり」にすぎない。というのは、確かに経済学のテキストの多くでは貨幣供給は「あたかも外生であるかのように」描写されてはいるが、それはあくまでも説明の便宜のためであって、少なくとも現実の金融政策実務に関しては、正統派においてもMMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンとほぼ同様な理解が共有されているからである。

 つまり、正統派にとってみれば、対立点は決して貨幣供給が内生か外生かにあるのではない。両者の最大の対立点は、中央銀行が果たすべき役割についての把握にある。MMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンは常に、中央銀行が政策金利を一定に保とうとする以上、貨幣供給は内生的に決まる以外にはなく、したがって中央銀行は貨幣供給をコントロールできないと主張する。実は、その把握は、少なくとも金利一定を前提とする限り、正統派もまったく同じである。しかし、正統派にとっては、それはあくまでも金融政策の出発点あるいは「前提条件」にすぎない。というのは、その前提条件の上に立って、「その政策金利の水準を中央銀行がどのように決めるのか」を考えることこそが、正統派にとっての金融政策だからである。

 つまり、MMTや内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンが中央銀行受動主義の立場であるとすれば、正統派は中央銀行能動主義の立場である。前者すなわち中央銀行受動主義は、「中央銀行には経済が必要とする貨幣を供給する以外にできることは何もない」という意味での中央銀行無能論と言い換えることもできる。これが、「新しい貨幣的合意」へと進展してきた「正統派」の中央銀行把握とはまったく相容れないのは明らかであろう。 

 ◆「貨幣内生説vs外生説」という偽りの対立図式

 内生的貨幣供給については、レイのModern Money Theoryでは以下のように説明されている。

 MMTは、中央銀行はマネー・サプライや銀行の準備預金をコントロールできないという「内生的貨幣」あるいは「水平主義者」のアプローチを共有している。というのは、中央銀行は銀行準備に対する超過需要に対して同調する以外にはないからである(水平主義についてはMoore 1988を参照せよ)。他方で、中央銀行の目標金利は、操作上は明らかに外生である。(Randall Wray, Modern Money Theory, p.89) 

 レイがここで参照を求めているのは、バジル・ムーアの1988年の著作Horizontalists and Verticalists: The Macroeconomics of Credit Moneyである。それは、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給理論を代表する著作として知られている。そこで定義されている水平主義者(Horizontalists)とはまさに内生的貨幣供給派のことであり、垂直主義者(Verticalists)とはマネタリストに代表される「正統派」のことである。この区分は、内生的貨幣供給派が貨幣は常に中央銀行によってあらゆる利子率に対してそれを一定に保つように供給される(水平の供給曲線)と考えるのに対して、マネタリストら「正統派」は、貨幣は利子率とは無関係に一定であるがごとく供給される(垂直の供給曲線)という誤った考えを前提としているという、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアン固有の把握に基づく。 

 しかしながら、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンらのこうした把握は、正統派にとっては単に「偽りの対立図式」にすぎない。というのは、正統派もまた、金融政策を実務的には「量の操作」というよりは「政策金利の操作」として把握しており、その局面では水平主義的なアプローチとまったく差はないからである。正統派は確かに、金融緩和とは要するに中央銀行が貨幣供給を増やすことと把握しているが、だからといってそれが「中央銀行による紙幣のばらまき」によって実現されているなどとは考えていない(いわゆるヘリコプター・マネーは通常の金融緩和とはその意味がまったく異なる)。

 それでは、正統派はなぜ、しばしば貨幣供給を「あたかも外生であるかのように」論じているのであろうか。それは、たとえば「中央銀行が金融引き締めを実行する」という状況を考えると、「政策金利を引き上げる」のと「貨幣供給を減らす」のでは、事実上ほとんど同じことを意味するからである(金融緩和の場合にはその逆になる)。

 中央銀行が金融引き締めを実行するとは、具体的には「中央銀行が政策目標である銀行間の短期市場金利を2%から2.25%に引き上げる」といったことを意味する。このように中央銀行が短期市場金利をより高い水準に誘導するためには、中央銀行は、銀行全体への準備預金の供給を絞る必要がある。さらに、短期市場金利が上がれば、それに伴って銀行の貸出金利も上昇するので、銀行貸出の縮小を通じて銀行預金全体の縮小が生じる。それは、銀行による準備預金への需要そのものを減少させる。したがって、政策金利の引き上げは通常、準備預金を含むベース・マネーと銀行預金を含むマネー・サプライ全体の収縮をもたらすわけである。

 多くの「正統派」によるマクロ経済学教科書ではしばしば、金融政策の効果を説明する時に、この「政策金利から貨幣供給へ」の経路の部分がショートカットされ、中央銀行があたかも貨幣の量を直接増減させているかのように描かれている。それは、マクロ経済学の教科書が、読者に中央銀行の政策実務を理解させるためのものではなく、金融政策すなわち中央銀行による金融緩和や引き締めがマクロ経済全体にもたらす効果を理解させるためのものだからである。

 要するに、「貨幣供給外生説」は正統派にとっての本質的構成要素ではまったくない。それは単に、説明の便宜のための抽象化にすぎない。その意味で、「貨幣内生説vs外生説」という対立図式は、正統派にとっては捏造以外の何物でもないのである。 

 ◆正統派における貨幣外生・内生の位置付け

 ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論は、イギリス・ケインジアンを代表する存在であったニコラス・カルドアが1970年代から80年代初頭にかけて展開していたマネタリズム批判を発端としている(代表的には1982年に出版されたThe Scourge of Monetarism)。確かに、マネタリズムの中核理論は「物価は貨幣の供給量によって決まる」という古典派経済学以来の貨幣数量説であり、それはそれ自体としては典型的な貨幣供給外生モデルである。それがまさに、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンやMMT派が未だにマネタリズムを親の敵でもあるかのように論難するゆえんである。

 実際のところは、このマネタリズムですら必ずしも内生的貨幣供給論とは矛盾しない。マネタリズムの考え方は、1980年代以降、中央銀行の金融政策運営に実際に影響を与え始めたが、それは「中央銀行がマネー・サプライを安定化させるように政策金利を調整していく」という、いわゆるマネタリー・ターゲティングとしてであった。マネー・サプライは一般に、銀行貸出に影響を与えるさまざまな外生的要因によって増減する。上述のように、それは他方で中央銀行が決める政策金利からも影響を受ける。中央銀行はしたがって、マネー・サプライの安定化のためには、その外生的な増減を吸収するように政策金利を調整していかなければならない。マネタリズムの現実的実装としてのこのマネタリー・ターゲティングは、少なくとも「その時々に目標とされた政策金利を維持する」という局面においては、MMTや内生的貨幣供給論が強調する「現実」と何ら変わることはないのである。 

 これまでの代表的な「正統派」の経済モデルを振り返ってみても、それらが貨幣外生一辺倒であったとは決していえない。上述のように、利子率と貨幣供給との間には「利子率の上昇(下落)は貨幣供給の縮小(拡大)をもたらす」という負の関係があるので、一方を外生変数として固定すれば他方は必ず内生変数となる。したがって、一般的なマクロ経済モデルの多くは「利子率外生、貨幣内生」か「利子率内生、貨幣外生」のどちらかである。少なくとも、両方を外生扱いにはできないということである。

 MMT派の教科書Macroeconomics第28章では、「新しい貨幣的合意(NMC)」が成立する以前の「亜流ケインジアン」たちにとっての支配的マクロ経済モデルとして、IS-LMモデルが批判的に紹介されている。IS-LMモデルとは、一国の所得と利子率を、それぞれ財市場と貨幣市場の均衡を示すIS曲線とLM曲線の均衡点として導くモデルである。これは、利子率が内生的に決まるモデルであるから、貨幣供給は当然ながら外生である。

 IS-LMモデルは、イギリスの経済学者ジョン・リチャード・ヒックスがケインズの『一般理論』(1936年)をモデル化したものである。つまり、ポスト・ケインジアンによる「ケインズの本来あるべき姿」についての思い入れ的解釈がどうであれ、ケインズ本人は『一般理論』では間違いなく貨幣外生を仮定していたのである。

 他方で、『貨幣論』(1930年)でのケインズは、『一般理論』とは異なり、「利子率外生、貨幣内生」のモデルを想定していた。それは、『一般理論』が出現する以前には、ケインズを含む経済学者の多くが、スェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルの『利子と物価』(1898年)の定式に従い、中央銀行が利子率を外生的に操作し、貨幣供給はそれに応じて内生的に決まるという形式のモデルを用いて景気変動の問題を考察していたためである。このヴィクセルの追随者たちは、経済学史家によって「ヴィクセル・コネクション」と呼ばれている。

 この金融政策についてのヴィクセル的把握の伝統は、IS-LMモデルの隆盛によっていったんは途絶えたかのように思われた。しかしそれは、「新しい貨幣的合意(NMC)」の成立とともに見事に復活した。Macroeconomics第30章のAppendixでも解説されている通り、NMCの背後にあるニュー・ケインジアンのモデルは、利子率が金融政策を表示する唯一の変数とされ、貨幣供給量は明示的には現れないため、しばしばネオ・ヴィクセリアン・モデルともいわれている。

 ◆MMTのIS-LMモデルを用いた説明

 以上から明らかなように、正統派にとっては、貨幣供給の扱いが内生か外生かは、単に現実をどのように抽象化するのが適切かという観点から考察されるべき問題であり、マクロ経済に関する把握を本質的に左右する問題ではない。実際、MMTから得られる結論の少なくとも一部は、IS-LMモデルで貨幣供給量ではなく利子率を外生化すれば十分に説明可能なのである。

image001.jpg

 この左の図は、貨幣外生、利子率内生が仮定された、通常のIS-LM分析である。その図が示すように、政府が赤字財政支出を行えば、IS曲線が右にシフトし、利子率と所得はともに拡大する。それに対して、右の図は、利子率外生が仮定された「貨幣内生版のIS-LM分析」である。ここでは、MMT派や内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンが通常想定するように、中央銀行は常に利子率を一定の水準に保つように金融調節を行うことが仮定される。その場合、図が示す通り、LM曲線は必ず右にシフトする。それは、利子率を外生化した場合には、政府の赤字財政支出の結果、貨幣供給の自動的拡大メカニズムが作用することを意味する。

 この「政府の赤字財政政策が貨幣供給の自動的拡大をもたらす」というメカニズムは、MMT派が想定する図式とほぼ同じである。より詳しく吟味すると両者の間にはやや異なる部分も存在するが、それは主に、IS-LMモデルにおけるIS曲線すなわち財市場分析に相当するものがMMTには明示的には存在していないためである(その問題は改めて取り扱う)。

 ところで、この利子率内生版と外生版の二つのIS-LM分析を比較すると、政府が同じように赤字財政支出を行う場合でも、その結果には一つの大きな相違が存在することが分かる。それは、利子率外生版の方では、政府の赤字財政支出によって貨幣供給の自動的拡大がもたらされる結果、「所得のより一層大きな拡大」が実現されている点である。問題は、そのことをマクロ経済の安定化という観点からどう評価すべきかにある。

 マクロ経済政策に関する「正統派」の文献では、こうした「利子率をできるだけ安定化させようとする」金融政策運営は、一般に「同調的金融政策」と呼ばれている。MMT派や内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンはいわば、この同調的政策運営こそが金融政策の「常態」と考えているわけである。

 それに対して、「正統派」の側は、金融政策のそうしたあり方をほぼ一貫して批判し続けてきた。その同調的金融政策の持つ問題性を最も理論的に明確に示した経済学者こそが、上述のヴィクセルである。しかしそれは実は、19世紀初頭のデヴィッド・リカードウらによるイングランド銀行批判から、ごく最近の金融政策に関するさまざまな論争に至るまで、金融政策をめぐる思考の対立のまさに中核であり続けてきたのである。
(以下、MMTの批判的検討(3)に続く) 

 ◆野口旭 

 1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

 元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】  2019年07月30日  17:30:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割

2019-08-22 00:15:30 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割 

 <現在、世界および日本の経済論壇において、賛成論と反対論の侃々諤々の議論が展開されているMMT。その内実を検討する......>

 消費増税を含めた財政をめぐる論議が続く中で、MMT(現代貨幣理論)に注目が集まっている。7月中旬には、その主唱者の一人であるステファニー・ケルトン(ニューヨーク州立大学教授)が来日し、講演や討論を行い、昨今のMMTブームを反映するかのように大きな盛り上がりを見せた。その模様は一般のマスメディアでも幅広く報じられた。 

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割

metamorworks-iStock

 MMTの生みの親であるウオーレン・モズラーのSoft Currency Economics II序文によれば、その最初の契機は、国債トレーダーを経て証券会社の創業者となったモズラーが、1990年代初頭に当時「財政危機」が喧伝されていたイタリア国債の売買を行った時に得た一つの「発見」にあった。その把握が、それ以前からポスト・ケインジアンの一部に存在していた内生的貨幣供給理論と結びついて構築されたのがMMTである。その「ポスト・ケインジアン出自のMMT論者」を代表する存在が、MMTの定番概説書であるModern Money Theoryの著者であり、MMT派による初のマクロ経済学教科書Macroeconomicsの執筆者の一人でもあるランダル・レイ(ミズーリ大学教授)である。 

 このように、MMTの枠組みそれ自体は、既に20年以上もの歴史を持っている。しかしながら、それがこれだけの大きな注目を集め始めたのは、学界においてさえごく最近のことにすぎない。

 筆者は、2010年3月に上智大学で開催された「第6回 国際ケインズ・コンファランス」(平井俊顕・上智大学教授の主催による)に参加し、報告と討論を行ったが、その時に海外から招かれて報告と討論を行っていた一人がランダル・レイであった(その時の報告者と討論者の一覧は、平井教授のホームページに残されている告知から確認できる)。今にして思い起こせば、レイはその時、小野善康・大阪大学教授の報告に対する討論の中で、確かに雇用保証プログラム(JGP)に類する内容のことを言及していた。とはいえ、当時はおそらく、筆者も含む参加者のほとんどが、MMTそれ自体についてはごく断片的な知識しか持っていなかった(実際そのカンファレンスではMMTは討論の対象どころか話題にさえなっていなかった)。レイに対する参加者の多くの認識も、あくまでも内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンを代表する一人といった程度であった。これがもし現在であれば、その扱いはまったく異なっていたはずである。

 松尾匡・立命館大学教授などが指摘するように(「MMT」や「反緊縮論」が世界を動かしている背景)、MMTがこれだけの大きな注目を集めるようになった背景には、政治的左派と右派の両者を含む形で拡大しつつある、世界的な政策潮流としての「反緊縮」が存在する。それは、2010年春に生じたギリシャ危機とその後の欧州ソブリン債務危機を契機とした世界的な緊縮(Austerity)へのアンチテーゼである。その反緊縮という政策的立場の理論的裏付けとしてここにきて急浮上したのが、「インフレが生じるまでは政府財政赤字を積極的に拡大させ続けるべき」と論じるMMTだったわけである。

 ◆MMTと「主流派」の違いはどこにあるのか

 MMTに対しては現在、世界および日本の経済論壇において、賛成論と反対論それぞれの立場から、まさに侃々諤々の議論が展開されている。アンチもまたファンの一部とすれば、それはまさしく「MMTブーム」と呼ぶにふさわしい状況である。

 その論議において最も特徴的なのは、MMTに対する賛否が、あたかもマクロ経済の把握に関する主流派(orthodoxy)と異端派(heterodoxy)を区分けする一つの大きな分水嶺にさえなっているように見える点にある。これは、必ずしも「主流派」側の問題設定によるものではない。それはむしろ、両者を厳正に区別しようとする、MMTの側の明確な戦略的意図の反映である。実際、過去から現在に至る経済学の流れを主流派と異端派へと真二つに分断した上で、前者がいかに誤っており、後者から生み出されたMMTがいかに正しいかを微に入り細に入り論じているのが、上掲Macroeconomicsなのである。

 実のところ、MMTの言う「主流派」の中には、財政緊縮派ももちろん存在するが、それと対峙して性急な増税や支出削減の危険性や無用性を訴え続けてきた反緊縮派も数多く存在する。そのような立場の論者としては、ポール・クルーグマン、ジョセフ・スティグリッツ、ラリー・サマーズ、オリビエ・ブランシャールといった名前がすぐに思い浮かぶ。MMT流の区分に従えば、筆者も含む日本のいわゆるリフレ派も、おそらくそのような意味での「主流派」の一分枝ということになるであろう。

 注目すべきは、この「反緊縮」という政策論における表面的な一致にもかかわらず、クルーグマンやサマーズに代表される「主流派中の反緊縮派」がほぼ誰一人としてMMTを評価することはなく、逆にMMTの側もまた彼らをまったく評価していないという事実である。確かに一部には、MMTの政策論としての意義を限定付きで認める声もある(例えば浜田宏一・内閣参与のインタビュー「MMTは均衡財政への呪縛を解く解毒剤」)。しかしその立場の論者も、理論としてのMMTには手厳しい批判を行うことが多い。そして、MMT側からすれば、この種の反緊縮派は、彼らにとっての友軍ではまったくなく、明らかに敵なのである。

 なぜ両者がこのように相容れないのかを知るためには、何よりもまず、「主流派」とMMTの理論的な違いはどこにあるのかを確認する必要がある。そこでここでは、MMTを代表すると思われるSoft Currency Economics II: MMT - Modern Monetary Theory Book 1(Warren Mosler著、初版は1993年)、Modern Money Theory: A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary Systems, 2nd Edition (Randall Wray著、2015年)、Macroeconomics(William Mitchell、Randall Wray、Martin Watts著、2019年)という3冊の書物に主に依拠しながら、両者の相違がどこにあり、その相違が何に基づいているのかを、数回に分けて論じることにしたい。

 これから明らかにしていくように、MMTと「主流派」の考え方の間には、一見すると異なっているようにみえていながら実は本質的には異なってはいない部分と、逆に表面的には似通っているが実は本質的に相容れないという部分の両者が複雑に混在している。貨幣供給の内生性と外生性をめぐる「対立」は、前者の典型的な実例である。それに対して、いわゆる「ヘリコプター・マネー」論は、後者の実例の一つである。一般のメディアなどではしばしば、MMTは「お金を社会にばらまく」ヘリコプター・マネーの一種であるかのごとく紹介されている。しかし実際には、MMTとミルトン・フリードマンからバーナンキに至る主流派内でのヘリコプター・マネー論とでは、その論理構造がまったく異なる。 

 ◆MMTにとっての「主流派」とは何を指しているのか

 MMTと主流派との理論の違いを見極めるという作業において、最初に明確にしておく必要があるのは、この「主流派」とはいったい何なのかという点である。MMT は確かに貨幣数量説に基づくマネタリズムを徹底的に批判する。しかしながら、MMTが批判の対象とする「主流派」は、マネタリズムから合理的期待形成論を経て実物的景気循環論に至る「新しい古典派」のみを指しているわけでは必ずしもない。 

 その「MMTが敵視する主流派」を最も明確に描写しているのは、Macroeconomicsの第30章である。そこで提起されている「マクロ経済学における支配的主流としての貨幣的合意(the dominant mainstream New Monetary Consensus in macroeconomics)」こそが、その「主流派」の内実である。それは、マネタリズムや新しい古典派そのものではなく、それらの成果を批判的に取り入れて構築された、広義のニュー・ケインジアン経済学である。その代表的な担い手として取り上げられているのは、ポール・クルーグマン、マイケル・ウッドフォード、ベン・バーナンキらである。MMTによれば、彼らニュー・ケインジアンは、ケインズの名を語ってはいるものの、本質的には新古典派経済学の一分派としての亜流ケインジアン(Bastard Keynesians)あるいはその末裔にすぎない(図参照)。

image001a.jpgマクロ経済学系統図 出典:Macroeconomics p.434 Figure 27.1

 この「マクロ経済学系統図」が示すように、MMTにおいては、ポール・サミュエルソン、ジョン・リチャード・ヒックス、ジェームズ・トービンといったケインズ経済学における初期の代表的担い手たちは、すべてこの亜流ケインジアンのカテゴリーに括られている。さらに、グレゴリー・マンキュー、アラン・ブラインダー、スティグリッツのようなニュー・ケインジアン、そしてバーナンキに代表される「マクロ経済学における新しい貨幣的合意」といったカテゴリーは、その流れの進化版として位置付けられている。

 つまりMMTにおいては、マネタリズムや新しい古典派のような反ケインズ的マクロ経済学と真正面から闘い続けてきた彼ら新旧のケインジアンたちが、不埒にケインズの名を語る新古典派的亜種として一括りで敵側に追いやられているのである。MMTはしばしば、ニュー・ケインジアンも含む「主流派」の側から、その強い党派性を指摘されている。しかし、それは実は、MMT自らが意図的に設定したこの「戦略的対抗軸」の反映なのである。

 ◆MMTの中核命題--中央銀行による政府赤字財政支出の自動的ファイナンス

 冒頭で述べたように、MMTの出発点であり、かつその不変の中核となっているのは、国債トレーダーであったウオーレン・モズラーによる以下の「発見」である。

 政府の赤字財政支出(税収を超えた支出)は、政策金利を一定の目標水準に保つ目的で行われる中央銀行による金融調節を通じて、すべて広い意味でのソブリン通貨(国債も含む)によって自動的にファイナンスされる。したがって、中央銀行が端末の「キーストローク」操作一つで自由に自国のソブリン通貨を供給できるような現代的な中央銀行制度のもとでは、政府支出のために必要な事前の「財源」は、国債であれ租税であれ、本来まったく必要とはされない。

 このMMT命題の背後にあるメカニズムを最も簡潔に描写しているのは、Macroeconomics の第20章第4節Coordination of Monetary and Fiscal Operations である。レイのModern Money Theoryでその問題が取り扱われているのは第3章である。モズラーのSoft Currency Economics II は、ほぼ全編がこの問題の解明に当てられているといってよい。しかしながら、レイのModern Money Theoryとモズラーの書籍の説明は必ずしも明快ではないので、以下ではもっぱらMacroeconomics第20章第4節の説明を援用する。

image002.jpg純政府支出に伴うバランスシート 出典:Macroeconomics p.321 Table 20.1

 この表は、中央銀行と民間銀行のバランスシートによる資金循環分析を用いて、政府が行う赤字財政支出がどのようなプロセスを経て政府部門と民間非政府部門の間の資産負債の変化を引き起こすのかを明らかにしたものである。それは、以下の3段階からなっている。

 ■ステージ1:政府が100の赤字財政支出を行うために、同額の政府預金を中央銀行に創出する。
 ■ステージ2:政府が100の支出を行った結果、支出の支払いを受けた個人や企業が民間銀行に持つ銀行預金が100だけ増加する。その結果、民間銀行が中央銀行に持つ準備預金が100だけ増加する。それは、政府が中央銀行に持つ100の政府預金が、民間銀行が中央銀行に持つ100の準備預金に振り替えられたことを意味する。
 ■ステージ3:法定預金準備率が仮に10%であるとすると、ステージ2の結果、民間銀行は90の超過準備を持つことになる。そこで民間銀行は、その収益の得られない超過準備を処分して収益の得られる国債を中央銀行から購入する。その結果、中央銀行の保有する国債と民間銀行が中央銀行に保有する準備預金は90だけ減少する。
これらのプロセスから、政府が100の赤字財政支出を行った場合、最終的には、民間部門は10の準備預金と90の国債という形で、必ず同額の資産を得ることになる。

 若干の補足をしておこう。まずステージ1では、政府が財政支出の便宜のために国債を見返りに中央銀行に政府預金を創出することが想定されている。これはあるいは、多くの国で禁じられている「国債の中央銀行引き受け」に相当するように見えるかもしれない。しかしながら、中央銀行は同時に、制度的には必ず「政府の銀行」の役割を果たさなければならない。それは結局のところは、「中央銀行が国債(政府の債務)の見返りに政府に預金を与えている」ことを意味する。仮に政府が「財源」の調達のために支出の前にまずは民間銀行に国債を売却したとしても、Modern Money Theoryの第3章に示されている通り、最終的な結果は同じである。

 この一連のプロセスで鍵となっているのは、ステージ3である。政府支出の結果として民間の銀行預金および民間銀行の準備預金が増加したとき、民間銀行がそれを国債に振り替えようとするのは分かるとしても、その国債が必ず中央銀行の売りオペによって供給されるのはなぜなのであろうか。

 それは、「中央銀行は常に政策金利を一定の目標水準に保つ目的で金融調節を行っているから」である。政府支出の結果として民間銀行が中央銀行に持つ準備預金が拡大し、超過準備が発生すれば、それは必ず政策金利すなわち中央銀行が操作目標としている銀行間の短期市場金利を押し下げるように作用する。中央銀行はその場合、必ず保有する国債を売却して超過準備を吸収しなければならない。というのは、中央銀行がそれをしない限り、政策金利を一定の目標水準に保つことはできないからである。

 本来、中央銀行が政策金利を一定に保とうとする限り、金融市場におけるあらゆる資金需給の変化は、中央銀行の金融調節によって必ず相殺される。その局面では確かに、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給理論がかねてから論じてきたように、中央銀行は「経済の必要に応じて通貨供給を増減させるしかない」きわめて受動的な存在となる。MMTの新奇性は、その観点を政府赤字財政支出の問題に適用した点にある。

 実は、「正統派」から見たこの内生的貨幣供給理論あるいはMMTの議論の最大の問題点は、この「中央銀行が政策金利を一定に保つ」という前提それ自体にある。しかし、その課題について検討を加えるのはまだ先のことである。 

 ◆MMTの「基本方程式」

 これまで確認したように、政府の赤字財政支出は、中央銀行の金融調節を通じて、民間部門の国債保有あるいは準備預金のいずれかによって自動的にファイナンスされる。つまり、赤字財政支出に「財源」は必要ない。ところで、準備預金と現金は、中央銀行が独占的に供給するソブリン通貨に他ならない。それは一般的には、ベース・マネー、ハイパワード・マネー、あるいはマネタリー・ベースなどと言われている。したがって、政府の赤字財政支出は、必ず事後的には国債かベース・マネーのいずれかによってファイナンスされることになる。 

 他方で、民間部門が保有する資産が国債であれベース・マネーすなわち現金あるいは準備預金であれ、国債には金利が付くがベース・マネーには金利が付かないという点を除けば、どちらも政府部門が民間部門に対して負う債務であり、政府税収を通じてのみ償還されるという点では基本的に同じである。MMTはそのことから、単にベース・マネーのみではなく国債もまたソブリン通貨の一形態として把握する。
以上の考察を一般化すると、次式が得られる。 

image003.jpg出典:Macroeconomics p.322 (20.1)

 ここで、Gは政府支出、Tは政府税収、Bは国債残高、Mhはベース・マネー残高である。△はそれらの変数の増減である。また、iは国債金利であり、したがってiBは政府から民間への金利支払い総額である。この式は、政府の財政収支(左辺)は必ず国債残高およびベース・マネー残高の増減(右辺)に等しくなるという関係を示している。

 この式は本質的には、どのような場合にも常に成立する自明の会計的恒等式にすぎない。しかしながら、MMTにとってのこの式は、「基本方程式」とでもいうほどの重要性を持っている。というのは、MMTの独自命題のほとんどは、この式の「特定の解釈」から導き出されているからである。

 MMTはまず、この式の因果関係は、常に左辺から右辺に向かっていると考える。つまり、政府財政赤字が民間資産の拡大を生むのであり、その逆すなわち政府財政赤字がベース・マネーや国債の発行によって制約されているのではない、ということである。MMTはそのことを、「スペンディング・ファースト」と呼んでいる。

 MMTはさらに、この式を、どのように時間を引き延ばしても成立する一般的な関係式として把握する。それは、ソブリン通貨を自由に発行できる場合には、現在の政府赤字を将来の黒字で償還するといった政府の通時的予算制約を前提とした財政運営は必要ではないことを意味する。
(以下、MMTの批判的検討(2)に続く)

 ◆野口旭 

 1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

 元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】  2019年07月23日  19:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【富士通総研】:MMT(現代貨幣理論):その読解と批判

2019-08-22 00:15:20 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【富士通総研】:MMT(現代貨幣理論):その読解と批判

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【富士通総研】:MMT(現代貨幣理論):その読解と批判

 最近、MMT(現代貨幣理論)が内外で注目を集めている。MMTの信用創造に関する理解は通説より説得的であるなど、その見解には見るべき部分もあるが、「インフレにならない限り、財政赤字に悪影響はない」といった主張は受け容れられない。MMTは会計論に終始し、価格や均衡の概念を欠くところに本質的な弱点がある。なお本稿では、米国主流派経済学者の間で高まっている財政政策重視論についても検討を加える。 

 ◆はじめに

 MMT(現代貨幣理論)が内外で注目を集めている。もともとは、地球温暖化阻止を目指したグリーン・ニューディールや、多額の学生ローンを背負った若者の救済を訴える、米国民主党左派のアンドレア・オカシオ・コルテス下院議員(通称AOC)らが、その財源に関して「財政赤字を心配する必要はない」とするMMTを支持したことから、これまで殆ど無名だったMMTを巡って米国内で論争が捲き起こったものだ。その過程で、インフレや金利上昇を懸念する主流派経済学者に対して、MMTの主唱者の一人であるステファニー・ケルトン教授が「巨額の財政赤字でもインフレも金利上昇も起こっていない日本はMMTの成功例」などと主張したことから、日本にも論争が飛び火した経緯がある。

 本稿は、このMMTについての評価を試みようとするものだが、問題はクルーグマンも指摘するように(注1)、MMTの議論の仕方自体が伝統的な経済学と大きく異なるため、何が言いたいのかよく分からない面があることだ。実際、現時点でMMTの代表的著作とされるL. Randall Wray, Modern Money Theory : A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary System 2nd ed, Palgrave-Macmillan, 2015(注2)を読んでみても、その論理展開は決して明晰とは言えない。しかし、日本では幸いなことに中野剛志氏の手になる解説書(『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』、KKベストセラーズ、2019年)が出版されており、こちらの方が遥かに分かりやすい。そこで以下では、主にこの2著を参照しつつMMTの読解と批判を進めて行く。

 予め趣旨を述べておくと、筆者も「インフレにならない限り、財政赤字には問題がない」、「インフレになったら、税金を増やせば良い」といったMMTの主張に賛成することはできない。後述するように、MMTの最大の弱点は会計論に終始していて、価格(金利)とか均衡といった経済学の基本的な道具立てを欠く点にある(だから、クルーグマンにも理解できないのだろう)。しかし、MMTの主張の中には主流派経済学の弱点を突く議論が含まれており、単純に「意味不明」とか「全くの誤り」などと切り捨てるべきではないというものである。なお、本稿の補論では、米国主流派経済学者による最近の財政政策重視論(サマーズ、クルーグマン、ブランシャールらはMMTを批判しつつ、財政政策の重要性を訴える主張を展開している)に対して批判的な見解を述べる。

 ◆信用貨幣論に基づく信用創造の理解

 筆者の見るところ、MMTは①信用貨幣論(credit theory of money)に基づく信用創造の理解、②ラーナー流の機能的財政論(functional finance)による財政の理解、③表券主義(chartalism)に基づく現金通貨の理解、という3本の柱からなるものと考えられる。以下では、これらを順に説明しながら、必要な批判を加えていくこととしよう。

 信用貨幣論は、さらに遡れば19世紀英国における通貨主義(currency school)vs 銀行主義(banking school)の対立のうち、銀行主義の流れを汲むものだが、最大の特徴は信用創造をどう理解するかに求められる。普通は、預金を元手に銀行が貸出を行うことから信用創造がスタートすると考えられている。しかし、MMT=信用貨幣論では「銀行が貸出を実行すると、直ちに同額の預金が生まれる」と考える。一般の人には不思議に思われるかも知れないが、これは金融界に属する人間には常識だと思う。実際、貸出を行うということは(貸出に関する契約書等を別にすれば)、「貸出先の預金口座に貸出額に等しい預金を書き込む」ことに他ならないからだ。貸出の原資としての預金を事前に必要とはしない。原資が必要になるのは、貸出先の企業が支出をすると預金が自行から他行に流出するからであり、その場合の不足資金は預金でなく市場(日本ではコール市場、米国ではFF市場など)で調達してもよい。中野氏の書物によれば、こうした信用貨幣論は近年のイングランド銀行の四季報でも紹介されているとのことだが、筆者にしてみれば40年以上前に日銀に入行した時、最初に習ったことの一つである(注3)。

 もちろん、通常の貨幣乗数の公式は、マネーストックとマネタリーベースの定義式を変形しただけだから、MMTにおいても成り立つ。だが、

 マネーストック=貨幣乗数×マネタリーベース 
 貨幣乗数=(1+現金/預金)÷(準備預金/預金+現金/預金)

 と書くと、どうしても本源的な預金=マネタリーベースを供給する中央銀行が主体であり、それを乗数倍増やす銀行は受動的な存在という描像が生まれやすい。しかし、MMTでは貸出が出発点だから、「中央銀行がマネタリーベースを増やしても、資金需要がなければ貸出は増えないので、マネーストックも増えない」ということになる。事実、2000年代の量的緩和でも今回の「異次元緩和」でも、金融界からは「日銀当座預金を増やしても、資金需要がないのでブタ積みになるだけだ」という声が聞かれたのは周知の通りである。そして実際に、量的緩和や「異次元緩和」の結果、マネーストックが大きく増えることはなかった。信用創造の実態を知る実務家の見方が正しかったということになる。

 確かに、正統派の経済理論でも金利のゼロ制約の下では上記の式が成り立たない(または貨幣乗数が著しく不安定化する)ことは説明できる。しかし、中央銀行を主体とする信用創造に関する描像が、ゼロ金利でも「マネタリーベースが増えればポートフォリオ・リバランス効果が生まれる」、「インフレ期待が高まる」といった議論(いずれも理論的には間違いである)につながったのではないか。そういう意味で、「金融実務家の常識」を理論の1つの柱として打ち出したのはMMTの功績であり、MMTの信用創造の理解は主流派経済学の弱点を突くものとなっていると思う(注4)。

 とは言え、MMTの説明では貸出がどれだけ行われ、貸出金利がどう決まるかは全く分からない。そのためには、貸出市場の均衡条件、例えば

 貸出金利=市場金利+(金利以外の)貸出の限界費用

 が必要になる。貸出の限界費用とは審査費用などであり、これが貸出量に関して逓増し、一方で貸出金利が貸出量の減少関数となるとすれば、この式から貸出量と貸出金利が決まることになる(因みに、貸出市場の均衡に影響を与えるのは、限界的な資金調達コストだから、預金金利ではなく市場金利である)。日本では、当時日銀のエコノミストだった鈴木淑夫氏(後に日銀理事)が半世紀以上前に定式化したものであり、先の信用貨幣論とこの銀行行動の理論を2つの柱とするものが世に言う「日銀理論」だと筆者は理解している(注5)。

 問題は、この考え方が財政に適用された場合だ。Wrayの説明は分かり難いが、中野前掲書(第6章)は銀行が国債を購入し、政府が国債発行で得た資金を使えば国債発行額と同額の預金が創出されるため、国債発行に制約はないと言う。しかし、銀行システム全体としては国債発行と同額の預金が生まれるとしても、個々の銀行が国債を買う際には当然採算を考えなくてはならないし、長期国債の場合は資金を固定するリスクも考慮する必要がある。結局、貸出市場の場合と同様に、銀行がどれだけ国債を購入するかは、市場の条件、すなわち現在から将来に掛けての短期市場金利の予想などによって決まることになる。銀行により多くの国債を買ってもらうためには金利が上がる必要があるから、国債発行額が増えれば国債の金利は上がる。国債発行に限界がないのではなく、金利という価格の制約が厳に存在するのである。

 ◆機能的財政論による財政の理解

 MMTのもう一つの柱は、ラーナー流の機能的財政論による財政の理解である。ラーナーの機能的財政論(注6)とは、「財政が健全か否か」などといった基準ではなく、「完全雇用に寄与しているか」、「インフレを招いてはいないか」といった実際に財政がマクロ経済で果たしている役割(function)に即して財政を評価すべきという、ある意味で極めて常識的な主張である。一方、マクロ経済学の教科書を開いてみると、通常は政府の異時点間の予算制約式として、

 現時点の国債残高=将来のプライマリーバランスの現在割引価値

 と書かれている。これを文字通りに理解すれば、長期的には国債を全て償還することになる。経済学では、(最も単純な場合)個人も遺産を遺すことなく、所得を全て使い切って死ぬことになっているので、両者は一応整合的ではあるが、普通に考えればどちらも非常識だろう(企業も金融資産を貯め込んでいる)。実際、1990年代のクリントン政権下の米国では、財政が黒字化して国債が償還超となると、国債のストックは十分あったにもかかわらず、金融市場では「国債不足」が大きな問題となった。そう考えると、財政赤字を過度に心配する必要はないというラーナーの主張にも一理あると言えよう(注7)。

 なおMMT論者は、自国通貨建てで国債を発行している限り、自国の現金を渡せば国債償還が可能だから、債務不履行はあり得ないことをしきりに強調するが、これは当たり前の話であって誰も反対しない。しかし、債務が償還されたとしても、ハイパーインフレになったり金融危機が起こったりすれば、経済は大混乱に陥るため、ラインハート=ロゴフ(注8)は、これらのケースもデフォルトに含めて考えている。さらに、財政がマクロ経済に与える影響として雇用と物価だけを考えるのは、明らかに視野が狭すぎるだろう。先に述べたように、国債発行額が大きくなれば金利上昇を招くから、民間需要のcrowding-outにつながる。しかも、国債金利(r)と名目成長率(g)の関係がr>gとなった場合、十分なプライマリーバランスの黒字が無ければ、債務が雪ダルマ式に膨らみ、国債残高/名目GDP比率が発散してしまう。今の日本では、日銀が国債の大量買入れを続け、10年債の金利もマイナスのため、低成長の下でもr<gとなっているが、将来2%の物価目標が達成されて日銀が国債買入れを止めればr>gとなる可能性は十分にある(しかも、日本の政府債務残高/名目GDP比率は2倍を超え、プライマリーバランスは赤字だ)。「日本がMMTの成功例」だとするMMT論者は、極めて非常識と言わざるを得ない(注9)。

 MMT論者はあまり強調していないようだが、ラーナーはかつて「国債の負担」を巡る論争をも惹起していたので、その点についても、ここで触れておくのが適当だろう。ラーナーは1948年の論文(注10)で、「国債が内国債である限り、償還時に起こるのは一部の国民が課税され、一部の国民が償還金を受け取る、つまり国民の間の資金の移転に過ぎないから、国全体で考えれば国債の負担は発生しない」と主張した。これに対しては、モディリアニが後年「複数世代を考えた場合、国債発行時点の国民が過大に消費すれば、将来世代が利用できる資産が減ってしまうため、将来世代は国債の負担を負う」と批判して(注11)、現在の経済学ではこちらが主流派の見解となっている。しかし、筆者自身はラーナーにやや同情的である。確かに完全雇用の場合はモディリアニの言う通りだが、例えばリーマン・ショックのような時は、財政出動で経済を支えないと、設備投資や住宅投資も大きく落ち込んで、将来世代に残る実物資産もかえって減ってしまう。このため、必ずしも財政赤字=将来世代の負担とは限らないというのが筆者の見方だ。とは言え、これはあくまで経済を大きなショックが襲った場合の話であり、まして現在の日本のように財政赤字の主因が社会保障支出の増大である場合は、モディリアニの見方の方が妥当すると考えるべきだろう。

 ◆表券主義に基づく現金通貨の理解

 MMTの第3の柱は、表券主義に基づく現金通貨の理解であるが、実はここがMMTの主張のうち最も理解に苦しむ部分である。まず表券主義とは、例えば「日本国の通貨は円である」というように、国家が現金通貨を指定することを意味する。これに対立する概念は、貴金属などが通貨だとする金属主義(metallism)だが、殆どの現金通貨が不換紙幣となった今時、こんな主張をする者は(ごく少数の金本位制復活論者を除き)いない。したがって、「現金通貨は国家が決める」と言うだけでは、「自国通貨建てで国債を発行している限り、債務不履行には陥らない」という主張以上に無意味な命題になってしまう。だから、MMTの主張を意味あるものとして理解しようとすれば「現金通貨は納税手段となることで、価値が与えられる」と考えるほかはないと思う。この点、「税金は銀行預金を使って払っている」と思う人がいるかも知れないので、念のため言っておくと、政府が税として受け取るのは現金通貨だけである。銀行の口座から納税する場合も、中央銀行にあるその銀行の当座預金(日本では日銀当座預金)から政府当座預金に振替が行われることで、納税が完了するからである。日銀当座預金は現金である。

 しかし、現金が納税に使えるからと言って、それで価値が保証されるというのは、単純に誤りである。最近で言えばアルゼンチンでもベネズエラでも、歴史を遡れば第一次大戦後のドイツやハンガリーでも、現金を納税に使うことは可能だったが、ハイパーインフレに陥ってしまった。納税に使えたとしても、政府財政に対する信用がなければ、現金通貨の価値は保証されないのである(注12)。実を言うと、経済理論にはもっと明示的に「国家の徴税権が現金通貨の価値を担保する」という理論があり、それがFTPL(物価水準の財政理論、fiscal theory of price levels)(注13)に他ならない。FTPLにおいては、政府の予算制約式は通常の場合と違って、

 国債残高+現金通貨残高 
 =プライマリーバランスの現在価値+通貨発行益の現在価値

 と書かれる。これは、ネット税収と通貨発行益(seigniorage)によって、最終的には国債だけでなく現金通貨も償還できるということを意味する。この場合、確かに「国家の徴税権が現金通貨の価値を担保する」ことになるが、通貨発行益の部分を無視すると、FTPLは主流派経済学以上の健全財政を要求することになるため、「財政赤字は心配しなくて良い」というMMTとは正反対の結論になってしまうのである。

 なお、MMT論者は財政赤字にとって制約はインフレだけだが、「インフレになったら増税をすれば良い」と簡単に答える。このことと「現金は納税のため」という彼らの認識が関連しているのか否かは定かでないが、現金が納税に使えるからと言って簡単に増税できる訳ではない。日本政府が消費増税にどれだけ苦労しているかを考えれば明らかだと思うが、政府に増税の必要を国民に納得させる力、または国民に増税を強要する力がない限り、増税でインフレを止められる保証はない。だとすれば、「財政赤字は心配しなくても良い」というMMT論者の主張を簡単に信じることはできないというのが、筆者自身を含めたMMT批判論者の一致した意見である。

 以上、本稿でMMTについて述べてきたことをまとめてみると、次のようになろう。まず信用貨幣論に基づく信用創造の理解は、中央銀行の力を強く見る通説よりも実態に即したものである可能性が高く、金融政策を考える上でも有用であり得る。また、主流派経済学が要求する政府の予算制約は、やや過度に健全財政に偏していると思われる。金利への影響や世代間の所得分配といった問題まできちんと考慮に入れるなら、財政が実物経済に与える効果に注目すべきだという機能的財政論は、基本的に正しいだろう。だから、MMTを「意味不明」などと簡単に切り捨てるべきではない。しかし、「財政赤字は心配しなくて良い」というMMTの主張を受け入れることもできない。国債発行が増えれば金利は上がるし、その結果crowding-outも発生する。将来世代が国債の負担を負うことになる可能性も高い。また、インフレになっても政治的に財政赤字を圧縮することが難しいのであれば、ハイパーインフレと言わないまでも高率のインフレを許すことになってしまう、ということである。MMTの意義と限界のうち、やや限界の方が勝る感はあるが、公平に評価するならば、こういう結論になるのではないかと筆者は考える。

 ◆補論:米国主流派経済学者による財政政策重視論について

 MMTを巡る論争の陰に隠れてやや目立たない印象はあるが、米国では最近になってサマーズ、クルーグマン、ブランシャールといった大物の主流派経済学者たちが(MMTは批判しながら)財政政策の重要性を訴えるようになっている。基本的には、数年前からのサマーズらによる「長期停滞論」(注14)を背景としつつ、自然利子率が低下して金融政策が有効性を失っている状況では、マクロ安定化政策として財政政策がより重要になっているとするものだ。米国経済は相対的に好調ではあるが、既に減速過程にある中で、今後景気後退局面を迎えても、従来に比べて金利引き下げ余地が乏しいという困難にどう対応するか、という政策的問題意識もあるのだろう。とくに、元MIT教授でIMFのチーフエコノミストをも務めたブランシャール氏が今年1月の全米経済学会の会長講演(注15)において、低金利環境下では財政政策を積極的に活用すべきだと訴えたことは多くの人々の注目を集めた。

 こうした米国主流派経済学者による財政重視論に対する筆者の率直な印象は、驚きと落胆であった。と言うのも、金融政策がゼロ金利制約に直面している(近づいている)時に、マクロ経済政策として財政政策が重要になるというのは、当たり前過ぎるからである(「流動性の罠」について学んだ後なら、学部1年生でもそう答えるだろう)。にもかかわらず20年前、彼らは日本に対して「ゼロ金利でも、量的緩和やインフレ目標でデフレを克服できる」と主張していたのだ(注16)。その後、彼らが意見を180度変えた背景に大きな理論的イノベーションがあった様子はない。要は、20年前の米国はグリーンスパン元FRB議長が「マエストロ」と呼ばれた時代で、金融政策の効果への過信(景気循環は終わったというgreat moderation論さえ拡がっていた)があった一方、現在はリーマン・ショック後の非伝統的金融緩和の効果が限定的だったという事実に学んだということだろう。現に、ブランシャール講演も大部分が「今後暫くは金利水準(r)が名目成長率(g)を下回る」という氏の予想、つまり環境変化の説明に当てられている。日本人エコノミストとしては、「彼らはいつも自国の環境だけを考えていて、日本の実情など眼中にない割に、政策提言だけは安易に打ち出してくる」という印象を持たざるを得ないだろう。もちろん、日本が直面する課題を適切に理論化し、海外に発信することのできない日本の経済学者や、米国の著名経済学者が政策提言を出すと、あり難そうに報道合戦を繰り広げる日本のメディアの方がもっと情けないのだが・・・。

 この点は、20年前にリチャード・クー氏が展開していた議論を視野に収めることで、より明確にすることができる(注17)。当時、クー氏は「バブル崩壊後のバランスシート不況では資金需要が無くなってしまうので、金融緩和をしても効果はない。財政出動が必要だ」と主張していた。この「資金需要が無い」という部分を「自然利子率が低い」と置き換えれば、現在の米国主流派の議論と同じであり、かつ「自然利子率が低い」のは「低金利でも投資不足」という意味だから、「低金利でも資金需要が無い」のと全く同じことである。しかも、クー氏はMMT論者のように「財政赤字の制約はインフレだけ」と主張していたのではない。「金利が上がって来れば金融政策が復活するので、財政は引っ込んで良い」と述べていた訳で、金利を軸に財政政策の有効性を判断する点でも、米国主流派と同じである。つまり、現在の米国主流派は20年前のリチャード・クー氏の立場から一歩も前進していないということだ。

 それどころか、彼らが20年前にバブル崩壊後の不況の深刻さというクー氏の警告をしっかり受け止めてさえいれば、住宅バブル崩壊→金融危機という展開も防げていた可能性がある。当時の米国経済学界は「バブルが崩壊しても、その後に強力な金融緩和を行えば深刻な悪影響は防げる」というFed viewを受け容れていたが、それがバブル崩壊のコストを過少評価するものだったことは今では明らかだ。もし彼らが日本の状況にしっかり眼を見開いていれば、住宅バブルや金融証券化の過熱に対してもっと強く警告を促すことができたのではないかと思う(注18)。

 しかし、クー氏の財政出動論は、1997~98年の金融危機直後の深刻な不況期を除くと、日本の経済学者・エコノミストの多くから支持を得られなかったことも述べておかなくてはならない(実際、その後の小泉政権では公共事業の大幅な削減が行われた)。それは、1990年代に何度も行われた景気対策に伴う公共事業(その背後には、米国政府による公共投資拡大圧力もあった)には、いつも空席ばかりの市民ホールや飛行機が着陸できる農道など、あまりに無駄が多かったからだ。確かに、そうした財政政策では短期的な景気浮揚効果はあっても潜在成長率はむしろ低下し、今風に言えば自然利子率が低下する。つまり日本経済の長期低迷という元々の問題解決につながらないと考えられたからである。

 現在の米国経済学界は、この日本の経験からも学ぶ必要があるのではないか。財政政策が長期停滞を克服できるか否かは、結局、潜在成長率を高めるようなwise spendingができるかどうかに掛かっているということだ。この点、米国では劣化の著しい公共インフラの修復はwise spendingであり得るし、(MMT派の学生ローン帳消しはともかく)低所得層の高等教育進学を支援することもwise spendingになり得るだろう。しかし、政治プロセスを経た後でも本当にwise spendingを実行できるかは極めて疑わしい。米国の経済学者には、他国の政策に口出しをする前に、財政支出を効率化するメカニズムの研究に注力してもらいたいものである(注19)。

 ◆注釈

  • (注1)
    Paul Krugman,“What’s Wrong With Functional Finance?(Wonkish)”, New York Times, March 22, 2019。このクルーグマンのコラムは、後述するラーナー流の機能的財政論をMMTの本質と考えるものである。
  • (注2)
    Amazonの出版予告によると、注目度の高いステファニー・ケルトン女史の本(The Deficit Myth : Modern Monetary Theory and the Birth of People’s Economy)は来年出版とのことである。
  • (注3)
    実際、こうした考え方は日銀で考査局長などを務めた横山昭雄氏の著書『真説:経済・金融の仕組み』、日本評論社、2015年で説明されている。もちろん、筆者が読んだのは同氏の旧著『現代の金融構造』、日本経済新聞社、1977年である。 
    因みに筆者は、日銀支店勤務の時期に、まだ紙ベースだった地方銀行の預金帳簿に、「貸出代わり金」の名目で日銀貸出に等しい金額を書き込んだ経験がある。この瞬間、当該銀行の日銀当座預金は同額増加したのだ。
  • (注4)
    野口悠紀雄氏は、近著『マネーの魔術史』、新潮選書、2019年の中で信用貨幣論に基づく信用創造の理解に触れて、「これまで広く信じられてきた説明が間違いだったとは、驚きだ。この誤りは、金融政策等に関する様々な誤解の原因にもなっている」と述べ、通説的信用創造論を批判している。
  • (注5)
    鈴木淑夫『金融政策の効果:銀行行動の理論と計測』、東洋経済新報社、1966年。かつて「窓口指導」などを担当していた旧営業局の実務家も、こうした「日銀理論」を理解していて、「市場金利が上がらないと、窓口指導も効かない」と考えていたという。なお、岩田・翁論争に代表されるような経済学界と日銀のすれ違いも、主に信用創造(と日銀券需要の短期的な外生性)に関する理解の違いに起因するものだったと思う。
  • (注6)
    Abba Lerner,“Functional Finance and the Federal Debt”, Social Research, 1943
  • (注7)
    この点、伊藤隆敏『日本財政「最後の選択」』、日本経済新聞出版社、2015年は、日本財政の持続可能性について、政府の予算制約式ではなく、「日本国債が日本国内の貯蓄で賄われる」ことを条件として課している。伊藤教授は教科書の説明ではなく、現実の政策論として政府の予算制約式を使うのは不適切と考えたのだろう。同書が必要な消費税率として15%程度と、経済学者・エコノミストの「相場観」とされる20~25%(トニー・ブラウン教授や北尾早霧教授らによる厳密な動学的一般均衡分析によれば、さらに高い税率が必要とされている)より低い数字を挙げているのは、財政の持続可能性に関してより現実的な見方を採っているためである。
  • (注8)
    カルメン・ラインハート、ケネス・ロゴフ『国家は破綻する』、日経BP社、2011年。
  • (注9)
    MMT論者はともかく、明敏な経済学者であったラーナーがこうした金利の問題を真剣に受け止めなかったのは、はっきり言って不思議である。この論文が書かれた1943年という時期を考えると、大恐慌で物価も金利も上がる環境になかった1930年代と、物価も金利も統制された第二次世界大戦中という時代背景の下、金利に関する感覚が麻痺していたのだろうか。これは、現在の日本人の多くが「物価上昇率が2%に達することは当分なく、暫くの間金利が目立って上昇することもあり得ない」と思い込んでいるのと同じことかも知れない。
  • (注10)
    Abba Lerner,“The Burden of National Debt”, in L. A. Metzler et al.(eds), Income, Employment and Public Policy, Essays in Honor of Alvin Hansen, Norton, 1948
  • (注11)
    Franco Modigliani,“Long-run Implication of Alternative Fiscal Policies and the Burden of the National Debt”, Economic Journal, 1961
  • (注12)
    貨幣の一般均衡理論においては、「貨幣は○○の役に立つから価値がある」という説明は貨幣が価値を持つ均衡の存在を証明する上で役に立たないことが知られている。例えば、貨幣的交換は物々交換より効率的でPareto improvingであっても(そのことを説明するモデルは多数ある)、有限期間のモデルであれば、翌期に持ち越せない最終期の貨幣の価値はゼロになるから、その1期前の価値もゼロ・・・となって、貨幣の価値は常にゼロになってしまう。一方、無限期間のモデルを考えると、何の役にも立たなくても「皆が価値があると信じるから価値がある」といった岩井克人教授の『貨幣論』、ちくま学芸文庫、1998年のような貨幣(純粋バブル)も存在し得ることになる。
  • (注13)
    FTPLは、もともと30年近い(Sargent-Wallaceのunpleasant monetarist arithmeticまで遡れば40年近い)歴史を持つ古くからの理論だが、日本で注目を集めたのは、シムズ教授が2016年夏のジャクソンホール・コンファレンスで発表した“Fiscal Policy, Monetary Policy and Central Bank Independence”という論文に対し、アベノミクスの理論的指導者とされる浜田宏一内閣官房参与が「目からウロコが落ちた」として賞賛したためだろう(このため、日本ではFTPLを「シムズ理論」などと呼ぶことが多い)。「財政金融政策の協調でデフレ脱却の策を授けた」などと言われることもあるが、FTPLはもともと主流派以上の健全財政を前提にした理論なのだから、日本での理解のされ方は相当に捩れたものだったということになる。
  • (注14)
    サマーズの長期停滞論に関しては、初期のLawrence Summers,“U.S. Economic Prospects : Secular Stagnation, Hysteresis, and the Zero Lower Bound”, Business Economics 2014を挙げておく。その後の展開については、翁邦雄『金利と経済』、ダイヤモンド社、2017年、福田慎一『21世紀の長期停滞論』、平凡社新書、2018年を参照。なお、サマーズのMMT批判には、“The left’s embrace of modern monetary theory is a recipe for a disaster”, The Washington Post, March 4, 2019がある。
  • (注15)
    Olivier Blanchard,“Public Debt and Low Interest Rates”, American Economic Review, 2019
  • (注16)
    最も影響力が大きかったのは、Paul Krugman,“It’s Baaack : Japan’s Slump and the Return of Liquidity Trap”, Brookings Paper on Economic Activity, 1998である。ただし、クルーグマンは2015年10月のNYタイムズのコラム“Rethinking Japan”で自らの誤りをはっきり認めており、米国主流派経済学者の中では最も潔いと筆者は感じている。後述のクー氏の名前も、クルーグマンの論文の中では頻繁に引用されている。
  • (注17)
    当時のクー氏の議論については、『デフレとバランスシート不況の経済学』、徳間書店、2003年。 また、クー氏の新著『「追われる国」の経済学』、東洋経済新報社、2019年をも参照。
  • (注18)
    2005年、グリーンスパン議長退任前最後のジャクソンホール・コンファレンスがグリーンスパン礼賛に包まれる中、シカゴ大学のラジャン教授(その後IMFチーフエコノミスト、インド連銀総裁などを務めた)は“Has Financial Development Made the World Riskier?”という論文を公表して、金融危機のリスクに警鐘を鳴らした。その結果、日本式に言えば「空気を読めないヒト」として扱われたのは有名な逸話である。
  • (注19)
    にもかかわらず、ブランシャールは日本に消費増税延期を提言してきた。オリヴィエ・ブランシャール、田代毅「日本の財政政策の選択肢」、Peterson Institute for International Economics、2019年5月。しかし今回は、MMT騒動と衆参同日選の有無にメディアの関心が集中していたため、大きな注目を集めることなく、消費増税の実施が決定されることとなった。

 元稿:富士通総研 主要ニュース ナレッジ 【オピニオン】  2019年07月01日  05:30:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【OECD】:日本に財政再建促す 消費税率「20~26%必要」

2019-08-22 00:07:10 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

経済協力開発機構(OECD)】:日本に財政再建促す 消費税率「20~26%必要」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【経済協力開発機構(OECD)】:日本に財政再建促す 消費税率「20~26%必要」 

 経済協力開発機構(OECD)は十五日、二〇一九年の対日経済審査報告書を発表し、財政再建を提言した。赤字の続く「基礎的財政収支」を消費税だけで十分な水準に黒字化すると仮定した場合、税率20~26%への引き上げが将来的に必要になると試算。日本政府より厳しい予測を示し、他の税目を含む増税や歳出削減の具体的な計画を立てて実行するよう促した。

 OECDのグリア事務総長は東京都内で記者会見し「十月に予定されている8%から10%への消費税増税は不可欠だ」と述べ、さらに段階的に引き上げるよう提案した。

 報告書は、六〇年までに政府債務を国内総生産(GDP)の一・五倍に抑えるのに必要な収支の黒字額を試算し、消費税率に置き換えた。歳出削減などが遅れるほど、必要な税率は高くなる。政府は今年十月に8%から10%へ増税した上で一定の歳出改革を進め、二五年度に収支を黒字化する計画だが、より抜本的な対応を求められた形だ。

 労働力人口の減少問題では、企業の六十歳定年制の撤廃を提案。女性の非正規労働者の多さも「不平等と貧困の原因だ」と問題視。外国人労働者に対する新たな在留資格の創設は評価した。

 元稿:東京新聞社 夕刊 主要ニュース 経済 【金融・財政】  2019年04月15日  15:15:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【国会】:19年度予算が成立 予算段階100兆円超え史上初

2019-08-22 00:06:00 | 【金融・金融庁・日銀・株式・為替・投資・投機・FRB・「ドル円」・マーケット】

【国会】:19年度予算が成立 予算段階100兆円超え史上初

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【国会】:19年度予算が成立 予算段階100兆円超え史上初 

 一般会計総額が101兆4571億円と過去最大の19年度予算は、27日の参院本会議で与党などの賛成多数により可決、成立した。

 当初予算段階での100兆円超えは史上初。

19年度予算が成立 予算段階100兆円超え史上初

  2019年度予算案が賛成多数で可決、成立した参院本会議(共同)

 一方で、厚生労働省の統計不正問題を受け、予算案の閣議決定をやり直す異例の展開にもなった。消費税率10%への増税を10月に控え、キャッシュレス決済時のポイント還元、プレミアム付き商品券発行など2兆280億円の景気対策費が盛り込まれたほか、高齢化で膨らむ社会保障費は34兆593億円で過去最大となり、総額の3分の1を占める。防衛費も5兆2574億円で、過去最高となった。

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・国会・19年度予算】  2019年03月27日  20:52:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【2019年08月22日 今日は?】:台湾で遠東航空機墜落、乗客乗員全員死亡

2019-08-22 00:00:30 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【2019年08月22日 今日は?】:台湾で遠東航空機墜落、乗客乗員全員死亡

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【2019年08月22日 今日は?】:台湾で遠東航空機墜落、乗客乗員全員死亡

 ◆8月22日=今日はどんな日

  赤十字条約がスイスのジュネーブで調印され、国際赤十字が発足(1864)

 ◆出来事

  ▼台湾で遠東航空機墜落、作家向田邦子さんら乗客乗員全員死亡(1981)▼全国高校野球選手権準決勝で広陵の中村奨成が1大会6本目の本塁打を記録(2017)

 ◆誕生日

▼みのもんた(44年=アナウンサー)▼タモリ(45年=タレント)▼菅野美穂(77年=女優)▼斎藤工(81年=俳優)▼相沢仁美(82年=タレント)▼大和田美帆(83年=女優)▼北川景子(86年=女優)▼平田詩奈(99年=SKE48)

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・今日は?】  2019年08月22日  00:04:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【2019年08月21日 今日は?】:大阪桐蔭が史上初2度目の春夏連覇

2019-08-22 00:00:20 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【2019年08月21日 今日は?】:大阪桐蔭が史上初2度目の春夏連覇

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【2019年08月21日 今日は?】:大阪桐蔭が史上初2度目の春夏連覇

 ◆8月21日=今日はどんな日

  第100回全国高校野球選手権大会決勝で大阪桐蔭が金足農を下し、史上初めて2度目の春夏連覇(2018)

 ◆出来事

  ▼プロ野球国鉄の金田正一投手が左投手初の完全試合(1957)▼ロンドン五輪・パラリンピック閉会式(2016)

 ◆誕生日

  ▼稲川淳二(47年=タレント)▼関根勤(53年=タレント)▼鈴木祥子(65年=シンガー・ソングライター)▼西村和彦(66年=俳優)▼萩原聖人(71年=俳優)▼VERBAL(75年=m-flo)▼古川夏凪(03年=AKB48)

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・今日は?】  2019年08月21日  00:02:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【2019年08月20日 今日は?】:エストニアがソ連からの完全独立を宣言

2019-08-22 00:00:10 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【2019年08月20日 今日は?】:エストニアがソ連からの完全独立を宣言

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【2019年08月20日 今日は?】:エストニアがソ連からの完全独立を宣言

 ◆8月20日=今日はどんな日 

  記録的豪雨による広島市の土砂災害で77人死亡(2014)

 ◆出来事

  ▼小学校令が改正され公布。義務教育期間の尋常小学校は4年制に一本化、授業料を無償に(1900)▼エストニアの最高会議がソ連からの完全独立を宣言(1991)

 ◆誕生日

  ▼桐島かれん(64年=タレント)▼梅宮アンナ(72年=タレント)▼勝地涼(86年=俳優)▼森崎ウィン(90年=俳優)▼白石麻衣(92年=乃木坂46)▼秋元真夏(93年=乃木坂46)▼對馬優菜子(01年=NGT48)▼濵咲友菜(01年=AKB48)  

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・今日は?】  2019年08月20日  00:01:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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