國立演藝場の演藝資料展示室にて、企画展『曽我廼家五郎──「喜劇」の誕生』を觀る。
“曽我廼家”と聞くと上方系喜劇の役者を連想するが、曽我廼家五郎は十郎と共にその始祖であり、また「喜劇」と云ふ語の元祖云々。
明治三十五年(1902年)、上方歌舞伎の大部屋役者だった中村珊之助は、旅公演先で中村時蔵──のちの三代目中村歌六──の同じ大部屋弟子だった中村時代と出會って意氣投合、二年後の明治三十七年(1904年)に曽我廼家五郎・曽我廼家十郎と名乗り一座を立ち上げ、道頓堀の浪花座で「改良大喜劇」と謳った興行が、のちに日本國でオモロい芝居を「喜劇」と呼ぶ始まりとなる──
當初は歌舞伎や新聞ネタを茶化したものが評判を呼び、やがてそこから發展した舞臺が、近代ニッポンの喜劇として定着したため、結婚や再會でめでたしめでたしとなる西洋の笑劇(ファルス)が浸透しなかったと云ふところに、ニッポン人の嗜好が窺へてオモロい。
かくして近代ニッポン喜劇の魁として名を成した両者だったが、あくまで即興やナンセンスを旨とする大坂俄の系譜を踏襲したい十郎と、歌舞伎に劣らぬ緊密性の高い、演劇としての喜劇をめざす五郎とで考へに隔たり生じるやうになり、つひに大正三年(1914年)二月、両者は袂を分かつ。
それは、強い自己主張の塊である舞臺役者の宿命でもある。
やがて大正十二年(1923年)九月の関東大震災をきっかけに社會主義者が彈圧され、大正時代を彩った“大正デモクラシー”が潰滅すると、浮世では日本古来の価値觀を見直す風潮が生まれ、昭和十年代に曽我廼家五郎はそれを先取りするかのやうに、自身の喜劇を出身である歌舞伎を基調とした演出に定型化させる。
展示室内で放映されてゐる記録映画を觀ると、當時の現代を舞臺にしながら音樂には下座を用ゐて女形が登場し、花道も使ふなど、たしかに現代喜劇と云ふより世話狂言に近い趣きがある。
しかし、新しいことをやらうとして結局失敗し、その過程のまま凝固した“新派”と云ふ中途半端なしろものに比べれば──歌舞伎から転出した新派役者がこの頃は歌舞伎に出戻ってゐる節操のなさを見よ!──、自分の理想を一代で形にして見せた曽我廼家五郎は、たしかにえらいと思ふ。
そして、政治家然としたこんな肖像画をのこしたことに、
(※案内チラシより)
いかにも底辺から這ひ上がった人ならではの背伸びぶりが窺へて、喜劇以上の可笑し味と哀れさを、私は覺ゆ。