迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

感じぬ白黒と今も変わらぬ白黒。

2018-05-07 14:32:07 | 浮世見聞記
國學院大學博物館の、「久我家の明治維新」展を見る。

久我家は村上天皇を祖とする皇胤貴族「村上源氏」の直系であり、源氏の本流であると同時に、摂関家に次ぐ家柄“清華家”の筆頭でもあった。

平安末期から鎌倉初期にかけて時流を巧みに泳ひだ源通親(みなもとのみちちか)が久我家の基礎を築き、第二次大戦後には久我美子といふ映画女優を輩出した。

それはさておき、この企画展では戊辰戦争の頃に久我家がやり取りした文書の一部が、展示されてゐる。

ただそれだけ、の企画展。

古文書マニアあたりには垂涎の内容なのかもしれないが、私のやうな知識の無い輩には、ただ白黒一辺倒の展覧会でしかなく、幕末から明治維新にかけて生きた久我家の息遣ひまでは、感じ取れない。

折から、小さな男児をつれた若い母親が、会場に入ってきた。

男児は羅列された古文書を眺めながら、

「なんてかいてあるのか、ぜんぜんわかんないよ」

と口を尖らせてゐた。

私の感想も、それに近い。




大学からほど近ひ渋谷区郷土博物館•文学館にも寄り、「昭和20年代の渋谷」展を見る。



渋谷駅前を中心に、二十五枚の写真パネルで再現された昭和20年代の渋谷は、低いビルがちらほら建つ駅前を一歩外れると、平屋の民家や商店、そして木立の続く空の広ゐ町であったことがわかる。

五世河原崎国太郎のあとを継ひで前進座の立女形となった亡き六代目嵐芳三郎が、昭和十年に渋谷区道玄坂で生まれたと知ったときは、「雑居ビルといかがわしい店しかないあの町で……?」と、不思議な感じがしたものだが、今回の写真展を見て、それから約十年後の景色ではあるが納得する。



駅周辺が狭くてゴミゴミしてゐるのはこの時代も変わらないが、当時は「恋文横丁」といふ、なんとも情話的な一画が存在してゐた。

当時日本に侵入してゐた米兵と日本人女性との間に立って、恋文の翻訳と代筆を請け負ふ店があったことから付ひた名前らしく、



それは現在、私が渋谷駅へ通り抜けるのによく使ふ小路のあたりに、あったらしゐ。




戦後の渋谷は、東急と西武の熾烈な勢力争ひによって、一大商業都市へと変貌した。

いまなお、一体いつまで、一体どこまでイジリ倒す気かと思へるほどに、開発は継続されてゐる。



そんな恋文横丁のあった街を、現在(いま)やちょくちょく見かける異人との合のコたちが、今日もムダに着飾って歩ひてゐる。


道玄坂下、太古の時代には谷底であったらうスクランブル交差点前には、終戦後にヤミ市の広がってゐたことが、この時の写真からわかる。


あれから約七十年。



ヤミ市の面影などはとっくに払拭され、

あまりのヒトの多さに現地の東京人には嫌悪され、

地方人には祭礼日かと勘違ひされ、

異邦人はいまだに突っ張り棒の先にスマホを付けて欣喜雀躍し、

気違ひはその雑踏にクルマを突進させる、

四季を通じて話題の絶へない渋谷の「顔」として、

今日もスクランブル交差点は健在である。
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