必要があって「階段」№36(2010年)を見ていた。
「階段」は先年お亡くなりになった伊勢田史郎さんが主宰しておられたエッセイと詩の雑誌。
中に時里二郎さんのエッセイがある。
←二段階クリックで。
~モノオペラ(一人で歌うオペラ)の台本を書かせてもらった。~
という話から、”ことば“と”歌“の関連性が書かれていて、こうつながって行く。
《ヒトの身体を共鳴体にしている「楽器」の不思議というのだろうか、ヒトの歌声には、他の楽器とは違う「思い」(魂といっていいのだが)の隠り方がある。それは、歌い手が身体そのものを楽器としてあつかうところからきているのだろうが、その「思い」は、歌われることばを超えて、聞き手にも伝わってくる。》
わたしはこの部分に鉛筆で枠取りしている。そして〇印を。
ここに大いに共感したということだろう。
「階段」を伊勢田氏より送って頂くと、わたしはその感想を結構詳しく書いてお礼状を出していたと思う。
その感想を書くときに、このような枠取りと〇印をしたのだろう。
しかしわたしは、どのような感想を書いたのだろうか?
控えがないので何を書いたか全く覚えていない。
書いたものは残るというが、これはもう残っていないだろうなあ。
「階段」は先年お亡くなりになった伊勢田史郎さんが主宰しておられたエッセイと詩の雑誌。
中に時里二郎さんのエッセイがある。

~モノオペラ(一人で歌うオペラ)の台本を書かせてもらった。~
という話から、”ことば“と”歌“の関連性が書かれていて、こうつながって行く。
《ヒトの身体を共鳴体にしている「楽器」の不思議というのだろうか、ヒトの歌声には、他の楽器とは違う「思い」(魂といっていいのだが)の隠り方がある。それは、歌い手が身体そのものを楽器としてあつかうところからきているのだろうが、その「思い」は、歌われることばを超えて、聞き手にも伝わってくる。》
わたしはこの部分に鉛筆で枠取りしている。そして〇印を。
ここに大いに共感したということだろう。
「階段」を伊勢田氏より送って頂くと、わたしはその感想を結構詳しく書いてお礼状を出していたと思う。
その感想を書くときに、このような枠取りと〇印をしたのだろう。
しかしわたしは、どのような感想を書いたのだろうか?
控えがないので何を書いたか全く覚えていない。
書いたものは残るというが、これはもう残っていないだろうなあ。