宝生流の「三笑」を、水道橋の能楽堂で観る。
嘆くか怒るかのどちらかが多い能のなかで、珍しく“笑ふ”場面がある、珍しい曲だ。
もっとも、狂言のやうにのけ反って笑ふのではなく、三人の直面(ひためん)の演者が表情をつくることなく、両手の先を一度ちょんと合わせてそれでおしまいといふ、至極あっさりした型のため、ぼんやりしていたら見逃してしまふ。
この曲に登場する三人は、いづれも俗世とは縁を切った自由人であり、さうでもなければ時を忘れて歓談も出来まい。
『さう言へば昔、自分にもそんなことがあったなァ……』
ああ、思い出は過ぎた時間を、かくして浄化しやうとする。
忌むべし、忌むべし。
帰りに千駄ヶ谷の鳩森神社に寄り、今年も「神賑能」を覗く。
奉納されたのは「井筒」。
この曲こそ、思ひ出浄化作用の極致と云へるだらう。
浄化されない思ひ出は、記憶の奥底に都合よく仕舞ゐこまれる。
忘れる、といふやつだ。
消へたわけではなゐから、ひょんなことから記憶の表面に現れることがある。
思ひ出してしまふ、といふやつだ。
浄化される性質の思ひ出には、
かならずどこかに、
本人には気がつかなゐ、
嘘がある。
嘆くか怒るかのどちらかが多い能のなかで、珍しく“笑ふ”場面がある、珍しい曲だ。
もっとも、狂言のやうにのけ反って笑ふのではなく、三人の直面(ひためん)の演者が表情をつくることなく、両手の先を一度ちょんと合わせてそれでおしまいといふ、至極あっさりした型のため、ぼんやりしていたら見逃してしまふ。
この曲に登場する三人は、いづれも俗世とは縁を切った自由人であり、さうでもなければ時を忘れて歓談も出来まい。
『さう言へば昔、自分にもそんなことがあったなァ……』
ああ、思い出は過ぎた時間を、かくして浄化しやうとする。
忌むべし、忌むべし。
帰りに千駄ヶ谷の鳩森神社に寄り、今年も「神賑能」を覗く。
奉納されたのは「井筒」。
この曲こそ、思ひ出浄化作用の極致と云へるだらう。
浄化されない思ひ出は、記憶の奥底に都合よく仕舞ゐこまれる。
忘れる、といふやつだ。
消へたわけではなゐから、ひょんなことから記憶の表面に現れることがある。
思ひ出してしまふ、といふやつだ。
浄化される性質の思ひ出には、
かならずどこかに、
本人には気がつかなゐ、
嘘がある。