狸の昔話

世界中、景気対策で金利を下げてきた。
 今、国債は下がり、長期金利が上昇し、景気のマイナス要因として心配されている。
 ならば簡単だ、再度景気対策を講じて、金利は下げる余地がないから、利子をプラスして貸し出しすればいい。お金は潤沢に回わり、景気は良くなる。ただ、市役所の窓口はたぬきが押しよせてたいへん。
 これは狸が昼寝していたら頭に浮かんだ。
 世の中全体に受身の発想や行動が溢れているせいかドジもいつの間にか消極的に考える癖がついているようだ。午後参加する発達障害の学習会で新しい芽が見つけられるといいな。
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生産(産業)を省いた経済論議

経済危機と言いながら何故まともに産業のあり方を議論しないのだろう?
 先週、NHKの政治討論会は全政党が【産業構造の転換】を言い、その後総理大臣までが口にしていた。
 1週間たった今日の討論会では誰も口にしない。相変わらずどの政党も税金(借金・埋蔵金)の分配の話ばかりである。
 経済が即生産【産業】やそのものの仕組みを意味するぐらい<何をどのように生産んするか?>は第1義的な意味を持っているだろう。
 地球環境の危機や資源の枯渇、パンデミックを抱えた中での経済危機の克服を論ずる時まずはまず第1儀的な<何をどう生産するか>をパスして分配の話へすすめられるのだろうか?
 どの主張にも現実感を感じない。
 仮に政治が税金の分配にあるとしても、消費的な分配より生産的な分配が優先されなければ、経済危機にある経済対策とは言えないのではないか。
 これは、政治討論会や国会ばかりでない。どの経済ニュースも同じように欠落させたまま話を進めている。
 こんな仮説が成功すろとは考えられない。逆に。こうして無為に過ごす事は次の危機を待ち受けているかのようだ。
 
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個人

社会の仕組みだけでなく、社会を構成する【個人】も思いの他環境の変化に創造的に適応するのは難しいかもしれない。
60数億の人間が
 ものを考えたり行動する時、多くの場合それが自分の主体的な行為として自覚されるが
 社会的な情報によって、思考も行動も様式として社会化していることが多く、個人の思考や行動は意識するほど個人的(個性的)なものではないだろう。
 むしろ権力からは社会を構成する、色づけられた一つの駒に見えるかもしれない。色のつけ方は社会に委ねられてるようにも見える。
 社会化された自分と、唯一無二の個性を持った自分は渾然としていて分けられない。
 むしろ自分の選択した主体的な行動として意識されることが多いだろう。
 今日のように社会が構造的に機能しにくくなっている中、個人も抜け出すのは簡単ではない。
 しかし、社会は矛盾を、個人は体と意識のズレを増大させるから(長い目で見れば)自然に社会の機能は
 回復するだろうと思う。
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