金春安明師の「采女(うねめ)」を觀に、國立能樂堂の金春會定期能公演へ出かける。
奈良の春日大社に詣でた旅僧は、社を褒め稱へながら植樹する女性と出會ひ、女性に誘はれるまま猿澤池にやって来ると、女性は古へにミカドの愛を失なったことを悲しんで、自らこの池に身を沈めた采女と明かして姿を消す──
采女とは、大和朝廷においてミカドの食膳や衣類の裁縫など、身の回りの世話を担當した女官を云ひ、大和朝廷に拮抗する勢力を持った地方豪族が、娘を人質として差し出した歴史を持つ云々。
しかしこの曲が描くのは、さうした背景の悲哀ではなく、あくまで男(ミカド)の寵愛を失なひ絶望したひとりの“女”にあり、後場で采女の靈が宮中での曲水の宴を想ひ返すあたりに、彼女の職分がほのかに覗くのみである。
後シテの采女の靈が舞ふ序の舞に象徴される如く、南都古跡の静かな池の水面に現れた古への女の、遠い戀の記憶へ静かに耳を澄ます──
金春安明師が掛けた小面(こおもて)の、宮中の若い女性らしい氣品をたたえた表情に見惚れながら、先日に訪ねた現地の風情も偲ぶ。
采女が猿澤の池へ身を投げる際、まとってゐた衣(きぬ)をほとりの柳に掛けたことが間狂言によって語られ、件の柳は二十世紀までそこに殘ってゐたが、
新世紀に入ってから枯れたらしく、令和現在では傍に建ってゐた石碑を遺すのみとなってゐる。
形あるものは、いつかは滅びる──
人は戀と運命をともにするのか、
戀が人と運命をともにするのか──
結局答へなど出さうもないことをあれこれ考へたくなる魔力も、能樂の魅力なのである。