最近の私のブログも、フィールドの話と官能小説!の2つに収斂してきた。
フィールドワークは出かけなければならないから、コロナ禍で不要不急の外出はするなという時は出られない。
だが官能小説と挿絵は、クリエイションなので、家にこもって書く・描くには好都合だ。コロナ禍の時、家でどうしていましたか?、と訪ねられたとき、官能小説を書いていました!、と答えるのはある種の痛快感があり、そして軽蔑されるかもしれない。
それにしても、人間はなんで裸程度の事で物議を醸し出すか。例えば女優が脱いだだけで、大きなコピーが雑誌の表紙で踊りだす。女優って売れない頃は、絵画の裸婦モデルバイトをしていたと思われるし、最近ではチアリーダーを盗み見るというのが犯罪視されている。だがヨーロッパの古い建築の外壁には裸像の彫刻で過剰なほどに装飾されていたりするが。
少なからず外へ出かけた時、手元にスケッチブックがあればコスチュームの上から類推して裸婦デッサンを描いている。マックで珈琲を飲みながらiPadに裸婦を描くこともある。そうやってデッサン力の維持に努めているが、意識の中で今日も勉強になりましたと感謝。
人間の上位概念である生物は、子孫を残すという大仕事をするために生きている。そして男と女という二つのカテゴリーがありSEXが関係づけている。これに対して下位概念として生活を社会的に成立させるための膨大な社会構造や制度や仕組みがある。それが大方の人間の思考やライフスタイルを形成している。I.イリイチが最初に提唱したジェンダーという概念である。
今ジェンダーは、下位概念である社会的カテゴリーにおいて男女やその他を区別や差別をしてはいけませんと定義している。そして上位概念と下位概念を整理して考えましょうというのが現代社会の知見だ。
そんな事がわかれば人間も大したことがなかった。そんなお互いに大したことがない人間達の姿を描いているに過ぎないが。
おかげで巣ごもりのストレスは少ないが、それじゃあお前は社会貢献しているのかって?。
私の名前(漢字でフルネーム)で国会図書館の文献検索をすると148件の学術論文と著書が出てくる。100件ぐらいまでは覚えているが、あとは記憶にない。もう十分日本文化のために社会貢献したから、ええわなという気分だ。
さて、描いたクロッキーをブログのイラストにするときに2つの方法がある。
図1のようにクロッキーデッサンをスキャンし、水彩紙にプリントしてから、着彩してブログにアップさせる方法、あるいは図2のようにクロッキーデッサンを下敷きにして水彩紙にトレースし新たに描きおここしてから着彩しアップさせる方法とである。
前者であれば線のタッチをいかすことができるがプリントのインクがにじむのでフィクサチーフで定着するが、それでも水彩絵具の水分が線を溶かすので着彩はしずらい。
後者であれば、クロッキーデッサンを下敷きにして新たに描きおこしているからクロッキー時のタッチは活かされないが、ボディの立体表現が容易だし、骨格や筋肉を書き加えることもできる。
そんなことを考えながらクロッキーをブログのイラストにしている。
図1.ドローイング464.小説:小樽の翆392.出逢いの感性(左が原画、右がブログアップ画像)
図2.ドローイング464.小説:小樽の翆392.その一言で・・・(左が原画、右がブログアップ画像)
ちょうど幕間の話題がもう一つできた。6月24日のブログが、gooの掲載規準に反しているとする指摘があった。このときのドローイングは、描き損ねて描き直そうと考えているうちに忘却の中へ。
確か2週間前にgooの紹介ブログにアップしませんかとするお誘いがあった。でっ了解した。これが起因していると思われる。
数日後、突然1時間のアクセス数が100以上になり、1人のフォロワーが増えただけで、すぐにいつものブログに戻った。この頃フィールドワークから官能小説へテーマが変わる頃であった。それが多分フォロワー以外の読者の目にとまる切っ掛けだったんだろう。おそらく読者から、これは公序良俗に反しているとするクレームでもあったと推測。それが以下の図左側に挙げた訂正要求である。
そこで当該ブログをすべて削除し、新たに作り直した。
おそらくドローイングが問題と推測し、描き尚したのが右側。あわせて文章も訂正した。こうしたドローイングの場合、表現の許容範囲がある。といってそれは定性的なので、限界値を数量化はできない。まあ実験してみるほかないでしょう。
それと指摘された当該ブログのドローイングは、人体ボディが立体表現になっていなかったという描きそびれがあった。そうなるとデッサンとしての基盤がなくなるのでクレームをつけやすかったんだろうと推測。
そうしていたら。また7月1日の3DCG画像が公序良俗に違反すると指摘があった。えーーっ、デッサンに続き3DCGもあかんのか。つまり男女がハダカで重なっていてはアカンというわけだ。
突然中国・香港のように厳しくなるgooの最近の風潮はなんだろうか。一つはブログ紹介にOKをだした事が起因し、その頃テーマが切り替わるときだったのだ。写真は面白いと思ったら突然濡れ場は、なんだ!、というわけだ。まずい!、毎日訪れてくれる読者以外の目にとまってしまった。
そんなわけで、またつくりなおしである。3DCGだから、人物を入れ替えただけだが。あとはイメージに合わせて文章を手直ししたら、おや!、少しましになったじゃん。
もう一つおこなったことがある。私がフォロー中285人、フォロワー158人とバランスを欠いている。私の世界に興味の無い人をまきこんでもしょうがない。できるだけフォロー中158になるように、私がフォロー中の人々を削除した。もし間違ってフォロワーを削除していたらゴメンなさいである。
図3.左側:gooの修正要求、右側:修正後のドローイング
図4.gooの修正要求にしたがい修正後のドローイング
最近私のブログも少しだけ多くの人々の目にとまる気配を感じている。といってアクセス数は変わらないが、見に来る人間が多様化しているといったらよいか。そうなると文章の練習だといって気楽に書いている状態ではなくなってきた。
例えばこんなこともあった。中国製バッテリーの使用実感を書いたのだが販売業者から反論がきた。そういえば私の記述は実際に使用した経緯を書いたが、個体差もあるから複数の製品使用実績で書いたわけではなかった。そこで客観性に欠けていると判断し、当該箇所を削除したこともある。
そうなると、このブログのアナリシスが唯一科学的視点からデータをもちいて書いているが、その他のブログにおいても、これと同様の依拠を示しながらといった書き方が求められてくるのだろう。
それだけブログが社会性をもってきたといえるかもしれないが、それまでの仲間内の話として、「こんな裸婦書いた!」、「あんたもスケベねぇー!!」と笑われながらといった具合に、親しい人たちのコミュニティをイメージしていたが、どうもそんな気楽な状態とは違ってきているようだ。
そうした茶飲み話から社会的発言に近づいてくる、つまり毎日学術論文を書くスタンスに近い状態で執筆する事が求められてくると、私的には、窮屈で退屈な状況だ。つまり書き滑り、あるいは描き滑りもありつつの茶飲み話のブログだが、最近は滑ってはアカンみたいだ。
いつまでも文章とデッサンの練習の場として、筆のままに、時に滑りつつ、気さくに書いて、描いて、いたいと思う。それを失うとブログではないでしょう。
Nikon Df,CarlZeiss PlanarF1.4/50mmT*ZF2
ISO200,露出補正0,f/8,1/30