浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

多忙のなかの読書

2013-02-10 21:13:48 | 日記
 ここ数日個人的なことで忙しくなっている。読書の量も減っている。とはいえ少しの時間を探して、奥田英朗の『最悪』を読んでいるのだが、なかなか暗い話で、時々ハアーといいながら、中断しながら読んでいる。

 奥田の小説は、複数の人物を登場させ、彼らがみずからの生を生きていく中で相互に交錯していく、そういう方法をとる。今まで読んだ本がすべてそういう方法だ。

 しかしこの『最悪』は、読んでいくのがつらい。なぜなら、話の展開は、それぞれの登場人物がおしなべて坂道を転げ落ちるようになっているからだ。

 下請け企業の経営者、女子銀行員、底辺に生きる若者が、音を立てながら崩れていく。著者は、それぞれの生きる「場」の状況をよく調べている。もちろんフィクションではあるが、彼らが生きる「場」は、現実に存在する状況だ。

 おそらくいろいろ調べて書いているのだろうが、なかなかの作家であることがよくわかる。

 

 ◎畑に行ったら、ほうれん草の葉が部分的に黄色になっているところがあった。カルシウム欠乏だという。苦土石灰をまいてきた。雨でも降ってくれればよいのだが・・・。

 ◎浜松市が刊行した『天浜線と沿線の近代化遺産』を入手した。読んでみた。天竜浜名湖線は、もと国鉄二俣線である(これについては『豊岡村史』で書いたことがある)。乗ったことはいちどもない。地域の重要な足であるが、赤字経営で存続が危ぶまれている。存続させるためには、地域の住民が利用することが大切だと思い、近日中に乗りに行くこととする。

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【本】中山智香子『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』(平凡社新書)

2013-02-09 14:23:24 | 日記
 しばらく村上春樹と離れている。昨日やっと『うずまき鳥・・・』を図書館から借りた。上下二巻の大作。

 さてその前に、購入した本も読まなければならない。『経済ジェノサイド』、ジェノサイドとは大量殺戮である。なるほどいいネーミングである。なぜか。ミルトン・フリードマンが率いるシカゴ学派の経済学者は、みごとに世界各地で殺戮を行った。もちろん彼らが直接手を下したのではない。富裕者の利益を擁護しそれを正当化することを「理論化」したフリードマンらの「理論」を背景に、富裕者のエージェントたちが行ったのだ。しかし、フリードマンらも同罪だ。

 もうそろそろフリードマンらの経済学には退場してもらわなければならない。だいたいにして、エリザベス女王からリーマンショックについて「経済学者は何をしているのです?」という問いに、経済学者らは答られなかったのだから。経済学者は、富裕者のための「理論」を構築し、そこから過大なおこぼれをもらい、経済的利得を得ることに熱心なのだ。

 経済学部が不人気だと言うが、それは当然だ。残念ながら「「経済」は、人間にとって何かかけがえのないものを切り捨てる口実となってしま」(13)ったからであるし、「現行の経済学は統治者目線を学ぶためのツール(道具)であるという、いわば「ゲーム」自体の仕組みが明かされないままで、ルールの解説だけが行われるからである」(284)。経済学部では、富裕者や企業の最大限利益追求の「理論」を学ばされるのである。

 「フリードマンの経済学が決して中立的・科学的な経済学ではなく、ブルジョワジーの、とりわけ富裕な少数のブルジョワジーの利益を代表する経済学である」(52)

 その経済学が、アメリカを支配し、日本やヨーロッパ諸国にも波及し、一方で少数の富裕者に天文学的な利益をもたらしながら、他方で大量の貧困や飢餓をつくりだしているのだ。フリードマンの経済学は、ジェノサイド経済学なのだ。

 ボクが驚いたのは、変動相場制を主張していたのがフリードマンであったこと(157~)、そして労働者に不労所得を得させることによって「労働者」を変質させたこと(237)、年金制度を変えたこと(244~)などである。

 フリードマンの経済学を、富裕者たちが後押しして、メディアや大学などで市民権を得させて・・・というように、意識的にその経済学は普及させられてきた。

 その結果が、いまボクたちが目の前で起きている事態だ。

 「ここ40年ほどのあいだに興隆し普及した新自由主義的な潮流を根本的に見直す時期が来ている。さらにいえば、これを根本的に再考するためには、その前段階であったブレトンウッズ体制にまで立ち戻る必要がある」(268)という、著者の意見に賛成である。

 新自由主義経済学のルーツと、その側面を知らせてくれる本として、この本は貴重である。




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【本】宮地尚子『トラウマ』(岩波新書)

2013-02-08 22:08:44 | 日記
 この本は読もうかやめようかと考えた。現物を見てから考えようと書店に行った。

 宮地尚子という名は、知っていた。以前どこかの大学入試問題に宮地の論文の一部が載せられていて、それを読んで論ずるというものであったが、その文が難解で、どうしてこうわかりにくい文を書くのかと思った。

 店頭で見て、これは読もうと思った。「トラウマ」とか「PTSD」ということばは知っていても、それについて詳しい文献を読んだことがなかった。現代社会に生きる者として、まあ常識(教養)として知っておかなければならないと思ったからだ。

 ということは、学生諸氏も読んでおいたほうがよい、という本である。

 「トラウマ」とは何か、から始まって、「トラウマ」をもって生きている人の状況、「トラウマ」をもって生きている人にどう対処するか、どう治療するか、そしてDV、性暴力、加害者となることができる背景など、具体的なことを理論的にわかりやすく説明している。

 DV家庭に育つと、「力の強い者が弱い者を支配するのは当然」、「力で押さえつければ、相手は思い通りになるものだ」という価値観や人間観を植え付けられ、将来の加害者や被害者にもなりかねません。(127~8)

 これは経験的に知っていることでもあるが、DVは当事者だけではなく、それが子どもたちに伝えられていくということだ。

 また「女性の100人に一人が中学校に上がるまでに、レイプ被害に遭っている」(131)という記述には驚く。

 「加害」を実行するために、またその後に自分の心が傷つかないようにするためには、正当化が必要だと言うことです。また、正当化の理由があれば、人は簡単に暴力行為を容認したり、それを望ましいとみなすこと、命令と実行の分離が「加害」を容易にすることなどが、近年の研究からわかってきています。(181)

 この記述に続いて、どういうことが「正当化の理由」となるかを具体的にあげているが、上下(タテ)関係が基軸となっていることがわかる。そして「人は権威や命令には従順である」(191)という指摘にも、納得できる。

 「加害」が「トラウマ」をつくりだすのだから、「正当化の理由」をどう崩していくかが重要ではないかと思う。

 この本を読んで、引用・参考にされた文献、巻末にあげられている文献のいくつかを読みたくなった。

 「トラウマ」は、これからもあちこちで論じられるから、この本は買っておいたほうが良いと思う。



 
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「寄らば大樹の陰」

2013-02-08 09:03:45 | 日記
 今日の「中日春秋」。『中日新聞』のコラムである。

福島第一原発の周辺で、イノブタが急増しているらしい。野生のイノシシと家畜のブタの交配が進んでいるのでは、というのが地元の獣医師たちの見立てという

▼イノブタはイノシシに比べ、繁殖力が四、五倍も強いそうだ。増え続ければ、田畑が荒らされる。福島県が実態調査に乗り出そうとしているが、捕獲にあたる猟友会員の多くも避難してしまっていて、調べたくとも調べられない

▼「嘘(うそ)が嘘を生む」と古代ローマ人が言ったように、嘘も増殖する。一つの嘘を守るために別の嘘を…ときりがない。どうやら東電の嘘の繁殖力は、イノブタ並みらしい

▼「あんな大津波は想定外」と言っていたが、実のところ大津波対策の必要性は分かっていた。東電は、国会の事故調査委員会にも嘘をついていたという。第一原発内部を調べようとした事故調に「真っ暗で危険」と説明していたが、実は薄明るく照明器具もあった

▼事故調が調べようとしていたのは、非常用の冷却装置が東電の主張とは違い、地震で壊れたのではないか、という疑問だ。事故を検証して、教訓を得る機会が潰(つぶ)された。既に虚構と化した「原発安全神話」を生き永らえさせるための嘘が、増殖し続けているのだろう

▼東電は今年「福島復興本社」を発足させた。だが、まず復興すべきは、自らの信用なのだということが、どこまで分かっているのか。


 なぜ東電はこういうウソをついても平気なのだろうか。確かに下の記事(『東京新聞』配信)のように、国会や国民を愚弄している。これは確かだ。

虚偽説明 「東電、国会を愚弄」 国会事故調元委員指摘
2013年2月8日 朝刊

東電から虚偽の説明を受けたと指摘する田中三彦氏=7日、衆議院第二議員会館で


 東京電力が昨年二月、福島第一原発1号機の建屋内を調べようとした国会事故調査委員会に「(建屋内は)真っ暗で危険」などと虚偽の説明をして調査を断念させた問題で、事故調の委員を務めた元原子炉設計技術者の田中三彦氏が七日、東京都内で記者会見した。

 国会事故調は当時、1号機に設置されている非常用冷却装置(IC)が地震で壊れた可能性に着目していた。田中氏は「ICが地震で壊れたと分かれば、原発の耐震基準に影響が出る。それも考えると、調査されたくなかったとしか思えない」と東電を批判した。

 田中氏によると、昨年二月二十八日夜、東電の玉井俊光企画部長(当時)と、調査の打ち合わせで面会。玉井氏が、薄明るい建屋内の映像を見せる一方で「今はカバーを掛けたのでパニックを起こすほど真っ暗」と暗さを強調したため、調査を断念したという。

 しかし、その後に公開された映像などから、建屋内はある程度明るく、玉井氏が見せた映像はカバー設置後に撮影されたものだったことも分かった。

 田中氏は、あらためて建屋内の調査を求める申し入れ書を衆参両院議長あてに送付。「国会が愚弄(ぐろう)された気持ちを共有し、動いてほしい」と話した。

 東電広報部は、撮影日を誤って伝えたことは認めたが「単なる思い違い。だます意図はなく、現場が危険な状況だったのは間違いない」と説明している。


 だが、こういう姿は、いつも見られる風景ではないか。

 悪い奴らは、権力に寄りかかることで、ウソも平気なのだ。別に国会や国民のことを考えているのではない。たとえば東電は、自分自身や政治家や官僚、学者が利権をむさぼるために発電しているのだ。日本原電に公表前の資料をそっと渡した官僚(原子力規制庁幹部・名雪哲夫)も、別に国民のために仕事をしているのではなく、自分自身と電力会社、出身官庁のために生きているのだ。名雪は、まさに権力の中枢だ。

 彼らは、何の痛痒も感じないだろう。悪い奴らも権力の中枢にいるのも、同じ穴の狢。こういう者たちによって日本は動かされている。それでも、国民の多くは気にしない。『オリンピックの身代金』で、奥田が記していたとおりだ。

「この国のプロレタリアートは、歴史上ずっと支配層に楯突くということをしてこなかった。我慢することに慣れきっているので、人権という概念すら持っていない。無理をしてでも先進国を装いたい国側にとっては、願ってもない羊たちだろう」(230頁)

 


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フクシマ・警戒区域の現状

2013-02-08 08:54:04 | 日記
 一人の医師が、警戒区域を訪れ、その現状を報告している。

http://ameblo.jp/yamayurifarm/entry-11465543924.html
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変わる、変わらない

2013-02-07 22:50:06 | 日記
 大学を卒業してから、一度だけその大学を訪れた。歴史編纂事業の一環で、米国から返還された内務省資料のマイクロフィルムを撮影に行ったのだ。その時は、まだ大学はボクがいた頃とあまり変わっていなかった。

 一昨日、大学の近くのホテルに泊まった。大学は大きく変わっていた。ボクが卒業した法学部の建物、8号館はまったく新しくなっていた。そして、中庭の植え込みの周辺には、木製のベンチがあったのだが、それはひとつもなかった。

 そしてもうひとつ、立て看板がなかった。これは、しばしば訪れていた静岡大学、あるいは大原社会問題研究所がある法政大学でも同様だから、別に違和感は感じなかったが、大学の非政治化は、おそらく日本の民主主義を大きく規定しているだろうと思った。

 よく行った喫茶店は、韓国料理店になっていた。無残な姿を見せていた第2学生会館は新しい建物になっていた。

 それから、高田馬場から大学までの道筋には、たくさんの古本屋があったが、減っていた。社会科学系の本がたくさんあった文献堂書店は見当たらなかった。谷書房の建物は、他の古書店と一緒になって新しくなっていた。

 大学は残っているけれど、大学それ自体は大きく変わったようだ。

 ボクが青春を過ごした大学で、まったく別の青春が刻まれているのだろう。

 ボクの学生時代は、政治と学問と読書、そして美術の展覧会通いと演劇鑑賞に彩られていた。その頃に確立した志は、今もボクを規定している。

 大学は変わったけれども、ボクはあんまり変わっていない。ただ歳をとっただけだ。
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国鉄労働者の強いられた闘い

2013-02-07 11:14:27 | 日記
 今日、国鉄労働組合静岡地方本部からお礼状と、『国労文化』という雑誌、そして切符を模した「闘争団発足から国鉄闘争解決ゆき」(国労静岡闘争団野田紀泰発行)が送られてきた。

 お礼状には、国鉄闘争支援へのお礼がしたためられていたが、ボクは「本当にご苦労様、支援されたのは ボクたちですよ」と言いたくなった。

 今、労働者が労働者としての権利が保障されず、権利が侵害されても広汎な支援がなされなくなっている。埼玉県や愛知県などで、3月に退職すると退職金が150万円も下げられるという政策が行われ、断腸の思いで中途退職していく先生方がいる。学校は、言うまでもなく年度制をとっている。3月までが一区切りだ。しかし、3月まで働くと退職金が大幅に切り下げられる。何という仕打ちだろう。長年働いてきた教員=労働者に、「お前はどうする」と、恫喝しているようなものだ。しかし、労働組合は、このような理不尽な政策に抵抗することはなかった。支配しやすい国だ、日本は。理不尽な政策が、抵抗もなく通過する。

 労働組合の力が強ければ、こんなことは起きなかっただろう。ヨーロッパのように、労働者の人権が確保されているところでは、決してこんなことはなされなかっただろう。

 労働組合といえば「連合」という全国組織があるが、あれは組合のようでいてそうではない。ある意味で「御用組合」(経営者の御用を聞く組合)の集まりだ。ブラック企業により、労働者がひどい目に遭わされても、「連合」はなんら救済の手をさしのべない。労働組合とは、労働者が企業や仕事の内容をこえて、助け合いながら、労働者の権利を守り発展させていくものだ。

 「むかし」、労働者の権利拡張を担う組合があった。しかし権力(その中枢には経団連=大企業の経営者たちが居座る)は、そういった組合をつぶそうと図った。そういう組合が各個撃破されてなくなっていった。

 その中核に、自分たちの権利だけではなく、すべての労働者の権利を守ろうと頑張ってきた国鉄労働組合があった。

 だから権力は、国鉄労働組合を潰すことを計画した。1980年代、中曽根康弘首相は、国鉄の分割民営化を打ち出した。国鉄を分割して、民営化するというのだ。かくして国鉄(日本国有鉄道)はJR各社へと分割民営化された。国民の財産が、JR各社の株式を持つ人びとの所有へと変わった。国民の財産が奪われ、株主に分割されたわけだ。

 当然JR各社には、国鉄時代の労働者が採用されなければならなかった。ところが、国鉄の分割民営化策は国鉄労働組合(国労)の破壊を企図していたから、国労の組合員を採用しなかった。当時の中曽根首相は口では「組合差別はしない。ひとりも路頭に迷わせない」と言っていたが、まったくの大嘘であった。国労組合員をJRに採用しないで、路頭に迷わせたのだ。労働組合法が禁じる不当労働行為である。それを国家が率先して行ったのだ。

 このような理不尽に国労の労働者は抵抗した。ボクも、この理不尽に怒りを覚え、積極的に支援した。しかし20年以上の闘いを経ても、この問題は解決しなかった。国労をつぶすための分割民営化であるから、国労の組合員は差別され続けたのだ。

 国労組合員は粘り強く闘った。しかし生きていくためには収入を得る必要があった。安く物を入手して支援者に買ってもらう「物販」、あるいは小さな会社をつくってわずかな収入を得るなど。もちろんきちんとした収入が入るわけではなかった。貧しさに耐えながら、闘い続けた。その間に、亡くなった人もいる。今その年齢を少し書き上げると、38、53、48、43、46、45、36、55、38、38、48、52、45、62、58、52、59、41、56、50、47、45、55、56、59、59、49、65・・・・・・・・・である。若くして亡くなった人が多い。

 闘い続けてJRに採用されるだろうか、少しの収入で老後はどうなるだろうかなど、不安がいっぱいだった。それでも、不安定な生活のなかで、団結して(ああ、いまこのことばは、ほとんど聞かれなくなった!)闘い続けた。

 結局、この闘いは、和解金を1047人に国が支払うことで、終結をむかえた。2010年のことだ。23年間の苦しい闘いが終わった。解決案には、国はJRへの雇用に努力するという項目があったが、JR各社はひとりも採用しなかった。

 この23年間は、労働者の権利が踏みにじられる歴史でもあった。立場の弱い労働者は、ひとりひとり、経営者のまえに立たされるようになった。パワハラや不当解雇、製造業への非正規労働者の派遣が当たり前になった。企業が必要がなくなれば労働者はポイとすてられる時代へと変わった。

 経営者にとって支配しやすくなったにもかかわらず、企業は低賃金を求めて海外のさらに貧しい国へと出て行った。

 資本は、みずからをより増殖させてくれるところを求める。労働者の権利を認めれば増殖の邪魔となる。19世紀、20世紀は、傍若無人な資本に対して、少しずつ統制(規制)を加えてきた歴史でもある。しかし20世紀の終わり頃、その統制(規制)が消され、資本が自由に動き回ることができるような「新自由主義」の時代へと転換した。国労潰しは、資本にとっての橋頭堡だった。

 国労の皆さんの長年にわたる苦しい闘いに感謝し、こころから連帯の意を表したい。
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日本のメディアのノーテンキ度

2013-02-07 10:05:26 | 日記
 メディアに関するすばらしい記事があった。紹介する。

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-4099.html

 日本のメディアは、権力の翼賛機関になりはてていると、ボクは何度も書いているから、こういう指摘には全く驚きもしないが、「国境なき記者団」の指摘を、自己反省もなく平然と報じるNHKという「報道機関」(?政府の広報部だ!!)の質にあきれるしかない。
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ウソはばれる

2013-02-07 09:59:01 | 日記
 今日の『朝日』に「東電、国会事故調にウソ 「原発内真っ暗」→調査断念」という記事があった。
http://www.asahi.com/national/update/0207/TKY201302060574.html

 東京電力という会社が、みずから過酷事故を引き起こしながら、誰も責任を負わず、被害を与えた住民などへの賠償を国から引き出し、原因究明にも、このようにウソまでつく。

 こういう会社は、解体すべきではないかと思う。

 残念ながら、原子力ムラには、多くの政治家や官僚がたかる、彼らにとっては蜜のような存在だから、よほど国民が怒らないと変わることはないだろうが、しかし国民は怒らず、原子力ムラを育成してきた自民党を勝たせるのだから、処置無しである。

 彼らはやりたい放題だ。そうさせないためには、国民が監視を強め、怒るしかない。

 これについての詳細な報告は、以下をご覧頂きたい。

http://www.shomin-law.com/essayTepcotheliar.html
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慎重に

2013-02-06 08:24:26 | 日記
 尖閣問題がきっかけになって武力衝突が起きかねない事態だ。このように、尖閣問題を大きな問題にした石原前都知事の責任はとても大きいが、それはそれとして追及しながらも、武力衝突が起きないように、日中の軍事関係者の自重を望まざるを得ない。

 いったん武力衝突が起きてしまうと、日中の庶民に対外的な敵愾心が湧き上がる危険性がある。戦争は、指導者の責任ではあるが、指導者の動きを庶民の敵愾心が支え、鼓舞するという図式ができあがることは、過去の歴史が証明している。

 庶民は、戦争への動きに無縁ではない。だからこそ、指導者は慎重でなければならない。

 以下は『東京新聞』の記事。


中国艦がレーダー照射 先月 東シナ海、海自護衛艦に
2013年2月6日 朝刊

 政府は五日、中国海軍の艦艇が一月三十日、東シナ海の公海上で三キロ離れた場所を航行中の海上自衛隊の護衛艦に、ミサイルや砲弾を発射するため狙いを定める射撃管制用レーダーを照射したと発表した。一月十九日にも海自護衛艦搭載のヘリコプターに対し、同様の行為を疑わせる事案が発生した。政府は五日、外交ルートを通じて中国側に抗議した。 

 小野寺五典防衛相は同日、防衛省内で記者団に「(通常の位置探索などと異なる)射撃用レーダーを発出するのは極めて特異な事例で、一歩間違えると大変危険な状況に陥る。厳しく中国側に自制を求めていく」と述べた。発表まで一週間かかった理由は「正確な分析に時間がかかった」と述べた。

 同省によると、一月三十日午前十時ごろ、東シナ海を航行中の海自の護衛艦「ゆうだち」(佐世保基地所属)が、三キロ離れた場所にいた中国海軍のフリゲート艦から、射撃管制用レーダーを数分間、照射された。防衛省関係者によると、照射された場所は中国が領有権を主張する沖縄・尖閣諸島から北東へ百キロ以上離れた海域だという。

 また、一月十九日午後五時ごろ、東シナ海上空を飛行していた護衛艦「おおなみ」(横須賀基地所属)搭載のヘリコプターに対し、中国海軍のフリゲート艦から射撃管制用レーダーの照射とみられる行為があった。防衛省は「照射された疑いが高い」としている。

 安倍晋三首相は五日、官邸で小野寺五典防衛相と会った際に、中国側の射撃用レーダー照射について「挑発に乗ってはいけない。冷静に対処することが大事だ」と指示した。

<射撃管制用レーダー> 速射砲やミサイルを発射するため、目標に電波を照射して距離、方位を精密に測定するレーダー。護衛艦は艦首と艦尾に2個搭載しており、それぞれ前方と後方に照射する。他国の艦艇も同様とみられる。戦闘機も機首に搭載している。
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小論文を書く

2013-02-05 16:16:37 | 日記
 小論文を書かなければならなくなったときのことを少し書いておく。

 テーマを与えられたら、そのテーマに関する知識(情報)をきちんと集めることが肝要だ。それなしに、与えられたテーマについて書くことは出来ない。

 文を書くということは、今までに集積された知を総動員するということでもある。しかしその知は、漠然としたものが多い。ただ漠然としていても、当該テーマについて、どういうことが問題とされているのかは、案外掴みやすい。もちろん社会の動きを、関心を持って見つめていたときにのみ、それは言えることだ。無関心に生きていれば、テーマを与えられても、何を書いてよいかわからないだろう。だから、できるだけ社会の動きを見つめるために、たとえば『世界』や『現代思想』などの雑誌に目を通しておこう。
 
 社会的な関心を持って、いろいろな文献や資料、新聞などを読むのであるが、「これは!」と思った内容については、手元に置いておくようにしよう。文献そのものを置いておくためには、その文献を入手しなければならない。カネがあれば購入すればよいが、ない場合は、「これは!」と思ったところをコピーしておけばよい。ただしコピーや新聞の切り抜き、資料などはきちんと整理しておかないと、使うべき時にみつからないことがある。100円ショップにいけば、書類整理用のプラスチックケースがあるから、それに表題をつけて整理しておくのだ。

 文献や資料を読んで、すべてを頭に入れておくことは不可能なので、重要な部分については手元に置いておき、必要になったときに取り出して、確認しながら利用したり、引用したりすればよい。

 論文を書く時には、手元に関連する資料がないとなかなか書けないものだ。知というものは、頭の中に入れておくことだけではなく、手元にいつでも使える資料として置いておくことも考えるべきである。

 ボクは、文献やコピー、新聞の切り抜きなど、関連資料を問題ごとにまとめて置いてある(プラスチックケースの場合もあれば、紙袋にまとめて入れたりしている)。何らかのテーマに関して書かなければならなくなったときには、それらを取り出し、もう一度読んだり(といっても熟読することはない。さらっと見るのだ)して、それで書いていくのである。

 何を書かなければならないかは、その都度変わる(時代状況の変化や問題意識の変化などによる)が、資料が手元にないままに書くことはとても難しい。文学作品は思いついたことを書けばいいのだが、小論文はそうはいかない。客観的な事実を踏まえて書いていくのであるから、いい加減なことは書けないのだ。

 何を伝えたいかを基本に、説得力ある文にするためには、どうしたらよいかを考えてほしいと思う。



 文を書く時には、いい加減な材料を用いるわけにはいかない。
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品川駅で

2013-02-05 15:59:42 | 日記
 今日明日は、東京にいる。本当は車で行くつもりであったが、明日東京は大雪だという。関東に住む親族から、車はやめたほうがよいと言われたので、新幹線にした。

 品川駅のコーヒーショップで軽食をとりながら、品川駅構内を歩く人を見ていた。今の時刻、浜松駅周辺だったら、老人ばかりだろう。老人、すなわち多くは年金生活者だ。

 しかし品川は、若い人をはじめ、働き盛りの人びとが早足で行き来していた。この人たちの中には、地方で生まれ育ち、東京で働いている人が多いのだろう。もちろん、彼らは納税者だ。都民税をたくさん納めているだろう。

 また日本の会社法人も東京に本社を持つ。法人住民税などもたくさん集まることだろう。

 となると、東京だけにカネが集まってくる。

 他方、地方はカネが集まらない。地方で育った子どもたちは大都市に集中し、大都市で税を納める。会社法人は、地方都市でもうけてそのカネの一部を大都市に納める。

 かくして地方のカネは、大都市に集められる。大都市は繁栄し、地方は疲弊していく。

 そういうことを重いながら、雑踏を眺めていた。

 すると、浜松市の「限界集落」調査の日程が決まったという連絡が来た。

 地方に住むということは、地方に生じる問題群と対面することでもある。それは地方切り捨て政策と闘うことでもあるが、しかしその前途はきわめて暗い。

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白隠

2013-02-04 22:09:21 | 日記
 東京渋谷の東急文化村で、「白隠展」が行われている。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_hakuin/index.html

 白隠については、『芸術新潮』1月号も特集している。そのリードには、こうある。

 「想像してごらん、天国なんてない、地獄もない、上には空があるだけ」「想像してごらん、何も所有しない、と」ーージョン・レノンの「イマジン」の歌詞には、禅思想の影響があきらかに読みとれる。それだけではない。「イマジン」のヴィデオには、ジョンが歌う居間の壁に掛かる白隠の達磨図が、はっきり写っているのだ。

 そのヴィデオは発見できなかったけれど、白隠の思想や禅画は、とても有名だ。

 白隠は、現在の静岡県沼津市原に生まれた。富士山がキレイに見えるところだ。そしてそこにある松蔭寺の住職となった。

 ボクは昨年、なんども松蔭寺の北側の旧東海道を通って、沼津の法律事務所に通っていた(旧知の弁護士から援助を求められたからだ)。

 いつかは松蔭寺を訪れようと思ったが、時間の関係で今も訪問していない。

 白隠は、魅力的な坊さんだ。中公新書の『白隠ー禅画の世界』も読んだ。

 東京近辺に住む方々は、Bunkamuraに行ってみよう。
 
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丸刈りということ

2013-02-04 14:36:33 | 日記
 ボクはテレビを見ないので、芸能情報には疎い。ほかのブログを見ていたら、AKBのメンバーが丸刈りになったという。男性と交際したことについて謝罪の意を表するために丸刈りになったようだ。

 なんとあほらしいと思った。男性と交際したことについて、なぜ謝罪しなければならないのか。個人的なことだし、別に既婚者でもないようだ。反倫理的、非倫理的なことをしたわけでもない。なのに謝罪?

 AKBというのは、恋愛禁止だそうだ。そういう規則をもつ組織だとするなら、当然AKBの幹部諸氏も、同じような統制に服している!?

 まあそんなことはない。おそらく若いAKBのメンバーだけに強いられた規則だろう。何のためか。もちろん彼女たちの商品価値をあげるためだ。商品価値をあげるために、非人間的な規則を強制する。これっておかしい!!

 そのグループのメンバーが丸坊主?これもおかしい。

 丸坊主は自主的に行われたのかどうかは知らないが、丸坊主は「何ものかに隷属することを示す」ために行われるものだ。まさに僧(坊主)は、仏に帰依することを示しているわけだ。あとは囚人。これも刑務所内にいる間、恭順を示すために行われる。

 昔、中学校でも丸刈りが強制されていた。これなんかは、教師への従属を求めたものだろう。

 さて女性の丸刈りは、もっといろいろな意味がある。その論文があるので紹介する。

 この問題は、日本社会の矛盾を示す一つの例となる。ぜひ考えてほしい。

http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_8_Hirase.pdf 
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踊り場の窓は消された 【本】奥田英朗『オリンピックの身代金』(角川書店)

2013-02-04 00:55:43 | 日記
 この世は理不尽なことに満たされている。安倍政権は、孫への教育資金の贈与には税金をかけないという。1500万円まで無税だ。孫に多額の教育資金を提供できる階層は限られる。市井の人びとにはいっさいの恩恵はない。

 今後、収入は減らされ、消費税は10%となり、年金や生活保護費は減らされていく。市井の人びとは、より生きにくくなる。

 だが、この理不尽な政策は、支配層にとっては理不尽ではない。市井の人びとと、支配層とは利害が一致しない。だが、支配層の利害が、常に貫徹する。

 そして市井の人びとの最下層の人びとは、支配層の野望を底辺で支えながら、とにかく生をつなぐ。だが、生をつなぐその姿さえ、必要がなくなったら見えなくなる。いや消されていくといったほうが良いのかもしれない。

 秋田の寒村の、そのまた最下層出身の東京大学経済学部の大学院生が、オリンピックを人質にして、権力と対峙する。その対峙は、ダイナマイトによる爆破事件によって顕わとなる。そして闘って、闘って、闘い抜く。だが、最後には銃で撃たれて消えていく。死んだのかどうかもわからない、いずれにしても権力によって存在が消されてしまう。あたかも、東京オリンピックの施設建設に動員された寒村出身の出稼ぎ労働者が、施設完成と共にどこかに消えていくように・・・・。

 主人公島崎国男は、マルクス経済学を研究していた。島崎は、実兄が出稼ぎ労働者としてオリンピック関係工事に従事していて、死ぬ。その死を契機に、国男は兄と同じ労働に従事する。そして、そこで働く人びとの実態を知る。
 
 「弱者からとことん搾取するのが資本主義」(122頁)ということばがあった。その通り。強者は、強者から搾取収奪はしない。その対象は常に弱者だ。国境や性別や、思想信条なんか関係ない。弱者はとにかく、その対象でしかない。

 島崎は学問的に研究している内容を、実地にみる。

 指導教官にこういう手紙を送った。

 「もしもマルクスがこの場にいたら、低賃金で将来の保証もない状態にも拘わらず、立ち上がろうとしない無抵抗な労働者の姿に、悩んでしまうかもしれません」(199頁)と。

 しかし島崎は最後に知るのだ。

 ある出稼ぎ労働者がこう言う。

 「それから、おめ、アカなんだってな。おめは東大行くぐらい頭さいいんだがら、世の中を変えてけれ。おらたち日雇い人夫が人柱にされない社会にしてけれ」(466頁)

 島崎はそれを聞いて思う。

 「以前マルクスを引き合いに出し、苛烈な搾取構造の中でも屈託のない飯場の労働者について、不思議でならないとの感想を自分は抱いた。しかしそれは過ちだった。彼らはちゃんと現状を認識している。闘う術を知らないだけなんだ」(467頁)と。

 島崎は、自らの闘い方としてテロを企画した。テロという闘い方を、ボクは全面的に否定はしないが、しかしこの小説のような状況の中で選んだテロという闘いは間違いだ。

 島崎は、研究者として、この社会の仕組みや、出稼ぎ労働者を切り捨てていく構造について研究し、そのような仕組みや構造を変革していく道もあり得たのではないか。

 島崎はテロを企画し、テロ事件を起こし、そして消されていった。

 島崎は、みずからの力を、もっと生かせる生き方を選ぶべきであった。

 この小説を書いた奥田英朗の、問題意識はボクと共通するものがあると思った。村上作品と並行して、奥田の小説も読み進もう。
 
 『オリンピックの身代金』では、最終的に踊り場の窓は消されてしまったが、ほかの小説ではきちんと確保しておいてほしいと思いつつ。

 しかしあまりに長編!!


 
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