国道1号線に合流した先で歩道橋を渡り、JR関西本線の踏切を越え、鈴鹿川沿いに伸びる太岡川寺畷(上段写真)を二十分ほど行くと、関西本線の線路に道が分断されているため、そばの陸橋を渡り、その先に続く坂道を丘へとのぼって行きます。
そして布気、野尻と住宅の続く地区を過ぎると、左手には「野村一里塚」が。
一里塚に植えられるのは基本的に榎ですが、ここでは椋が植えられ、樹齢も三百年を越えているそうです。
一里塚の先の交差点から野村地区に入ると、車道は黄色、両側の歩道は赤に塗られた視覚的にわかりやすい道となり、やがて亀山城下への入口だった京口門跡に出ます。
現在は大正三年に掛けられた京口橋によって直線で渡れますが、かつては細い急坂を上って城門に至っていた様子が、古写真から窺えます。
↑写真右の法面(のりめん)脇には、かつての道筋の名残と思える細い道があります。
京口門跡を過ぎて亀山宿に入ると、いかにも城下町らしく道は枡形に続き、厳めしい雰囲気を残しています。
その堅さが敬遠されてか、古い記録によると泊まる旅人も少ない静かな宿場だったようです。
本陣のあった一帯は商店街となっていますが、
人気のない寂しさは昔に戻ったようで、むしろ丘の下の平地にあるJR関西本線「亀山駅」周辺のほうが、町らしい雰囲気があります。
本陣跡を過ぎた先で大きく左に折れる道が、亀山城の江戸口門跡。
ここを通って城下を外れると、それまでとは打って変わったくだけた雰囲気が、
かつて旅籠が軒をつらねていたなかに感じられます。
ローソクの製造で有名なカメヤマの本社工場前を過ぎ、やがて丘を下る坂に差しかかった左手には、復元された「和田一里塚」があり、
坂の下で左折して国道1号線の脇をかすめた先には、かつてここから白子や若杉港への道が分かれていたことを示す道標があり、
元禄三年(1690年)建立という、大変に古いもの。
道標は四百年間この地で旅人の往来を見守り続けてきたわけで、いま自分はその旅人の一人となったことを思いながら、次の庄野宿を目指します。
そして布気、野尻と住宅の続く地区を過ぎると、左手には「野村一里塚」が。
一里塚に植えられるのは基本的に榎ですが、ここでは椋が植えられ、樹齢も三百年を越えているそうです。
一里塚の先の交差点から野村地区に入ると、車道は黄色、両側の歩道は赤に塗られた視覚的にわかりやすい道となり、やがて亀山城下への入口だった京口門跡に出ます。
現在は大正三年に掛けられた京口橋によって直線で渡れますが、かつては細い急坂を上って城門に至っていた様子が、古写真から窺えます。
↑写真右の法面(のりめん)脇には、かつての道筋の名残と思える細い道があります。
京口門跡を過ぎて亀山宿に入ると、いかにも城下町らしく道は枡形に続き、厳めしい雰囲気を残しています。
その堅さが敬遠されてか、古い記録によると泊まる旅人も少ない静かな宿場だったようです。
本陣のあった一帯は商店街となっていますが、
人気のない寂しさは昔に戻ったようで、むしろ丘の下の平地にあるJR関西本線「亀山駅」周辺のほうが、町らしい雰囲気があります。
本陣跡を過ぎた先で大きく左に折れる道が、亀山城の江戸口門跡。
ここを通って城下を外れると、それまでとは打って変わったくだけた雰囲気が、
かつて旅籠が軒をつらねていたなかに感じられます。
ローソクの製造で有名なカメヤマの本社工場前を過ぎ、やがて丘を下る坂に差しかかった左手には、復元された「和田一里塚」があり、
坂の下で左折して国道1号線の脇をかすめた先には、かつてここから白子や若杉港への道が分かれていたことを示す道標があり、
元禄三年(1690年)建立という、大変に古いもの。
道標は四百年間この地で旅人の往来を見守り続けてきたわけで、いま自分はその旅人の一人となったことを思いながら、次の庄野宿を目指します。