旧両津市(現佐渡市)、両津湾の最奥部の海を見下ろす高台(隆起扇状地)に向高野(むかいごうや)という地区がある。
この高台には小さな谷がいくつも刻まれているが、向高野地区にある小谷の最上流部付近に小さな池がある。この付近はさんぞうぶね(三艘舟?)と呼ばれていた。今ではその池があるのかどうかも含め、その地名を知るものがどれだけいるかはわからない。
このさんぞうぶねという場所と、その地名を知ったのはずいぶん昔のことだ。まだ私が小学生の頃に父に案内され、古い言い伝えと共に教えてもらったと記憶している。言い伝えとはこうだ。「むかし大津波がこの付近を襲った。その際、津波は三艘の舟をここまで運んできた。それ以後、そこはさんぞうぶねと呼ばれるようになった。」という内容である。
まだ幼く、津波とは何かもよく知らない自分であったが、それ以来その場所・地名・由来だけはしっかりと記憶に残り今日に至る。今では、津波がいかなるものかもわかるようになったし。そのパワーも大変なものであるということもわかるようになった。津波による被害を伴う地震としては1983年の日本海中部地震は記憶に残る地震だ。この地震で出た死者は104名。そのうち津波による死者は100名を数えると報告されている。
さて津波というと、昨年末のスマトラ島沖地震のことだが、大規模な地震であるにもかかわらず、その後発生した大津波の被害が甚大なので話題になっている。未だその人的被害の全貌がつかみ切れていないようだが、すでに15万人を超えていると報道されている。恐ろしい話だ。
そんな被災の報道を新聞等で日々見ている中で、一つ気になった記事がある。1月3日頃の毎日新聞だったと記憶するが、要点は次のようであった事と記憶する。正確でなくて申し訳ない。
津波に襲われたとある島(村?)の住民が、昔からの言い伝えで、「水(海の)が引いたら山へ逃げろ。」ということを思い出した。半信半疑ながら島(村?)の住民たちは高台へ上がっていたという。そうしたら大津波が来たが、言い伝えどおり避難していたおかげで被害を防げたという。
古き言い伝えは、まさに現代に示唆を与えていたのである。そう考えると、さんぞうぶねも同様である。沖に向かってV字形に口を開けている両津湾は、奥へ行くほど狭くなるので、津波の被害は受けやすい地形的条件を持っている。さらに陸上にある小谷については、かなり奥まったところまで水が進入する可能性がある。さんぞうぶねという地名は、その名の由来が、水はここまで来たことがあると言うことを、教えてくれているのである。
冒頭述べたが、現在この地名とその由来を知るものは、付近の年配者たちだけであろう。時代の中で消してしまうにはもったいない地名である。皆さんの地元にはそのような由来のある地名や、防災に関わる言い伝えはないだろうか。
最後に
地名とは不思議なもので、今ある地名がつけられたのには何かしらの理由や背景というものがある。色々調べてみると土地が持つ条件であったり、歴史的背景や、とある人物が関わっていたりとなかなかおもしろい。地名辞典等本屋に行けば売っているので、地元のものなど購入されると良い発見ができるかもしれない。おすすめしたい。
2005.1.11 管理人追加
1月11日(火)付 毎日新聞にてスマトラ島西部地震にて、古い言い伝えによる避難の記事あり。
この高台には小さな谷がいくつも刻まれているが、向高野地区にある小谷の最上流部付近に小さな池がある。この付近はさんぞうぶね(三艘舟?)と呼ばれていた。今ではその池があるのかどうかも含め、その地名を知るものがどれだけいるかはわからない。
このさんぞうぶねという場所と、その地名を知ったのはずいぶん昔のことだ。まだ私が小学生の頃に父に案内され、古い言い伝えと共に教えてもらったと記憶している。言い伝えとはこうだ。「むかし大津波がこの付近を襲った。その際、津波は三艘の舟をここまで運んできた。それ以後、そこはさんぞうぶねと呼ばれるようになった。」という内容である。
まだ幼く、津波とは何かもよく知らない自分であったが、それ以来その場所・地名・由来だけはしっかりと記憶に残り今日に至る。今では、津波がいかなるものかもわかるようになったし。そのパワーも大変なものであるということもわかるようになった。津波による被害を伴う地震としては1983年の日本海中部地震は記憶に残る地震だ。この地震で出た死者は104名。そのうち津波による死者は100名を数えると報告されている。
さて津波というと、昨年末のスマトラ島沖地震のことだが、大規模な地震であるにもかかわらず、その後発生した大津波の被害が甚大なので話題になっている。未だその人的被害の全貌がつかみ切れていないようだが、すでに15万人を超えていると報道されている。恐ろしい話だ。
そんな被災の報道を新聞等で日々見ている中で、一つ気になった記事がある。1月3日頃の毎日新聞だったと記憶するが、要点は次のようであった事と記憶する。正確でなくて申し訳ない。
津波に襲われたとある島(村?)の住民が、昔からの言い伝えで、「水(海の)が引いたら山へ逃げろ。」ということを思い出した。半信半疑ながら島(村?)の住民たちは高台へ上がっていたという。そうしたら大津波が来たが、言い伝えどおり避難していたおかげで被害を防げたという。
古き言い伝えは、まさに現代に示唆を与えていたのである。そう考えると、さんぞうぶねも同様である。沖に向かってV字形に口を開けている両津湾は、奥へ行くほど狭くなるので、津波の被害は受けやすい地形的条件を持っている。さらに陸上にある小谷については、かなり奥まったところまで水が進入する可能性がある。さんぞうぶねという地名は、その名の由来が、水はここまで来たことがあると言うことを、教えてくれているのである。
冒頭述べたが、現在この地名とその由来を知るものは、付近の年配者たちだけであろう。時代の中で消してしまうにはもったいない地名である。皆さんの地元にはそのような由来のある地名や、防災に関わる言い伝えはないだろうか。
最後に
地名とは不思議なもので、今ある地名がつけられたのには何かしらの理由や背景というものがある。色々調べてみると土地が持つ条件であったり、歴史的背景や、とある人物が関わっていたりとなかなかおもしろい。地名辞典等本屋に行けば売っているので、地元のものなど購入されると良い発見ができるかもしれない。おすすめしたい。
2005.1.11 管理人追加
1月11日(火)付 毎日新聞にてスマトラ島西部地震にて、古い言い伝えによる避難の記事あり。
いろいろ詳しい説明感謝です。
チャンスがありましたら調べてみます。
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
地図上で、杉林のあたり、標高35~40m辺ですね。凄まじい津波ですね。時期としては、
寛保元年1741年松前、津軽の大津波
(享和元年1801年の鳥海山噴火)
享和二年1802年の小木の地震 ?
1804年の象潟の地震、大津浪
1810年の男鹿の地震 ?
1833年の飛島沖地震、大津波
と、災害が続きましたから、この内のどれかでしょうか。平安時代にも津浪が、有ったようです。
地元の集落を、取材されてみてください。きっと何かの、手がかりが、残っていると思います。(真法院の大桑の樹齢からも何か、推測できそうです。)
市役所の税務課か、法務局に行きますと、「字界図」と、戦前~国土調査(昭和40~55年頃)前の、古い「地籍図」が、あります。これにお父様とご一緒されたときの池が、出ているかもしれません。
アンダマン・ニコバル諸島の伝説を訪ねに行って見たいものすね。私のブログに、Doniさんが、あちらの詳しい情報をTBで、知らせてくださいました。かなりの人々が、元気でいるようです。
最初のコメント欄にありました地理院のサイトで確認しました。等高線の関係からすると30mは越えていると思います。曖昧で悪いのですが、40m付近が怪しいと思っています。確認には以下を使いました。
http://watchizu.gsi.go.jp/cgi-bin/watchizu.cgi?id=57381300
地名として「さんぞうぶね」は地図や出版物に載る事はありません。というより見たことがありません。向高野と大野の間の水田地帯に食い込む小谷に問い合わせの地点はあります。
江戸期には象潟が大きく隆起することになったもの等、大規模な地震が日本海側にあったようなので、推測の範囲ですが..。後19世紀初頭に小木地震がありますね。小木半島はその時の隆起海食台は1mくらいから2.5mくらいまでのものがあるようです。
では、さんぞうぶね付近の標高については何とか調べてみます。正確なところはでないかもしれませんが、お待ちください。
「さんぞうぶね」の標高と、いつの津浪によって、打ち上げられたか、解かりましたら、たいへんお手数ですが、お知らせ下さい。
http://watchizu.gsi.go.jp/地形図で見ましたが、良くわかりませんでした。
ニコバルやアンダマンの島々。行ってみたいものです。おおよそ、この手の地名を言うと妻は知りませんので、まず許してくれません。U1様はいかがでしょう。地震と津波がなければ、まずは良いところと言って良いところであると思いますが..。
ノコバル、アンダマン両諸島など比較的、未開な生活を送っている人たちの伝承って、大切と思いました。行ってみたいものですね。
全国のデータを...。とありますが、難しいでしょう。
伊能忠敬以来の快挙といわれると、グラッと来ますね。地震ではないですが..。
お天気雨様、時折刺激ください..。感謝。
地名が表わす危険地etcという書籍を見たような気がします。クエ、ホキ。フキ、ボラ、エキなど。しかしこの「大崩」はストレートですね。住民の方もそれを理解、伝承しておられるのでしょう。佐渡島殿、災害に限らずこのペースで全国のデータを蒐集されて論文をまとめられれば、伊能忠敬以来の快挙となるかもしれませんね。