いまは刊行されていないが1968~1972年代にアメリカで、"While Earth Catalog"という本が刊行されていた。私の手元にあるのは、その後断続的に出版された続編。内容はすべて、Do it yoursilfを基本的考え方とし、そのために必要な知の情報にアクセスするためのカタログです。この本には生活の全てを自分で行える実践的なノウハウ本が解説付きで紹介されている。その大分類をみると生活、健康、遊牧民、コミュニケーション、学習、5つの方法といった具合に生活に即して体系化されている。例えば自分で住まいをつくる方法、自分でバイクをつくる方法、泳ぎ方、赤ちゃんの非常時の対処の仕方、人命救助の方法、あるいは自分で出産する方法から死をみとる方法(ホスピスという言葉はここからきたのか)などをはじめ、人間として生活するための情報にアクセスするためカタログです。
そうした集められたノウハウ本がどの程度の水準かというと、例えばここで紹介されている本をあげると、ドナルド・アプリヤードの"Livable Street"は、大学院時代のテキストだったし、クリストファー・アレギザンダー"A Pattern Language"は都市デザインの仕事をしていたときのバイブルの1つだった。つまり専門書であり、そのための入り口を示したのがWhile Earth Catalogです。
日本人の悪しき気質として、「それは専門の領域だから専門家に任せて、我々は専門領域には踏み込まないでおこう」そんな腰が引けた気質があるのではないですか。特にマスメディアは、専門的なことになると専門家を登場させて逃げてしまう。怖い人がきたからあんた対応してよ!、といって逃げてしまう、それと一緒。
新聞なんか特にそうなのだけど、専門家の発言を多数掲載して何の疑問も感じないのだろうか。それでいて社会問題など発言しやすいものには論述の基本である定量的な数値データを無視して発言するという荒唐無稽な姿勢が、私を新聞嫌いにさせてくれる。
それでは問いますけど、専門知識は誰のためのものですか?。
答えは、専門知識は地球上の人々のためのものです。より賢く活きるために、あるいは子供の様子がおかしい、あるいは国を追われ悩んでいる人たちのために、どうしたらよいのか、そうしたことに専門知識が必要なのです。
そうした人々が勉強するために、専門家が到達した知識を本にあわしているいるのです。私も大学を去るときに、それまでの知見を本にしました。いや本にしておこうという義務感みたいなものがあったと思います。
だから専門知識の入り口に到達できるカタログが必要なのです。それがWhile Earth Catalogでした。この本はすでにありませんが、もし今の社会でこの本の役割を果たそうとすれば、さしあたり新聞ではないですか。たんに専門家に図書の書評をかかせればよいというのではありません。それでは前述した怖い人がやってきた、という話と一緒です。この地球の情報を体系化し、そのなかで必要とされる専門書を記者自らが紹介できることが本来のメディアの能力でしょう。
日本人は勘違いしている人も多いですが、専門知識は専門家のものではありません。専門家が専門知識を勉強したってしょうがないわけですから。専門知識は地球上の全ての人々のためにある。そのことを理解しているのがアメリカ。だからこのような専門知識への案内書が毎年刊行されてきたわけです。日本人は腰が引けていますから、専門家に近寄らんとこう、でしょ。それじゃ無知な国民が増えるばかりではないですか。
最近の映画「ドリーム」のなかで、NASAで働く黒人女性が、お金がないから図書館で「Fortran」というコンピュータ言語の本を盗んで勉強し、やがてNASAに初めて導入されたIBMコンピュータのオペレーション・スペシャリストになったという話が登場します。専門知識を活かした逸話ですね。映画では、専門知識は知っているだけではなく、人々が活かすことが大切ということを教えてくれています。
沖縄県慶良間諸島久場島紺瀬
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