迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

しゃしゃりでてどてにてをつくかわずかな。

2015-07-29 21:58:22 | 浮世見聞記
おどりの「藤娘」が目的で、都内の文化ホールで行われた歌舞伎の巡業公演を観に行く。


やはりああいった娘物のおどりは、ただ白粉を塗っただけで綺麗に見える若い女形で観たほうが楽しい―なにしろ後ろ向きにのけ反っただけで、お客は喜んで手を叩くのだ……。

この曲は日本舞踊の代表曲であり、また人気曲であり、わたしも大好きな曲なので、実に様々な人たちのものを観ているが、意外と「よかった……」と思える舞台に出会えたためしがない。

それはつまり、いろんな人がやるが、いろんな人が“こなせる”曲ではない、といふことなのだらう。





芝居は、「天衣紛上野初花 河内山」が出ていた。


このタイトルロールの人物の有名な台詞に、

「とんだところへ北村大膳」

といふのがある。

歌舞伎の台詞が日常生活に溶け込んでいた時代には、とんだところでとんだ人物に出会したときに、よく用ゐられていたらしい。

その流れなのだらう、数年前に再放送で見た、徳川吉宗治世下の江戸を舞台にしたTV時代劇で、騙りであることを主演の武士に見破られた不良少女が、往来にどっかとあぐらをかいて、上のセリフを吐きながら居直る場面があった。

しかし、「河内山」は明治初期に書かれた芝居で、この時代の人物が知っているはずがない。

ようするに脚本家の筆が滑ったわけで、こうしたちょっとしたことでも、時代考証が必要だといふことを学んだ一幕であった。





今日の新品が明日には古骨董となっているなど当たり前なほどに、いまの世の中は動きが目まぐるしい。

そのやうななか、三味線の音色と白粉に彩られた舞台のなかの世界だけは、なにも変わっていない。



それがわたしには、

遠い遠い、

異国の景色に映る。



殿様にいじめられる腰元より、客席やロビーをくまなくまわってイヤホンガイドのPRをする法被姿の女のコのはうが、わたしにはいじらしく見えた。
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