浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

図書館に行った

2013-02-19 16:13:42 | 日記
 最近図書館をよく利用する。収入の道が途絶えたために、できるかぎり図書館にある本は買わずに済まそうというケチな魂胆からだ。とはいっても、決して買わないわけではない。

 一昨日は谷久光『朝日新聞の危機と「調査報道」』(同時代社)がきた。「朝日新聞」とは小泉内閣の時におさらば(つまり購読をやめて、『中日新聞』にかえた)したので、「朝日新聞」が「危機」になってもどうでもよいのだが、しかしおそらく谷氏は「朝日新聞」をはじめとした新聞業界の「危機」について、「朝日新聞」を例にして論じているのだろうという好意的解釈で購入したのだ。

 今日は、宇野常寛編集の『PLANETS』8がきた。先日書いたように、ボクの視野を広げるためだ。批評家としての宇野の主張を読んでみようという気持ちからだ。今日図書館から借りてきた本も、宇野の『リトル・ピープルの時代』である。さっとみたら、村上春樹の作品を俎上にのせて論じているようだ。やはり村上作品は読んでおいたほうがよいということだろう。

 ちょっと気がついたことがある。『リトル・ピープルの時代』の著者紹介にも、『PLANETS』の紹介にも宇野の出身大学が出ていない。『PLANETS』で対談している人たちの紹介文にはいずれも出身大学などが記されている。もちろん出身大学などどうでもよいのだが、しかし他の人のは載せているのに、自分については載せないというのはどうなのだろう。宇野の出身大学は立命館大学だが、あまり明らかにしたくないのだろうか。だとするなら、宇野は逆の意味で「学歴主義」ではないか。京都の私大では、立命館と同志社が双璧なのに。

 実は明日も本が来る。先日紹介した名張毒ぶどう酒事件を扱った『名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀』(岩波書店)だ。

 家人はこうした本の購入に怒りを覚えているようだ。それはそうだろう、本の置き場所がもうないからだ。
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『ねじまき鳥クロニクル』(途中経過)

2013-02-18 23:16:46 | 日記
 『ねじまき鳥クロニクル』の第一部、第二部を読み終わった。

 今までの作品との違いを感じる。まず隠喩が減った。隠喩を積極的に使わなくても、もう良くなったというか、そんなに苦労しなくても、村上作品には一定の読者がついたので、意図的に工夫する必要がなくなったのかもしれない。

 荒唐無稽な情景が減った。もちろんなくなったわけではない。主人公が生きる世界が全く奇想天外のところで展開されることはなくなったという意味であって、奇想天外な世界との交わりは、当然存在している。

 ボクは、村上はいい加減な気持ちで書いているとおもったところがある。それはクミコという主人公の細君が家を出て行った、そしてクミコからの手紙が来て、そこには家にのこしてある服などを処分してほしいという箇所があるのだが、主人公はクミコの服などを「救世軍に寄付すればいいのか?」と、いろいろと思い悩むのだが、なんで「救世軍」なのか。

 あるいはプールで泳いでいて、突然主人公は「井戸」にいることに気付く。そしてそこでいろいろ深刻な「事実」を感じとるのだが、今までの村上作品ならそこで話をどんどんふくらませて展開させただろう。だがしかし、この作品では案外早く「現実」に戻るのだ。主人公は、プール監視員に救助されるのだから。

 そういえば、他の作品でも「現実の世界」(といっても、村上作品の中での現実)と「非現実の世界」を往復したり、クロスさせたりしていたことを思い出した。村上作品の特徴だろう。そういう情景の中で、主人公は「わからない」を語るのだ。主人公にも「わからない」そういった往復やクロスは、読者を愚弄しているように思えるのだがどうだろうか。

 もちろん今までと同じところもある。セックスに重要な意味を持たせているところ。主人公の妻クミコが異状に性欲を昂進させ、主人公以外の男性と今まで体験したこともないようなセックスに没入したり、加納クレタの人格を転換させる契機としての主人公とのセックス。いずれにしても、村上はセックスに執着する。

 また煙草やビール(16歳の笠原メイにまで煙草を吸わせ、ビールを飲ませている)、夢、「わからない」・・・・。それに髭、この主人公だけではなく、村上作品の主人公は髭を剃ることが多い。髭への執着も感じるのだ。

 ストーリーの運びは、読む者を飽きさせず、次にどう展開していくか知りたくなるのだから、話としては面白いのだろうが(ボクは自分自身が好きでたまらないから読んでいるわけではない)、ここに「意味」をもたせているぞ、というような気概が感じられない(笠原メイに語らせているよ、といいたいのかもしれないが、弱いね)。

 さあ、次を読むぞ。
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わからない

2013-02-18 17:30:15 | 日記
 さむい日だ。あまりにさむいのできょうはそとに出なかった。家人にたずねると、あめはいまもぱらぱらとふっているという。

 家人がどこからか『abさんご』というほんをかりてきた。ことしのあくたがわしょうじゅしょうさくひんだ。黒田夏子という75歳のじょせいがかいたものだ。

 すこしよんでみた。ひらがながたようされているが、漢字もときにつかわれていた。ほんらいなら漢字でかいたほうがよいとおもわれるところもひらがなになっていて、漢字とひらがなの使用法にどんなほうそくがあるのかなとぎもんに思った。

 ひらがながたようされているからわかりやすい作品かと思ったらぜんぜんそうではなかった。

 村上春樹が多用する「わからない」である。あるいは村上が作品中に多用する「・・かもしれない」をもじれば、「わかるかもしれない」という、そういうレベルの作品だ。

 しかし帯には「誰もが親しんでいる書き方とはいくぶん異なっているというだけの理由でこれを読まずにすごせば、人は生きていることの意味の大半を見失いかねない」(蓮見重彦)、「人はきっと、この匂い、この色、この感触のするところからやってきて、そして戻っていくのだ」(川上未映子)とある。

 おそらくボクはこの作品をよみこなせない。だから「生きていることの意味の大半を失」うことはかくじつだ。またボクは、すこしよんだだけのこの作品がしめす匂いや色、感触が「わからない」からボクの「やってきたところ」も「戻っていく」ところもわからないだろう。

 真面目に書くと、こういう作品は書いた人が意識的に理解不能の「物語」を書く。すると高名な方が、それを理解できないけれども、それでは恥ずかしいから、「僕はこれわかるんだよ」とばかりに高い評価を与える。するとその評価にとびついて読んでみた人が理解不能であるけれども、わかったかのように「これってすごい」と叫ぶ。すると出版社は、どんどん売れるのでよろこんで増刷する。ひょとしたら、最近の「純文学」の世界って、これで成り立ってるのではないかと、実はボクは疑っている。





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【本】梯久美子『百年の手紙ー日本人が遺したことば』(岩波新書)

2013-02-18 09:55:23 | 日記
 今日は朝から冷たい雨が降っている。きのう春を待ち焦がれて咲き始めた白い小さな花が、今日は小さくちぢこまっている。

 いつも窓から遠慮なく入り込む日の光もなく、今いる部屋も寒く、冷たい。小さなストーブがあるが、あまり用をなさないようだ。

 文を書く練習をしているHさんから頼まれた文の校正は、なかなか進まない。このブログに書いたり、他の本を読んだりする時間はあるのに。Hさんは、いったいどうしたのだろう、と訝っているかもしれない。

 しなければならないという想いがあっても、行動に移せないこともある。行動は、その時を待たなければならないのかもしれない。

 そうした想いをもちながら、ボクはこの本を読んだ。上手い文が並んでいる。それぞれの文は、新書版で2~3頁だ。そのなかに、取り上げられた手紙を書いた人、それが送られた人の、それぞれの人生のドラマの一幕が記されていて、短い文ながら心を打たれる。

 こういう文章を書けるようになりたいと思う。Hさんも、是非読んだらいい。参考になるだろう。

 もちろん、梯さんがこのように心を打つ文を書けたのも、その題材となった手紙そのものにそうした力があったからだろう。そうした力をもった手紙を探し出したというところにも、梯さんの才能がある。

 文というものは、書く人だけのものではなく、書かれる対象となったものと書く主体とが、格闘しながら積み上げられていくものだ。書かれる対象を探しだし(深く研究し)、それを理解すること、そしてそれをどう書いていくのかを、書く主体が格闘しながら書いていくのだ。たとえ、書かれる対象が素晴らしいものだったとしても、書く主体がその素晴らしさを認識できなければ「絵に描いた餅」で終わる。

 「書く」という行為は、「書く」ことが目的ではなく、「書く」は手段であって、その先にあるものを描き出すのである。安易な姿勢からは、「その先にあるもの」を描き出すことは出来ない。

 梯さんは、すでにそれ自体力をもつ書かれる対象(この場合は手紙)を、みずからの人間観、社会観などを背景にして、みごとに書かれる対象を、より高い位置に押し上げている。個別的な手紙を、普遍の網の目に編み直している。

 ボクは、梯さんが選び出した手紙の一節一節すべてに心を動かされたけれども、尾崎秀実が娘に出した手紙の一節、「学問は人を幸福にはしないかもしれませんが、人としてどうしても必要です」がもっとも心に残った。

 ボクは、人を幸福にできるような社会をめざして、これからも「学問」らしきものに取り組んでいく。

 もう一つ、「生きるということは苦しく、又、謎に満ちています」(前川正から、作家三浦綾子への手紙)にも感動した。

 こうした先人の遺したものを学びとりながら、ボクは、苦しい人生を、終わりが来るまで「謎」を求めて生きていきたいと思う。
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見て欲しい、映画「約束」

2013-02-17 23:22:07 | 日記
 えん罪事件として有名な、しかし解決への道をなかなか見いだせない名張毒ぶどう酒事件。それが映画となった。

 「約束」という映画だ。東海テレビは、この事件を長い間追い続けた。その足跡が、今月発売の『名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀』(岩波書店)に記されている。

 そしてそれが映画化された。

http://tokai-tv.com/yakusoku/story.html


 この映画は、絶対に見るべきである。浜松でもいずれシネマイーラで上映されるが、東京では上映が開始されている。

 渋谷のユーロスペースだ。これは必見である。

 http://www.yakusoku-nabari.jp/

 そしてそれを見た弁護士の感想。

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-d259.html

 東京周辺にいる人びとは、この映画館に行こう。

 名古屋では、3月2日から、伏見ミリオン座で上映。

 この事件を知らずして、正義を語ることなかれ。
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中央と地方

2013-02-17 21:17:39 | 日記
 昨日静岡に行ったのは、近代史研究会の幹事会と例会に参加するためであった。幹事会では、議案として事務局長人事があり、ボクはその候補にされていたのだが、参加しないと欠席のまま指名されてしまうのではないかと畏れたためにわざわざ静岡へ行ったのであった。その指名は何とか拒否したが、結局その人事は決まらなかったので、いずれまた議案に出るのではと思う。その時も参加しなければならない。

 研究会はいつも静岡市で行われる。浜松から静岡までは、運賃が1280円。往復で2560円だ。一度静岡に行くと専門書一冊分の経費がかかるわけだ。ボクは、毎月の例会うち、2500円の価値があるかどうかを判断して参加・不参加を決めている。せこいといわれるかもしれないが、無駄遣いはしたくない。

 さて例会で報告者が、中央・地方の問題を提起した。「戦争史」を「中央」の視点から語ることは「無意味」ではないかというのだ。「戦争史」の歴史叙述が「中央」の視点から行われ、それが歴史評価にもつながっていることを指摘していた。たとえば「学童疎開」の歴史叙述は、中央から地方へ「疎開」してきた立場の視点から「地元は温かかった、冷たかった」とか、あるいは「国民義勇隊はほとんど機能しないままに終わった」とか。

 ボクは、報告者に3つの点で疑問を呈した。一点目は省略するが、二点目は後に述べる。三点目は中央・地方の問題だ。

 三点目から入る。

 まずこの問題を考える時、現代の社会のあり方を想起しなければならないと思う(これについては発言しなかったが)。
 現在は、過度の中央集権である。以前「首都機能の移転」、「国土の均衡ある発達」が議論されたことがあるが、今やそうした議論は皆無である。中央集権は、当然のこととして推進されている。以前は地方への気配りがあったが、今や地方切り捨てが躊躇なく展開されている。そうした現実をしっかりと視野に入れておくことが大切だ。それは、そうした政策展開に疑問を抱き、それにどう抗していくかという問題意識でもある。

 次は戦時体制期の歴史研究において、中央・地方はいかなる関係にあるかということだ。「中央」と「地方」は矛盾関係にありながら、同時に双方は同時的に存在する、あるいは依存関係にあるということだ(対立物の統一)。歴史叙述は、したがって、「中央」の視点から、「地方」の視点から双方的になされなければならないのであって、あえて「中央」から、「地方」からということに拘泥する必要はないと、ボクは言った。

 地方に住んでいると、中央の政治史や政策史や外交史などは研究できない。もちろんカネと時間がふんだんにあれば別だ。地方から交通費と宿泊費をつかって、長時間、東京の各所に集められている史資料をみることができるなら可能だ。

 だが普通の研究者は、特に在野の研究者はできない。文科省などから科学研究費などを獲得できればいいが、それだって在野の研究者にはせいぜい50万円くらいだ。カネの問題がクリアできても、地方に住んでいれば時間の問題もある。

 となると、地方の在野の研究者の研究は、地方、あるいは地域を研究のフィールドに設定することになる。

 では、地方(地域)の歴史研究は東京に集められた史資料を駆使しての研究より劣るのかというと、そうでは決してない。なぜなら、地方(地域)にも、普遍性を持った歴史的事実があるからだ。地方で研究する者は、地方(地域)の個別的な事象の中に普遍性を発見するのだ。普遍性は、個別性の中に顕現するのだから、これは当然のことで、地方(地域)の事象の中に全体を捉える契機となるものが必ずある。

 たとえば、先日浜松市の過疎地域を視察したが、浜松市の過疎地域には、日本全体を貫く、地方切り捨ての現実、林業の衰退、超高齢社会の存在などが厳然と存在しているのだ。浜松の過疎地域を対象に研究していけば、日本全体の動きが把握できるはずだ。

 ボクらは、「中央」からの視点とか、「地方」からの視点とか、そういうことではなく、地方(地域)を凝視するなかで、日本全体の歴史や動向を摑むのだ。

 そのためには、もちろん、「中央」が行い地方に波及させる政策展開も知らなければならない。だが、何らかの目的を持った政策展開でも、ストレートにその目的が貫徹するのではない。必ず地方(地域)のあり方(自然や人の動きなど)により、「変数」が生まれる。それを捉えたい。そこに現状変革の契機があるのかもしれないからだ。

 二点目は国民義勇隊についてである。報告者は「国民義勇隊はほとんど機能しないままに終わったという評価」を「中央」の視点からのものとした。しかし、ボクの地方(地域)における狭い調査研究からすれば、国民義勇隊は形式的には成立したが、実質的な活動はできなかった。確かに義勇隊の組織メンバーの名は、地域の史料には書かれていた。だがそれがどんな活動をしたのか、いろいろ調べても「歴史像」が浮かばなかった。義勇隊が組織されても、取り立てて新しい動きは見られず、今まで通りの戦時体制下の村が続いていただけだった。

 考えてみればこれは当たり前で、国民義勇隊が組織されたのは1945年の戦争末期である。となるとすでに「大日本帝国」は解体への道をまっしぐらに進んでいたのであって、地方(地域)に新たな組織的な動きを起こすことなど出来るわけがないのだ。いくら地域史料に「国民義勇隊」の史料が残存していたとしても、日本全体の動きから見れば「義勇隊がきちんと機能していた」などと言えるはずもなく、「ほとんど機能しないままに終わった」としたほうが、歴史的事実にあっているのではないかと思う。

 ボクは、失礼ながら、報告者は弁証法的な論理の洗礼を受けていないとみた。





 



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排斥・無知・挑戦

2013-02-17 10:47:51 | 日記
 ボクはサブカルチャーとかポップカルチャーというジャンルについてはまったく知らないし興味関心もない。AKB48についても、なんでテレビにはそこらにいるレベルの女の子(周辺にいる女の子のほうが美人だ!)をだすのか、テレビはもっと美しい女性をだすべきだ、などと息巻いていた。たったそれだけ。

 年末年始アメリカにいた家人は、録画された「紅白」を見てAKB48を「すごく出てる!」と感心していた。テレビをほとんど見ないボクとしては、テレビに出ている芸人やAKBなんかを半ば蔑視していた。

 まさに排斥である。

 ところが、昨日録画されていたETV特集を見た。批評家・宇野常寛に密着取材してまとめたものだ。宇野という人物も知らなかった。

 その説明が下記のリンクにあるので、紹介しておく。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0210.html

 それを見ていて、ボクはあまりに無知であったことに気付いた。いや無知と言うより排斥していたから目に入ってこなかったのだ。宇野は、・・・カルチャーにも造詣が深く、おそらく「オタク」の世界にも通じてるのだろう。

 そういう・・カルチャーも社会のなかにきちんと地歩を築いているのだ。社会を、あるいは今生きている人間を理解するためには、そういうものにも目を配る必要があるのではないかと思い立った。

 即座に宇野の本を買おうと思ったのだが、その一冊(ハヤカワ文庫)は今は品切れのようだ。浜松図書館では2冊購入したようだが、それはただいま貸出中。そこで別の一冊を予約した。

 昨日、静岡大学のHさんに、以上のようなことを話した。Hさんは昔から、テレビをボクよりずっとよく見ていて、また漫画も読む。彼が「AKB48はわかる」なんて言うので驚いた。彼のほうが、・・・カルチャーについて先進的であることが確認できた。
 
 そしてボクはもっと視野を広げることに決めたのである。村上作品を読むことも、その一環である。それだけでなく、・・・カルチャーにも挑戦するぞ。

 知りたいことはいっぱいある。考えなければならないことは、いっぱいある。本たちが、じりじりしながら、ボクを待っている。しかしボクは本ばかり読んではいられない。そろそろジャガイモを植える時期が来ている、その準備をしなければならない。
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めがね雲

2013-02-16 21:05:50 | 日記
 今日静岡へ行った。ボクは静岡へ行く時、新幹線には乗らない。約1時間をかけて静岡に行く。本を読み、時に窓から空を見た。焼津辺だったか、空に「めがね雲」があった。「めがね雲」という名の雲があるかどうかは知らない。でも、顔のかたちの雲に、黒いレンズのような丸が二つ並んでいた。雲はぽっかりと浮かび、ユーモラスな表情を浮かべていた。

 さて、村上の『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めた。読めば読むほど、村上の作品は「遊び」だなと思う。ボクらが生きる現実とはクロスしない。ちょうど中空に浮かぶキャンバスに、抽象画というほどのものではないが、一部具象的、一部抽象的な絵画が描かれているという感じなのだ。

 ボクはやはり村上の作品は、「浅い」と思う。ことばが伝えるだけのことがことばで綴られている(ただし、あたかもそうではないような、つまりことば以上のものを語っているかのような記述がなされる「思わせぶり」なところもある)。よくドストエフスキーの名が、村上作品にでてくるが、ドストエフスキーの作品は重厚だ。使われていることばの背後に、ものすごい重厚な思考が隠されている。だからそれぞれの「場面」に、作者のどのような意図があるのかを深く考えようとする。次々と繰り出されることば、ことばを、ボクたちはなおざりにはできないのだ。

 そしてドストエフスキーの作品のストーリーの展開は、ある意味で「必然的」なのだ。

 しかし、村上のそれは必然性の展開になっていない。たとえば、主人公クミコの兄、綿谷ノボルの著書に「性的経済と排泄的経済」ということばがつかわれているとされ、そしてこれが「その年の流行語になった」とされるのだ。このことばは、ストーリーの展開の必然性の中にあるのか。ひょっとしてこれが後の話の展開に重要なこととして出てくるのかもしれないが、しかしこのダーティなことば。ボクは、村上の品性を疑うのだ。

 また主人公が夢を見る。その夢は、「加納クレタ」というアホみたいな名の女性とのオーラルセックスなのだ。そして主人公は「夢精」する。これがストーリーの展開の中で、必要な物語なのか。

 その「加納クレタ」は「娼婦」であったことも記されている。

 村上は、セックスがとても好きだ。実際のセックスではない。物語の中に、頻繁にセックスに関する物語を入れてくる。ただその記述には、いやらしさはまったくない。その点ではこれ(いやらしさを感じさせない性描写)も一つの才能だろうと思う。 

 ボクは、ふと思うのだ。村上作品の読者は、セックスにはあまり縁のない人なのではないか。村上作品はある種のカタルシス?

 ボクはYさんが良いという『ねじまき鳥クロニクル』を読み続けるが、しかし村上作品より、奥田英朗の作品のほうが良いとボクは思う。

 村上作品は、現実との葛藤を避けているために高評価なのだろうと思う。
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「独裁者」は許される?

2013-02-16 10:18:59 | 日記
 大阪橋下市長については、ここに書くのもいやなのだが、今回は記しておこう。マスメディアは、橋下に迎合的なことばかり報道してきた。たとえば大阪府知事時代、府の財政を好転させたかのような報道がなされたが、実際は赤字を増やしていた。マスメディアが好意的な報道を繰り返す中で、橋下も浮かび上がっていったのであって、橋下なる人物はマスメディアがつくりあげた虚像だとも言える。

 その橋下がでたらめのことをしている。府や市の職員の給与削減に邁進している一方で、身内にはきわめて甘い措置をしている。その端的な例が、めずらしく報道された次の記事だ。


「橋下市長が公務専念せず」、給与返還求め提訴

. 橋下徹大阪市長が日本維新の会代表代行への就任後約1か月間、公務に専念せずに衆院選関連の政治活動をしたのは、市長や職員の政治的中立性確保を求めた市条例に違反するとして、市民グループ「見張り番」のメンバーらが15日、この間の給与82万円を返還するよう橋下市長に求める住民訴訟を大阪地裁に起こした。


 訴状によると、橋下市長は昨年11月17日の代表代行就任から衆院選投票翌日の同12月17日までの31日間のうち26日間、公務日程がなく、全国で遊説などをしていた。原告側は、この間の給与支払いが違法な公金支出にあたるとしている。

 市監査委員は先月、「条例は市長選時の行為を対象としている」として原告側の住民監査請求を却下した。市は「訴状が届いていないのでコメントできない」としている。

(2013年2月15日20時25分 読売新聞)


 これについては、より詳しい内容が以下に記されている。

http://www.asiapress.org/apn/archives/2013/02/13130747.php

 「独裁者」は一方で財政緊縮・給与削減をしながら、特定の人びとには多額の金銭を支払う。こういう勝手なことをしている、しかし大衆はその勝手を見ないで、快哉を叫ぶ。ヒトラーの時代もそうだった。
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不幸な国、日本

2013-02-15 09:44:34 | 日記
 日本での生活に満足感を抱いている人は多い。いろいろな場で、それぞれの満足感を尋ねるアンケートが行われるが、その結果の多くは「満足」が多いというものだ。たとえば、新自由主義的な政策展開の中で、学校でも「満足度調査」なるものが行われ、学校関係者は「満足」が多いといって喜んでいる。

 滑稽だ。これは当たり前のことだからだ。多くの人は他所を知らない。あるいは他の学校のことを知らない。不満がなければ「満足」と答えるだろう。

 「満足」が「不満」に変わる時は、何らかの困難に直面した時だ。その時にだけ、「不満」を感じるが、しかし日本人、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」のだ。また「満足」となる。

 想像力を働かせたり、継続的に監視し続けることをしないので、「不満」となるネタが見えないのだ。

 さて昨日の『福島民友新聞』の配信記事。ボクは、下線を引いたところに大いなる疑問を抱く。その疑問は、中部大学の武田教授と同じである。統計学的にも、鈴木教授の見解はおかしい。増加したのは4~5年後かもしれないが、必ず早期に発症する人はいるものだ。

 この後に、武田教授の意見を読めるように、アドレスを貼り付けておくので読んでほしい。

甲状腺がん新たに2人 福医大、原発影響は否定

 東京電力福島第1原発事故に伴う県民健康管理調査のうち、事故当時18歳以下の県民を対象にした甲状腺検査で、2人から甲状腺がんが見つかったことが13日、分かった。福島市で同日開かれた同調査検討委員会で福島医大が報告した。検査を担当した同大の鈴木真一教授は「チェルノブイリ原発事故の際は、甲状腺がんが増加したのは4、5年後。もともとあったもの(甲状腺がん)を発見している可能性が高い」とし、福島第1原発事故による影響を否定する見解を示した。
 県民健康管理調査の甲状腺検査で甲状腺がんが見つかったのは今回の2人を含め計3人。3人は、超音波による1次検査を2011年度に、細胞診断を含む2次検査を12年度に受け、甲状腺がんが見つかった。また、細胞診断を受けて甲状腺がんの疑いのある人が7人いるという。同大は甲状腺がんが見つかった3人と疑いのある7人を合わせた10人の年齢や居住地などは明らかにしていないが、内訳は男性3人、女性7人で平均年齢は15歳。11年度の検査対象地区となった避難区域など13市町村の住民で、地域的な偏りはないという。がんと診断された3人はすでに手術を受け、経過は良好という。
(2013年2月14日 福島民友ニュース)


http://takedanet.com/2013/02/10_6a83-1.html
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【本】『村上春樹全作品1979~1989』8 短編集Ⅲ

2013-02-14 12:02:48 | 日記
 しばらくぶりに村上春樹を読んだ。村上作品の特徴を徐々に知るようになった。主人公が男の場合は、「僕」、女性の場合は「私」。そして「彼は威張らなかったし、自慢もしなかった」というように、「・・し、・・」を多用する。ボクはそういう書き方はしない。そして会話によるストーリーの運びは、あまり多くはない。

 それに「わからない」という語も多用されている。また主人公は多くの女性と「寝る」し(ちょっと使ってみた)、女性が主人公の存在そのものを支える、という構図がしばしばあった。

 それでもって、物語は荒唐無稽、奇想天外なものがおおい。

 以前にも指摘したが、奇想天外の暗喩が使われる。しかし、暗喩そのものが目的化されているような気がする。

 さて、この作品集には、「パン屋再襲撃」、「象の消滅」、「ファミリー・アフェア」、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「眠り」、「トニー滝谷」、「人喰い猫」などが収載されている。

 「ファミリー・アフェア」はフツーの小説。「トニー滝谷」もそれに近い。あとは奇想天外の部分を必ず含むのだが、思わせぶりの小説群のような気がしてしまう。

 ことばというものは、どういうものでも表現できてしまうものでもある。ありえないことでも、まことしやかに描くことができてしまう。村上の才能というのは、そういうところにあるのだろう。

 ではそこに、何らかの「意味」を持たせながら、村上は作品を書いているのだろうか。ボクは、おそらくそうではないと思うのだ。読者が、それらの作品を、ある意味で「勝手に」解釈していく、村上は自由に、あまり意味なんか考えないで書いていく。「解釈はどうぞご勝手に・・」である。

 なぜか人は、難解そうなものが自分の前に立ちはだかると、意味を考えなければならないと思ってしまうようなのだ。ボクは読んだことがないけれども、村上作品を解釈した本が多数出版されている。ボクは絶対にそうした本は読まないが、そういう本が出されるほど、村上作品を解釈しようという人が多いということだ。

 村上作品は、現実に足を持たない、空中に浮かんだままにしておく、そういう世界だ。人は、なんで空中に浮かんだままなんだ、などと騒ぐのだ。

 ボクから言わせれば、村上作品は「遊び」である。奥田英朗の小説のほうが、もっともっと真剣だ、それも現実に対して。その真剣さを、若い人は知らないし、敬遠する。




 
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中山間地域(2)

2013-02-13 19:46:18 | 日記
 昨日、浜松市内の中山間地域を訪問したことを記した。

 その際、市の職員から「中山間地域集落支援モデル事業中間報告書」をいただいた。

 そこには、中山間地域の課題が列記されていた。

 ①病気やけがの時の緊急時の対応への不安
 ②都市などに住む別居家族との連携
 ③集落活動・共同施設の維持管理が困難
 ④交通弱者への対応
 ⑤伝統芸能などが伝承できない
 ⑥有害鳥獣の被害対策
 ⑦集落のリーダーとなる人材がない

 課題のすべてをここにあげたわけではないが、よくよくみると⑥を除き、これらは中山間地域だけではなく、浜松市など地方都市でも抱える課題でもある。

 高齢化率は中山間地域だけではなく、どこの地方でも上昇している。高齢者世帯、あるいは高齢者の一人住まいはボクが住むこの地域でも確実に増えている。

 その意味では、この中山間地域の課題を解決するために、今必死に考えて対策をたてていけば、将来的にすべての地方都市が直面する問題解決の先進的な事例になるのだろうと思う。

 はたして浜松市にその意志があるのかどうか。

 
 ここ一週間忙しい日々が続き、今日の昼頃まで疲れを癒していた。村上春樹作品の読書を中断しているが、そろそろ再開しようと思う。ひょっとしたら、村上作品には「疲れている」という語が頻繁に出てくる。主人公はよく疲れる。それに影響されたのか、ボクも疲れている。  
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中山間地域

2013-02-12 22:40:25 | 日記
 今日は、浜松市天竜区の職員に案内されて、旧龍山村、旧佐久間町、旧天竜市の中山間地域の10の「限界集落」を訪問した。

 高齢化率100%、一人暮らし高齢者世帯がほとんどという集落を訪れた時、そこの住人から「あと10年も経てばこの集落は消滅する」といわれた。

 そういう集落を中心に廻ったのだが、残念ながらそれらの集落の明るい未来を展望することはできなかった。

 医療や介護もそう簡単には受けられない、買い物も不便で、車がないと何も出来ないという状況。若い人はいない。かなり長い距離を走った。山林は手入れがなされず、荒れていた。たまに間伐が行われたところがあったが、伐採された木材はそのまま放置されていた。

 近くの道路から家に行くには、30分くらいの山道を登らなければならないところには、モノレールがあった。ボクはその急斜面に設置されたモノレールに乗せてもらった。

 旧佐久間町では、道路を敷設できないところにはモノレールを提供した。だからその担当課は道路課だった。補助金もたくさんでた。道路の代替であったからだ。しかし新浜松市になったら、担当課は変わったとのこと。補助率も50パーセントになった。

 しかし、空気はすがすがしく、水はおいしかった。

 中山間地域のほとんどの集落は「限界集落」といわれる。余りよいことばではない。その代わりに「生涯現役集落」とよんでいるところもあるという、そちらのことばのほうが現実にあっていると思った。なぜなら、そういう集落に生きている高齢者は、みんな頑張っていた。庭木をキレイに刈り、茶葉をつくり、野菜を作っていた。

 中山間地域に住んでいる人びとも、都市に住む人びとと同様のサービスが提供されるべきだと思った。どこに住んでいても、健康で文化的な生活ができなければならない。

 ボクらの国の憲法には、そう書いてある。

 
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「メディア時評」

2013-02-11 21:34:54 | 日記
 『世界』(岩波書店)3月号を購入した。

 ボクは、『世界』は毎月購読している。政治・社会について、まっとうな批判的精神を持った雑誌は、今では数少なく、『世界』はそのなかでも卓越した批判的姿勢を堅持している。

 ボクがいつもまっ先に読むのは、神保太郎氏による「メディア時評」である。

 日々の政治や経済、社会の情報をどこから入手するかというと、ほとんどがテレビや新聞となる。マスメディアに依存しないと、情報は得られない。もちろんインターネットを駆使していれば、テレビや新聞が報じないことも知ることが出来るが、大方の人はそうしていない。マスメディアこそ、国民の情報入手の手段となる。

 ところが、マスメディアは、何度も記しているが、基本的に支配権力の一部を構成するメディア権力と化している。したがって流される情報は、権力の点検を受けているか、あるいは権力が許容する内容のものと言うべきであろう。

 そして残念ながら、ボクは少なくとも、テレビは見ないから、あるいは新聞は『中日新聞』しかみていないから、メディア権力の流す情報がどういうものかを知ることができない。

 そういうとき、神保氏の「メディア批評」は、マスメディアがどういうことを報じているかについて、厳しく、根拠に基づいて批判している。

 今月号は、安倍という人物の、あるいは安倍という人物の周囲にいる者たちの、質の悪さを正確に指摘している。とくになぜ人気があるか分からない石破の、無内容な、神保氏がいう「念入りな愚論」に対する言及は見事である。

 また神保氏は、安倍に関して「もしや、この人の頭の中には、メディアはガセを流せば飛びつき、恫喝すればすぐに引っ込むというような、とても幼稚で傲慢な観念が詰まっているのではなかろうか」と指摘するが、おそらく安倍の頭の中はそうなっているのだろうと思う。なぜなら、マスメディアはガセに飛びつき、恫喝に屈しているからだ。

 そしてこの安倍について、日本の東京発行紙のうち『東京新聞』を除いた各紙は、安倍政権に迎合的である(各紙に濃淡はある)が、欧米紙はきちんと指摘すべきを指摘しているという。そして末尾にこう記す。

 「海外メディアは、安倍政権の経済政策・外交政策だけではなく、そのリーダーとしての根本的な資質と、教養について疑問を投げかけている」

 資質と教養に欠ける者たちによる内閣が、今日本の政治や経済を動かそうとしている。しかしそうさせたのは、残念ながら日本国民なのだ。ということは日本国民もまた・・・・・なのか。

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【本】奥田英朗『最悪』(講談社文庫)

2013-02-11 09:18:36 | 日記
 これも長い小説だ。下請け企業の経営者、女子銀行員、パチンコで収入を得ていた少年。この三人がそれぞれの苦難に満ちた生活を過ごしていく中で、最終的には銀行強盗事件でそれぞれの人生が一つになる。

 下請け企業は、その上の下請け企業からの無理な注文を文句も言わずにひたすらこなしていく。そうでないと生きていけない。休日も夜間労働も当たり前。女子銀行員は会社の一員としての行事などに参加しながら日々変わらない人生を真面目に生きている。そして少年はパチンコで儲けながら、チンピラなんかと犯罪を犯しながら生きている。

 それぞれの生が展開する中で、それぞれが「最悪」に向かって、坂道を転がるように落ちていく。その転がり方は、あり得ることとして理解の範囲のなかでストーリーは動いていく。

 その「最悪」は、銀行強盗事件へと突き進む。経営者、少年、銀行員とその妹がその構成メンバーだ。そこまでは理解の範囲。だがその後は奇想天外の動きとなる。荒唐無稽といってもよい。この4人、被害者・加害者でもあるのだが。それが一つとなって御殿場に逃げていくのだ。これはないよなあ、と思いながら読み進むのだが、その奇想天外な話には迫力があり、目を離せなくさせる。

 そして逃げ込んだバンガローにヤクザ集団が殴り込みをかけ、さらに警察によって逮捕される。まあすごい話だ。

 しかし結末は「最悪」ではない。それぞれがそれぞれの人生を静かに生きていく。経営者は背伸びをしないでひたすら仕事に没頭し、銀行員は銀行を辞め他の仕事に就く、そして少年は拘置所へ。誰も死なないし、悲劇のどん底にも落ちていかないで、踏みとどまる。

 考えて見れば、奥田の作品は奈落の底に落ちていかずに、どこかで止まる。交通事故で死んだのかなあと思うと、後から松葉杖で再登場したり。

 まあエンターテインメントの作品だ。ただそれらの作品は、現実の姿に足場を置いて展開される。その現実はまさに人びとが生きる現実で、そこには喜びもあれば苦しみもある、ボクたちが生きる生活の場である。奥田はエンターテイナーとして作品を読ませながら、そこに現実の厳しさを指摘しているようだ。
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