昨日、倉元 聰 率いる「富良野塾」公演、「走る」を観てきました。
幕が開くと、舞台は今まさにマラソンがスタートしたところ・・・。
たくさんのランナーが一斉に走り出します。
はじめは、それらは一塊りの群れのように遠景にいるのですが、
やがて群衆の中から数人が飛び出し先頭に立ちます。
その数人をカメラが追うように、胸に付けたゼッケンの番号や、ユニホームや、穿いているシューズや、顔の表情 など、観客にランナーを印象づけます。
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役者たちは全員、やや前のめりのマラソン姿勢で、ずーと舞台の上を走り続けます。
この舞台には主役がいません。ランナーには名前もありません。主役は一塊の走るランナーたち。
舞台を支えているのはランナーの走る、タッタ タッタ タッタ タッタ という靴音だけ。
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シンプルにいえば、走るランナーと走るランナーの靴音、これがこの舞台の骨組みです。
時間が経過すると群れは、だんだん数人のランナーに分かれ、
数人ずつになったランナーはそれぞれのインナーボイス(心の声)を台詞のように語り始めます。
いいろいろな人生の、いろいろな事情が、ランダムな形で語られます。
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その間も、ランナーたちは、タッタ タッタ タッタ と、ゴールに向かって走り続けます。
人は何のために 走るのか。
何に向かって 走るのか。
それが、倉本 聰氏の 問いかけ です。
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問いの答えは人それぞれでしょう。それにしても、この舞台の間中(1時間45分)、舞台を走り続ける役者さんには感動させられます。マラソンを走り続けながら、観客を説得させられるような芝居をし、台詞も言わなければならないのです。富良野塾の塾生は、2年の間、昼も夜もこのマラソンのような生活をくりかえし、自分を鍛えることが求められるのだそうです。そこに何が見えてくるのか、それがこの「走る」のテーマの一つでもあるのでしょう。
私的にいえば、私は必死で走る人間ではないので、走る人のことは語れません。が、高度成長期の只中をまっしぐらに走り抜けて行った何人かの人生を観てきました。「どうしてもっとゆっくり歩かないの」という問いは、当然いつの時代にもあるでしょう。でも、どの時代においても、人は一生懸命に走るのです、自分にできる限りの力で。
もしかしたら、地球が回り続けている限り、人は止まることなく走る宿命を担っているのかもしれない
私には、そんな風にさえ思えるのです。