◎雪国(1957年 日本 134分)
監督/豊田四郎 音楽/團伊久磨
出演/岸惠子 池部良 八千草薫 森繁久彌 加東大介 浦辺粂子 市原悦子 千石規子
◎日本画家にする理由がわからない
いや、東京が麻痺するくらいの凄い雪が降ったからってわけじゃないけれども。
團伊久磨の音楽もいいけど、なんといっても、安本淳のカメラがいい。ロケの空模様が書き割りみたいな綺麗さだとおもってたら旅館の中はたぶんスタジオだとおもうんだけど野外入れ込みで室内を撮ったときのリアルさは見事だな。ラスト、岸惠子が仕事へ向かっていくとき、闇に埋もれた雪景色の中へ沈みこんでいくような撮り方はまるで墨絵のようで、見事だ。
それと冒頭、列車の窓に映り込んでくる八千草薫の美しさ、駅舎の窓に映り込んでくる岸惠子の凛とした美しさ、どちらもたいしたもんだ。カメラだけじゃなくて豊田四郎の演出も細部まで気持ちの演技が見えてくる。ワンカットワンカットが丁寧だね。鏡台に雪景色が映りそこへ岸惠子のアップがフレームインしてきたりね。
ただまあ、池部良がうまいんだろうけど、この高等遊民のようなどうしてもなく浮世離れした野郎の情けなさといったらない。日本画家という設定にする必要はまったくなくて、そんな意味のないことをするより山歩きの好きな作家としておいた方が好かったんじゃないかっておもうわ。
でもまあ、ひどい男だね。この男がいなかったら、岸惠子も八千草薫も幸せとまではいかないものの不幸のどん底に落ちてしまうこともなかったろうに。そうしたどうしようもなく凍てついた呪縛というか運命の悪戯みたいなものがこの作品の底流になってるんだけど、このあたりがどうしても僕には辛い。
ところで、女風呂で池部良と岸惠子がふたりで浸かってるとき、池部良がタオルで湯面に風船を作るんだけど、これ、妙に懐かしい。その昔、そう、ぼくがまだ幼稚園に入って間もない頃だったか、母親に風呂に入れられたとき、湯面でよくこの風船を作ってた。当時園児だった僕はそれがうまくできなくて何度もやりなおしたものだ。銭湯で手拭いを風呂に入れるのは失礼なことだから勿論するはずもなく、つまり家のお風呂でしかできない。当時ちょうど、家庭で風呂を作るようになってて、その頃、この遊びがなんとなく世の中に広がってたのかもしれないね。
原作とちがうところは、火事のあと、つまりラストになって後日譚が描かれていることだ。
火事から救出された八千草薫が顔の火傷を恥て人前に出られないようになり、それがまた岸惠子に対する怨念のようになって家で留守を守り、岸惠子は岸惠子で八千草薫の自殺のような映画館での炎への包まれようは自分が追い込んでしまったとおもっているからなんとかふたりで生きていこうとして芸者稼業に身を窶しているわけだけれども、でも、もうそれも限界に近づいていることを自覚しつつも、かといってどうにもならない現状があり、これからどうやって生きていけばいいのだろうと、我が身を呪い、かつまたいけないことだとわかっていながらも八千草薫を憎まずにはいられなくなっている自分をどうしようもなく憎み、その絶望感に包まれながらもはや死へ向かっていくのように薄暗い雪に閉ざされた中、今夜も仕事に向かうしかないという哀れさがひしひしと沁み入ってくる。たいした映画だわ。