昨夜、急に体調に変化を来たし、家内に大変心配をかけた。
まあ、原因は大体想像できるのだが、やはり年がいったということであろう。ちょっとしたことが応えるということで。
色々と忙しくしていて、確定申告のための帳簿の整理がまだ付いていなかった。どうなることかと思ったが、今日は恢復してなんとかやっつけて、夕方投函した。やれやれだ。しかし赤字決算でも申告はしなければならないのが面倒だ。
昨夜、急に体調に変化を来たし、家内に大変心配をかけた。
まあ、原因は大体想像できるのだが、やはり年がいったということであろう。ちょっとしたことが応えるということで。
色々と忙しくしていて、確定申告のための帳簿の整理がまだ付いていなかった。どうなることかと思ったが、今日は恢復してなんとかやっつけて、夕方投函した。やれやれだ。しかし赤字決算でも申告はしなければならないのが面倒だ。
わたしの敬愛する杉山平一先生がこのほど、現代詩人賞を受けられた、というのはこの前ここに書いたと思う。
97歳の日本の最長老詩人としては今更面映ゆいのではないかと思うが。しかしこの詩集が世間の注目を集めるのは意味のあることでもあろう。先生もそんなことを考えられて甘んじて受けられたものと思う。
前にも紹介しましたが、その詩集の表題詩「希望」をもう一度。
「希望」
夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は
列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇の中に放りこんでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ
負けるな
24年前の「輪」オープン以来、毎日来店してくれてた若者があった。近くの会社に勤めていて昼食を食べ来てくれていたのだ。気のいい青年で、度々職場の後輩を連れてきて御馳走していた。会社からもらった、勤続何十周年かの記念の旅行券を「あげる」といって私たちに差し出したこともある。しかしそれは固く辞退した。世話になるお姉さんにあげなさいと。
彼が座るのはいつも決まって窓際の席。一番気がねのない席だ。
その彼の変調に気付いたのは今から10年ほども前か。いやもっとになるかも。
目つきが変わった。そして、いつも何かに怯えているような様子。ちょっとした物音にも体をビクッと震わせ、あたりの様子をうかがう。明らかに精神に異常が起こっていると思えた。うちの家内も同じ意見だった。
彼はアパートで独り暮らし。だれも彼にアドバイス出来る者がいない。けど近くに所帯を持つ兄姉がおられる。で、その人に先ずお知らせした。できればお医者さんに連れて行って上げて下さいと。これは言いにくいことだったけれど、思い切って伝えた。その人は様子を見に行って下さって、何か変とは感じられたが、これといった処置を取ることはなさらなかった。
そのうち、様子はますますおかしくなって行った。毎日ご飯を食べにくる様子で分かる。「Tちゃん、体、大丈夫か?」と聞いてやったりしていた。しかし「大丈夫、大丈夫」と。
やがて、職場で問題が起き始めた。上司の言うことを聞かなくなっていると。いつも傍らにバットを置いていて、叱られるとそれで上司を威嚇するのだと。そんな噂が聞こえて来た。そんなことも親戚には知らされたのだが、彼は言うことを聞かない。医者へ行こうとしない。手に負えず困っておられた。
〇
Tちゃんの変調は益々進み、ついに職場にパトカーがやって来るまでになった。職場の上司がうちに見えた。「T君をお医者さんに連れて行ってやってくれませんか?」と。彼は誰の言うことも聞かなくなってしまっているのだった。
わたしと家内とで説得した。「Tちゃん、体しんどいんやろ。それなら早くお医者さんに行って楽にしてもらおう」と。優しく話した。彼は私たちの言うことには耳を傾けた。
そして私が先ず、神経科のある個人医院に連れて行った。こう書けば簡単そうであるが、そこまでこぎつけるのには少々苦労した。
診察室で私も同席して診断して頂いた。その結果、入院すべき、ということになった。
これは私一人でことを進めるわけにはいかない。どうしても親戚の人に出て来てもらわなければならない。
ということで、彼のお姉さんの婿さんと一緒に病院へ行くことになった。山の向こうの精神病院である。
〇
山の向こうの病院でも事細かな診察があった。それにも同席した。
彼は不安そうである。しかし、入院してもらわなければ困る。本人の同意書も要る。なんとかなだめて書いてもらい、入院ということになった。彼を安心させるために、私は私の名刺を渡した。「これに電話番号が書いてあるから何かあったら電話をしておいでよ」と。彼は一緒に行った姉婿を信用していなかった。というよりわたしたち夫婦以外を信用していなかったのだ。複雑な気持ちだったが、「早くよくなって帰っておいでよ」と言って私たちは彼を病院に置いて帰った。
その晩、彼から電話があった。「家に帰りたい」という。そりゃあそうでしょ。自由が束縛されてしまって、彼が満足なことはない。しかし、電話をかけて来る自由はあるのだ。病棟の廊下にある電話からかけているのだと。わたしは説得した。「Tちゃん、ちょっとだけ辛抱しといてぇ。そして、病気が良くなったら帰っておいで。待ってるからな」と、優しく説得した。実際はこんなに簡単な会話ではない。誠意をこめて時間をかけて話した。
〇
その後も何度か彼から電話があった。やはり「帰りたい」というものだった。しかしその度に「もうちょっと辛抱しいよ。ほんで早く良くなって帰っておいでよ。待ってるで」となだめるしかなかった。親戚の人はちょこちょこ面会に行っておられる様子ではあった。
そうして何年か過ぎたころ、彼が退院したと聞いた。しかしこちらに帰って来るのではなく、そういった人たちだけが何人か入居しているところでの生活に入ったということであった。ともあれ良かったと思った。が、仕事は出来る状態ではないと。完治はしないのだった。
ということで残念だったのは、早くに彼を専門医に診せられなかったことである。もっと早く初期の段階で診てもらっていて早く治療に入っていればもっと良くなったかもしれない。これは愚痴だが、わたしどもがおかしいと気づいた時点で診てもらっていれば治ったかも知れなかったのだ。
〇
今日、なぜこんなことを書いてきたかというと、その彼、Tちゃんが久しぶりに顔を見せたのだ。
扉を開けて入って来た男性を見てわたしは「あっ、どっかで見た顔」と思う間もなく「Tちゃん!」
何年ぶりになるだろうか。もう7,8年にはなるだろう。すっかり変わってしまっている。肥えているのだ。以前はガリガリに痩せていて、眼光鋭く、いかにも神経質そうな風貌だった。それがブクブクに肥えている。
以前と同じ窓際の席に着き「定食」と。
しかし、うちの店もあれからすっかり変わってしまっている。あの頃は忙しく、こんな小さな店でも毎日、5,60食の定食を出していた。時には70食超えることも。まるでレストランやなあと言ったことも。
「もう定食やってないんやで。すっかり世の中変わってしもてな」というと不思議そうな顔。
が、今日は予約で用意していた「トンテキ」がまだ残ってた。しかし鉄板の火はもう落としていて「テキ」はできない。で「トンカツ」にしてもらった。
始めTちゃん一人で来たのかと思ったが、一緒に行って入院させた姉婿さんも来店だった。
話を聞くと、やはりもう仕事は出来ないらしい。が、元気な様子を見て安心した。「どや、久しぶりの輪の定食は?」と聞くと「うまい」と。満足そうだった。
昨夜、確定申告のために、預金通帳から電気代、水道代などの経費を書き写そうとしたら、ある期間がポッカリ抜けている。半年ほどが「おまとめ記載」となっている。これでは帳簿が進まない。
で、今日です。但馬銀行西宮支店に行き、通帳を示し、この部分の明細をプリントアウトしてほしいとお願いした。すると窓口のかわいい行員さんが書類をしめし、ここに記載して頂いて印鑑を、と仰る。わたし、「えっ、そんなん持って来てない」と。けど、「そうして頂かなくては出せません」とか。「なんで?前にはやってもらえたよ。こうして通帳持って来てるのになんであかんの?今から出直したら、時間がないからまた明日のことになるやん」「でも…」「これぐらいのことやってえよ!」わたし、少し声が大きくなり始めました。するとそのかわいい顔した子は、わたしの怒りを察知して、これ以上こんな対応してると大声を出されると思ったのでしょう、「上司に相談します」と奥へ。やがてその上司が「こちらへ」と別室へ。
丁重に名刺を出され、「ルールが変わったものですから、あんな対応になってしまいました。すみません。今回は発行しますが次回からはよろしく。つきましては身分を示す免許証か保険証を…」と。「持ってないです。不要な物は持ち歩かないので」と言いながらセカンドバッグを覗くと、財布の中に図書館の貸し出しカードが。それで、なんとかなりました。
銀行の中へは最近入ることがほとんどありません。カードで出金しますのでね。あの人差し指を置いて「ご本人と確認できました」とか言うやつ。だから記帳してもらうことがほとんどないのです。で、今年初めに確定申告のためにわざわざ記帳してもらっておいたのでした。それが「おまとめ記帳」だったとは気づかなかったわけで。これからは気をつけよう。余分なことで腹を立てて血圧上げてはなりません。
しかし、しばらく行内へ入らなかったら、以前顔見知りだった行員の姿がまったく見えず驚きました。どんどん人事異動しているのですね。
今朝お見えのS水さん、昨夜、スナックから出て、駐車場から出ようとしたら、前を白と黒の車が通りかかって、駐車場へあともどりして、5分ほどしてから発車したら、さっき通り過ぎたと思った車がスーッと寄って来て、…、という話。
これ、エライこっちゃという話かと思いますねえ。
ところが、やはり、「『息を吹きかけろ』とか言われて、『はーっ』て吐いたら、『おかしいなあ?』ゆうて『もう一ぺん』とかで何べんも。そのうちもう一人にもやらされて、10回ぐらい息吐かされた」と。「しまいに、トランクを開けて風船ふくらませて、て言うから『それ無駄になるよ。酒飲んでないから』というと、さすがにそれはしまいよったけどね。『もし出たら、キリンのノンアルコールがおかしいんやからね』て言うてやった」と。
わたし、「あんたも人が悪い。遊んでるんやんか」
昨日のニュースであった。警察官の水増し違反摘発。下手したら飲んでなくても立件されてしまうよ。気をつけてよ。という話。
親しくして頂いている奥村忠俊さんから、『ねっとわーく京都』の2004年8月号を送って頂いた。
これには出石(いずし)の歴史転換に関わる記事が載っている。
出石はわたしの大好きな町だ。わたしのペンネーム「出石アカル」はその由来による。
その出石町が、平成の大合併に巻き込まれて豊岡市になってしまった経緯がこの冊子には書かれている。
奥村氏、町長就任間なしのインタビュー記事である。
8年前だから、少しお若く写っている。
奥村さんは、うちの家内の同級生。その縁で随分昔から親しくさせて頂いている。そして「出石城」というそば屋を経営する社長さんでもある。出石へ行って時間が許せばそこで出石名物の皿そばを頂く。これがおいしいのだ。
その奥村氏が町長になるいきさつがインタビュー記事になっている。
そもそも、奥村氏は出石の町会議員であった。彼は共産党員である。しかし毎回の選挙で上位当選する。人柄がいいのだ。会って話をすれば彼の人柄にほれ込む人は多いだろう。彼は言っている。「私は基本的に敵をつくるのが嫌いな性格です。ですから解放同盟でも公明党や他党の人たちとも仲良く付き合います」と。
〇
政府の政策で全国的に市町の合併が進められて行きました。出石町も例にもれませんでした。出石町は単独で十分やっていける町でした。独特の文化香る町でした。何のとりえもない豊岡市(ゴメンナサイ)と合併して豊岡の一部になる必要は全くなかったのです。
当然反対の声が上がります。町は二分されます。その中で、当時の町長は国の方針に取り込まれて行きます。しかし、どちらに転んでもいいような日和見態度も保ちながらのずるいやり方で。
奥村氏は当然反対の立場。その仲間が集まり反対運動を繰り広げます。が、結局、合併はなされてしまいます。そのずるいやり方が、この『ねっとわーく京都』のインタビュー記事で明らかにされています。
この合併決定直後に紆余曲折があって奥村氏が出石町最後の町長として当選します。その選挙戦は感動ものです。共産党員の奥村氏は自分でも勝てると思えず、選挙が終わった時の挨拶を負けを想定して考えていたと。だから、予想に反して勝った時、「勝っちゃった」というしかなかったそうです。
〇
出石という町は面白い町です。人口も少なく小さな町です。ところが昔から個性豊かな人を多く輩出しています。東大初代総長。沢庵禅師。戦時中、国会で粛軍演説をし追放された齋藤隆夫。この人は地元のためには大したことしなかった衆議院議員さんでしたが出石の人々は毎回トップ当選させました。出石人の見識は見事です。幕末には桂小五郎を町の人は匿いました。さらに文化勲章を受けた文人は洋画家伊藤清永を始め三人に上ると言います。人口が西宮の50分の一、一万人ほどの、あの小さな町で。
出石は田舎町です。本来保守的な町です。そこで共産党員の町長を誕生させるのです。選挙では自民党支持の人までが多数応援したりするのです。
そうして生まれたのが奥村忠俊町長でした。町長に当選した彼は言います。
「合併はしない方がいいに決まっています。しかし、合併を覆すことはしません」その理由を、決まってしまったことを覆そうとすれば町に新たに混乱を巻き起こし、不毛の戦いをしなければならない。それよりも「豊岡?ああ城下町の出石があるところですね、と言われるような町を私たちは築いていきたい」と。
偉いですね。わたしは、このような人と親しくさせて頂いていることを誇りに思います。
〇
最後の出石町長、奥村忠俊氏は家内の同級生だと書きました。
が、もう一人スゴイ同級生がいます。今、日本中からパッシングされている弁護士、安田弁護士です。あの光市のむごい殺人事件の犯人の弁護を引き受け、あの橋下さんととかくの因縁のある人です。
彼は、あのオウムの麻原も弁護しました。が、途中で別件で逮捕され、その役から外されました。この裏には大きな力が働いたとしか思えません。
安田弁護士については色んな意見があるでしょう。日本人のほとんどが批判するでしょう。しかし彼は昔から、日本中から嫌われる被告ばかりを弁護してきてます。人気取りでもなく、まして金もうけには全く繋がらないその思想には、わたし共感する所があります。彼を本気で、ホントに本気で批判するなら、少なくとも彼が書いた何冊かの著書を読んでからにするべきだと思います。あの橋下氏が彼の著書を読んだとはとても思えません。
出石のことから、話、横道にそれました。
〇
昨夜、テレビの「開運なんでも鑑定団」を見ました。わたしの好きな番組です。
新聞のTV欄には豊岡という文字が。で、豊岡での収録ということです。わたし、これ出石とちゃうやろか?と思いました。すると案の定、出石の「永楽館」という歴史的芝居小屋からの放送でした。
ということです。出石町のままなら、テレビも「出石」と報道発信するのです。出石という地名に興味のない全国の視聴者は「豊岡」と記憶するでしょう。出石は観光の町です。豊岡と合併してはいけなかったのです。
今日は出石のことばかり書きました。西宮発のブログなのにね。けど、西宮人も気骨を持ってほしいのです。出石の人のように。「お前がやれ!」と言われそうですが、もうこの老体ではムリです。
『KOBECCO』3月号の「触媒のうた」から「久坂葉子 Ⅱ」です。
興味のある方はお読みください。
久坂については「久坂葉子研究会」なるものがあるぐらいです。その研究者も知らない話では?
しかし、わたしがN本と書いたプロデューサーは、今読んでいる『その日の久坂葉子』(柏木薫)には西本傳三郎と実名で登場している。が、ハイヒールの件はない。
柏木さんは、長く久坂を研究している人だ。追記 久坂葉子については『触媒のうた』に詳しく書きました。(2017年10月25日)
「宮水ジュニアまつり」でした。
JR西宮駅に井上慶太九段をお迎えに行き一緒に会場へ行きました。
定員の何倍もの申し込みで、抽選になったそうです。
子どもたち早くにやって来ました。始まるまでの時間、九段が詰将棋の問題を出して、解説などのサービス授業して下さいました。ホントにお人柄のいい九段です。
司会進行を任せて頂きました。
初めに「だから将棋はおもしろい!」というタイトルで慶太さんにミニ講座をしてもらいました。
ユーモアを交えながら楽しく。
そして、将棋大会です。
みな緊張の面持ちです。いい目つきしてます。後ろには見学の父兄も。
あと、井上慶太九段の指導将棋。
こんな経験はなかなか出来ません。
慶太さん、丁寧に指導しながら上手に負けはります。わたしは子ども相手に、つい勝ってしまうのですが。
終わって、表彰式をしました。上位三人と、慶太さんと相談の上、6戦全敗の子に敢闘賞を慶太さんから渡して頂きました。
無事に終了してやれやれです。慶太さんお疲れ様でした。
あと、慶太さんと一杯飲もうと思っていたのですが、加古川のご自分の道場に帰りたいとのこと。そして人と会う約束がお有りとのことでお帰りになりました。残念。
指導対局風景の動画はこちらで。↓
http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=27077816&video_id=11444542