大きな栗の木の下で‥

大きな栗の木下で (あなたと私 )‥と、続く。
 入学式などでよく歌われた歌だが(あなたと私)の所がどうして(私とあなた)
 ではなかったのか、今頃考えている。
 神と自分、仏と自分、自然と人間、他人と自分 ‥ 他人と挨拶する時<おはようございます>も相手への敬意の気持ちだろうし、手紙の(拝啓>も同様である。
 昔、年寄りが朝太陽に手を合わせて拝んでいたのも感謝の気持ちだろう。
 恐らくこれは世界中どこもおなじではないか。
 ところが国際関係では(日米・日中・日韓)のように自分の国が先になる。
 相手の国も同様に(米日・中日・韓日)と自分の国を優先した言葉を使う。
 報道機関のニュースは、言葉使いだけでなく取材、捉え方や論評自身が自国中心になっていることが多い。
 礼儀・礼節は身内を超えた、他のグループや組織、更に国境を超えた時、忘れていいものだろうか?
  礼儀礼節が他者を尊重するものだとすれば、立場や利害、国境を超えた時ほど
   必要ではないか。(ならず者、悪の枢軸)呼ばわりなど、事の次第とは別に
    指弾されて良い話で、これは言葉使いの話ではなく元々己のあり様が問われる。
   (親しき中にも礼儀あり)だから言わずもがなのはずなのに批判どころか批評の対象にすらならない。(善・悪の2元論だと言っていた人がいたが、御伽噺ではないから科学的な批評とは言えない。)
    

 

 
  

 

 
 
 
 


 

 
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