世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
見えない世界をさまよう
世界や日本のことを知りたくて情報を漁るが
真っ黒に黒塗りされた 教科書を読まされているようで 不明なことが多過ぎる。
これでは予想だにしていないことが突然起きてもおかしくない。
それともエライことが起きるのを待ち望んでいるのか。
そういうところで 皆 生きている。
官僚批判を批判する
官僚や公務員が 既得権益を手放そうといしない国益を損ねる元凶であるかのようによく言われるが 果たして本当にそうだろうか。
政治家やマスコミが政治や政策を論じる時、その根拠に官僚批判が語られる事がよくある。
日本の政治や行政は組織や人事的に官僚のトップを政治家である大臣が位置しており、王政が実質的に政治を官僚に委任しているような国家体制はとっていない。
現体制下では 政治家が官僚や公務員を批判するのは、上役が部下の悪口を言っているに等しく 己の責任を放棄し 部下に転嫁しているに等しい。
官僚批判のキャンペーン的な手法は 権力支配のバックから出て来たものか、権力の座に座る政府や与党の要人から発せられたものか、あるいは 前両者の要請でマスコミが仕立てたものか いずれその当たりに因を発しているに違いない。
この国の伝統的とも言える中央集権体制の強さや、現場における上意下達の不条理の経験から、下達の立場にある市民目線の批判は当然だが、上意に位置する立場からの官僚批判には違和感以上のものを感じる。
久しぶりに暗い気持ち
文科省は(学力テスト・愛国心強化・早期実用英語教育 ・パソコン)などに力を入れているようだ。
個々に取り上げればそれなりの有効性はあるのは当然だが、中央の行政府として最も大事なことは教育は基本法の1条にあるように 次代を担う子どもたちの人格形成がどうなるかである。
一人一人の人間を個体として見た時、(主体性の確立)無しに人格形成はあり得ない。
それでなくても、子どもたちは発達上の問題を抱え、世界や日本も社会的に行きづまり混乱している今日
何よりも子供や若者はアイデンティ(自己の役割)を自覚・確立する事が最優先ではないか?
一見、国家の即戦力になるような人材育成を目指しているようだが、それは今のような時代ではなく、社会も子供の教育も 軌道に乗り安定していることが条件だろう。
時代とチグハグな教育政策は国力を落し、子どもや若者の犠牲をさらに大きくする。
(それにしても、機密保護とは関係ないだろうが、教育行政は 既に膨大な数で出現している不登校・発達障害・いじめなどのデーターが揃っていない上開示を渋る傾向があまりに強い。 住んでいるこの市で経験しているところだが、久しぶりに行政の体質を感じている。マスコミは子どもや現状から遠い遠いところで、行政と一緒になって報じている。)
リーダーのいない世界
物事は世界的に動いているのに、未だかつて世界を単位としたリーダーは 一人も現れていないのではないだろうか?
例えば、超大国であるアメリカの大統領であっても、国を単位とした大統領であって、世界に圧倒的な影響力を持っていても それは世界益ではなく国益を優先する立場であって影響力を他に及ぼしているに過ぎない。
過去には湯川秀樹のような世界を1単位として捉えた世界連邦の提唱者はいたが、現在は世界に知られたその種の運動も運動家も見当たらない。
マンデラやガンジーのように世界的リーダーとして期待されそうな人物も,その立場には居なかった。
世界が行き詰まり混乱しているにも関わらず争いに明け暮れているが、世界を1単位として見る目もリーダもないままでは 人類の存否を脅かすようなよっぽど大きな災害でもないと、人類は世界を単位に考えて行動することが出来ないのかもしれない。
地球儀を傍に置いて繰り返し回して見ているが、のうてんきなはしゃぎは 世界のどこを見ても事欠かないが、誰もが安心して暮らせるところ等 1つとして見つからない…
両立しない競争と自由
自由と競争は両立するものだろうか。
勝者と敗者の出る競争社会でどうして自由に振る舞えるだろう?
組織であれ個人であれ 大事な多くのことを犠牲にしないで、設定されたレースに勝ち抜くことは出来ない。
競争社会=自由社会であるかのように言われているが 協力社会=自由社会 この方がすんなり落ちる。
例えば 市場の競争原理は競争の何倍もの協力体制が前提であり、今日のように国同士が国益を競って対立しているようでは環境破壊や原発事故に見られるように社会的恩恵より社会的リスクの方が大きくなり不自由を強いられる。
競争が意味を持つ限界は 土台の協力関係が壊れるかどうかにかかっている。
弱肉強食は競争の限度をはるかに超えている。 それが世界の現状か?
世論を無視しているのは誰か?
東京新聞 12・10朝刊はⅠ面トップで
秘密法に対して世論調査の結果、内閣の支持率が急落したことを伝え、
副見出しで【安倍政権の世論無視のツケ】 と断じた。
私なら 衆院を通過した段階で【マスコミと文化人による世論無視のツケ】をⅠ面トップの見出しにする。
(東京新聞を責めるような言い方で申し訳ないが) 東京新聞が本気で秘密法に危機感を抱いていたなら、他のマスコミや文化人を喚起すべくもっと早く警鐘を鳴らすべきではなかったか。 結果論とは言えこれでは後の祭りで、アリバイ作りと解されても仕方ない。
今回のようなマスコミや文化人・学識経験者の権力を軸にした動きは今回が特別ではなく、従来からの常道ではなかったか。
影響力のほとんどを占める他紙やテレビからすると はるかに東京新聞の良心を感じるが、だから良いとは言えないし、同じパターンを繰り返してほしくない。
政治家やジャーナリストは【民意】の本当の意味が分かっていないと思う。
外しにくい既成概念
昨日病院で順番待ちして新聞に目を通していた、普段はたいして興味の無い詩歌しのページを退屈まぎれに読んでいた。
その中に寄稿して選ばれた俳句が並んであった。日頃周囲の自然の異変を気にしていることもあってその辺を意識して読んでいた。 ところがどの句からもそれらしいものが見当たらない。 詩歌の勉強もしていないからそれで良いのかもしれないが、自分は意外で驚きだった。
現状を見ない政治や周囲の変化に反応しないマスコミやマスコミによって情報化されないものは市井の話題にっもならない庶民の現実に不安を持っているせいもあってか つい「この世界もか」と念を押された感じになった。
伝統的な(花鳥風月は美しい)の既成概念に囚われてるているとしたら、他の分野も同様か?
効き過ぎる薬
機密保護法の行く方は 政府とメディアの駆け引きに移された感じだ。
メディアは さっそく世論調査をして政府の支持率の低下を宣伝しているが キャンペーンの世論調査への効果を示したに過ぎない。
政局から見ると、政府と一体化してやって来たキャンペーンの効き過ぎに 不都合が生じて、微調整した程度のことだろう。
政府、ンディア、文化人、国民 全ての立場の人が 立ち止まって振り返り 自らの在り方を含め世界や日本の現状を見直すべき時ではないか。
とにかく マスコミがやるキャンペーンは 抗生物質のように効き過ぎることがよくあるから、取り扱いには くれぐれも要注意!
マンデラ氏への尊敬は 言葉だけでなく
マンデラ元大統領のことはあまり知らないが、死去にあたりイギリスの王家までもが葬儀に参列するらしい。
敵・味方の壁を越えた大きな理念とその行動が 世界的に尊敬を集めているようだ。
南アフリカの人々が 涙を流さず明るく踊り振る舞う姿は感動的で本当に清々しい。
各国代表者からの弔辞や葬儀への参加など国家の利害や立場を超えた国々リーダーたちが、外交の儀礼に終わらせることなく、道半ばの彼の遺志を継いで弱肉強食で
混乱しているの世界を何とかしてほしい と願わずにはいられない。
思いっきり(千の風)になりたい
「世界」 子供の頃から聞き慣れた言葉なはずなのに、自分が使うとどこかおこがましく気恥ずかしい感じになる。 どうしてだろう?
確か、小学校の卒業文集で 「将来の夢」を1行残すように言われて書いた時、本当はアマゾン川の冒険に行きたいと思っていたのだが、外国へ行くこと自身が夢の夢だったから、ホラ吹きに思われても嫌だから、「日本中を旅行したい。」と書いた。 だからあの頃から「世界」は現実性の無い大きすぎる存在だったのかもしれないが、未だに引きずっているとは意外だった。
おそらくこれまで得てきた知識や情報が世界を語れるほど広がっていなかったからだろうと思う。
物事がグローバルに関わってきているこの時代、このすき間を早く埋めないと、この島の市民であっても地球市民には成れないから、(千の風)になってもあんまり遠くへ行けないかもしれない。
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