迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

現れ出でたる“明治の遺産”

2010-05-20 18:32:56 | 浮世見聞記
先日の「並木橋」駅の話しのなかでちょこっと触れた、「萬世橋(まんせいばし)」駅の跡を訪ねてみました。

今は無いこの駅の名を私が初めて知ったのは、内田百けん先生の随筆によってです。

現在の住所は東京都千代田区神田須田町1-25、秋葉原や御茶ノ水、神田に隣接するまさに東京のど真ん中に、明治45年(1912年)4月1日、萬世橋駅は開業しました。

当時の駅舎は赤レンガ造りの洋館風で、設計者は辰野金吾博士、2年後の大正3年(1914年)12月20日に開業する東京駅の駅舎(丸の内口)の設計者として有名な建築家で、萬世橋駅はその習作だったとも云われています。

萬世橋駅は、東京駅が開業するまでのわずか2年という短い時間ではありましたが、東京の中央駅としての役割を果たしていました。

また、構内には「みかど食堂」があったことが、そこをよく利用した内田百けん先生の随筆のなかから窺えます。

駅舎は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で焼失、2年後の大正15年に焼け残った材料を利用して再建された後、昭和11年(1936年)に基礎部分を残して取り壊され、そこに交通博物館が併設という形で建てられたことにより、駅舎そのものは姿を消しました。

以後は交通博物館と高架線との隙間に小さな出入口を設けていましたが、第二次大戦最中の昭和18年(1943年)11月1日、萬世橋駅は休止という名目で、事実上廃止されました。

しかし現在でも、当時二本あったプラットホームのうちの一本がそのまま残っていて、JR中央線の御茶ノ水~神田間で注意して窓の外を見ていると↓のようにわずか数秒間、見ることが出来ます。



2005年、交通博物館が「鉄道博物館」として埼玉県大宮へ移転するにあたり、その閉館記念企画として普段は入れない旧萬世橋駅構内を一般公開したことがあり、私も関心をもって見学に出かけたものです。

交通博物館の建物は閉館後、しばらくそのままになっていましたが、今回訪れてみると、新しくビルを建設するために解体工事の真っ最中、ところが、解体されたことによって、今まで覆い隠されていた旧萬世橋駅の遺構が、トップの写真に見るように、約70年ぶりに姿を現しているではありませんか!

工事用の塀が邪魔でよく見えないのが悔しいですが、写真右側に二カ所、角形に黒く開いている部分がかつての改札口で、二つの石枠アーチをはさんで左側の角型の穴には、高架上のホームへと通じている階段を確認することが出来ました。

交通博物館が併設されていたお陰で、ここまで保存されていた、と言えるでしょう。

この遺構がこれからどうなるのか、私にはわかりません。

日本の鉄道黎明期を現代に伝える貴重な遺産として、何らかの形で保存してほしいものですが…。


ちなみに、駅名の由来はもちろん、駅のあった場所のすぐ裏手にかかる橋の名前にあるわけですが↓、



もともと“よろずよばし”と名付けられていたものを-名付け親は旧幕臣でのちに東京府知事になった大久保一翁だそうです-、みんなが“まんせいばし”と音で呼んでいるうちに、そちらが正式名称になったのだとか。
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