一年前のちゃうど今頃、國中の店から使ひ捨てマスクが消えて、大騒ぎになってゐた。
とにかくどこへ行っても手に入らず、有象無象の大好きな行列に自分も加はるなどもとより論外、
つひ先日まで、スーパーで普通に買へたマスクが、突然ごっそり無くなったのだから、それはそれは面喰らった。
とにかくどこへ行っても手に入らず、有象無象の大好きな行列に自分も加はるなどもとより論外、
箪笥の抽出にあったガーゼハンカチでマスクを急拵へし、それで春までなんとか凌ひだのだった。
その時の急拵へマスクは、いまもカバンに緊急用として入れてある。
あまりに手作り感に溢れてゐて、いまでこそ普通に外で着用するには気恥ずかしいが、そろそろ一年が経つあの時には、これのおかげで、安心して電車に乗れたのである。
そしてこの溢れんばかりの手作り感こそが、支那を発祥とする未曾有の人災疫病襲来への私の緊張感を、いまもありありと思ひ出させてくれるのだ。
それを決して忘れることなかれ!
いまかうして改めて見ると、相変はらず“顎マスク”だの“鼻出しマスク”だの、自分勝手な屁理屈を振り回して公衆でのマスク着用を拒否してみせる偏執狂だの、一年が経ってもニンゲンは疫病の進化に對し大きく遅れをとってゐると、深く認めざるを得なくなるのである。