迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

いちどにどっとてをうちわらふ。

2015-09-13 21:55:55 | 浮世見聞記
宝生流の「三笑」を、水道橋の能楽堂で観る。

嘆くか怒るかのどちらかが多い能のなかで、珍しく“笑ふ”場面がある、珍しい曲だ。

もっとも、狂言のやうにのけ反って笑ふのではなく、三人の直面(ひためん)の演者が表情をつくることなく、両手の先を一度ちょんと合わせてそれでおしまいといふ、至極あっさりした型のため、ぼんやりしていたら見逃してしまふ。

この曲に登場する三人は、いづれも俗世とは縁を切った自由人であり、さうでもなければ時を忘れて歓談も出来まい。


『さう言へば昔、自分にもそんなことがあったなァ……』

ああ、思い出は過ぎた時間を、かくして浄化しやうとする。

忌むべし、忌むべし。



帰りに千駄ヶ谷の鳩森神社に寄り、今年も「神賑能」を覗く。

奉納されたのは「井筒」。



この曲こそ、思ひ出浄化作用の極致と云へるだらう。


浄化されない思ひ出は、記憶の奥底に都合よく仕舞ゐこまれる。

忘れる、といふやつだ。

消へたわけではなゐから、ひょんなことから記憶の表面に現れることがある。

思ひ出してしまふ、といふやつだ。



浄化される性質の思ひ出には、

かならずどこかに、

本人には気がつかなゐ、

嘘がある。
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