今日、92歳のS・Kさんから届いた手紙に驚き。
以前はよくお会いしていたのだが、コロナ以来あまりお会いできないでいる。
手紙の一部。
《西宮文芸誌31号の貴稿のすぐあとに中川道子さんという詩人が、春名純子さんを偲ぶという追悼文を発表しておられました。
私の二十歳頃から津門の山村順さんを中心にして、多くは鳴尾の公民館で毎週、詩のクラブを開いていた頃の友人で(私より四っつ年長)その後私が港野先生にも紹介して大阪YMCAの詩のクラブでも一緒でした。(略)》
S・Kさんが港野喜代子と交流があったということは以前お聞きして貴重な話を文にしたことがあるが、山村順さんとも交流されてたとは初耳だ。
山村順さんは詩人竹中郁と詩の仲間でもあり、同時代の人。
用海小学校の戦後の校歌の作詞者でもある。
その校歌はわたしが在学中に出来たもの。わたしは4年生だったから昭和28年だと思う。
S・Kさんにはもっともっとお聞きしておかなくてはならない。ご高齢だが、記憶力は衰えておられないので。
以前はよくお会いしていたのだが、コロナ以来あまりお会いできないでいる。
手紙の一部。
《西宮文芸誌31号の貴稿のすぐあとに中川道子さんという詩人が、春名純子さんを偲ぶという追悼文を発表しておられました。
私の二十歳頃から津門の山村順さんを中心にして、多くは鳴尾の公民館で毎週、詩のクラブを開いていた頃の友人で(私より四っつ年長)その後私が港野先生にも紹介して大阪YMCAの詩のクラブでも一緒でした。(略)》
S・Kさんが港野喜代子と交流があったということは以前お聞きして貴重な話を文にしたことがあるが、山村順さんとも交流されてたとは初耳だ。
山村順さんは詩人竹中郁と詩の仲間でもあり、同時代の人。
用海小学校の戦後の校歌の作詞者でもある。
その校歌はわたしが在学中に出来たもの。わたしは4年生だったから昭和28年だと思う。
S・Kさんにはもっともっとお聞きしておかなくてはならない。ご高齢だが、記憶力は衰えておられないので。