時には弱音

これだけのパンデミックを経験しても経済や政治には反省が見られないのは解り易いが
 芸術 文化 科学や学問 も宗教はさらに 後回しになりそうだ。
 自然との関係が問われているのだからこれらも例外ではないのだが

  商業主義の強さがそうさせている。
  歌も踊りも芝居もお笑いも絵画や小説などの文学もスポーツも 列挙したら切りがない どう変わって行くだろう。
 そう考えると なかなか道は遠く見えない。
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教育の見直し

パンデミックを期に各分野で振り返り新たに展望を切り開いたら良いと思うが
 基準は 地球規模の大自然との関係である。
  例えば教育
    世界の学校教育は全体知を育てるカリキュラムになっているだろうか?
    生体としての子どもに対し 生体の健康を損なうカリキュラムや仕組みは無かったろうか?
   子どもの成長の健康を損ねている実態を見たとき 誰が問題なしと言えよう。
   
    教育は論理を欠いた人体実験をしていないか。
   パンデミックの対応の拙さは全分野の論理を欠いた仮説実験の結果ではなかったのか。
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編集や番組の見直しを

新聞やテレビは この機会に編集や番組の見直しをしたらどうだろう?
 パンデミックが文明病のような様相を呈していることから
  どこに問題があったか どうしたら良いかを 各界各層がそれぞれの立場で
 掘り下げ それを取材し情報化する。
 持続可能な時代への転換期であることを考えたら 社会的な作業が必要になる。社会的な役割を担うのは 新聞やテレビの情報機関になる。
 今 そんな動きは ほとんど見られないが 少しずつ変わらざるを得ない。
 最近は報道機関に手持ち無沙汰や 暇つぶし 不真面目さすら を感じることが多い。
 
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自然知

断片的な知識ではなく 自然の 知識   経験 感覚が大切ではないか。
 
  パンデミックの対応を見ていて 世界は 特に日本は 教育の体系を転換する必要性を強く感じる。  
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