迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

われ、東夷南蛮北狄西戎に迎せず。

2018-01-02 17:55:46 | 浮世見聞記
ことし平成三十年(2018年)は、明治元年(1867年)から150年に当たると云ふ。


ニッポンが近代化を謳って西欧諸国に追随したときから、日本人は日本人らしさを喪った。

なんでも異人の素振りを真似し、異国語を口にすればカッコいいなどと勘違ひした異人かぶれや、異国かぶれを量産した150年。

横文字をあざとく連発して洋楽のウンチクを垂れるFMラジオ放送を耳にすると、私などはイライラしてしまふ。


そして、あらゆる分野で異国や異人にいいやうにされた150年。



日舞師匠が創作舞踊をやると、必ずダンス紛ひの代物になり、

“和楽器の新時代”を謳えば、結局はただ和楽器で異国の曲を掻き鳴らしてゐるだけの代物となる。

なぜこの人たちは、自分の国の伝統文化に培われた技芸を活かして、“新しい日本の音”や、“新しい日本のおどり”を紡ぎ出せないのだらうと、その洋楽かぶれぶりを忌々しく思ふ。

それならば、日本舞踊家の免状を返して洋舞家に転向し、和楽器から洋楽器に持ち替へたはうが、よっぽど潔ひといふものだ。


近年における“和洋合作”は、和が洋にすり寄ってゐるだけで、洋は和に歩み寄ることなく相変わらず自分たちが普段やってゐることをそのままやってゐる、といふ例を多く見受ける。


鎖国の時代より昔に返れ、とまでは言はない。


盲信的な追従は、ただ相手につけ込まれ、取り込まれる隙を与へることになる。






だからこそ、

自分はあくまでも純然たる日本の伝統文化に則った作品を創造し、

それを自ら演じることによって日本人らしさを示さう、

と心に強く思ふこと、まことにめでたきことである。
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