10日間にも及ぶ長雨が終わった頃から、蝉が一斉に鳴き始めた。長い間土の中で生活してきた蝉は、残り少ない日々をひたすら、みずからの存在証明を示すべく鳴く。
その体全体からの精一杯の声は、「参戦法案」反対の声と重なる。
法学部で学びながら、歴史の魅力に取り付かれたボクは、長い間歴史の襞に眠り続けていた庶民の声を拾い続けてきた。とりわけ、近現代史のなかでは、庶民のなかの、戦争による悲しみ、悔しさを受け止め、それを叙述してきた。誰もいない休日の編さん室で、戦争体験者の悲痛な体験記を読み、むせび泣きながら文字を綴ったこともあった。それぞれの文の末尾にある、「戦争だけはしてはいけない」、「自分の体験を子や孫に体験させたくはない」という文字に、心から同感してきた。悲痛な、恐ろしい体験が短い体験記に凝縮されていたのだが、それを読むボクは、その背後にある語り尽くせない体験に身震いしたことを思い出す。おそらくそうした体験をしたためた方々は、もうこの世にはいない。
だからこそ、ボクは、遺された戦争体験者の思いを代弁しなければならない。
と同時に、大学で法学を学んだ者たちはボクと同様に「参戦法案」反対の動きをしているだろうか、と思う。大学を卒業した者たちは、裁判官、弁護士、検察官、民間会社、公務員、教員など、社会のそれぞれの場に旅立っていった。
すでに多くの憲法学者が「違憲」と指摘する、あるいは「立憲主義」が危機にさらされているというこの「参戦法案」については、卒業後のそれぞれの立ち位置にかかわらず、「反対」を叫ぶべきものではないか。みずから学んだ学問の要諦が踏みにじられようとしているとき、それに抗して声を上げるべきは当然ではないか。
ボクは長い間、社会の中で生きてきたが、人々は「理念」では動かない、ということを学んできた。「理念」に生きることにより、みずからに不利なことが押しつけられてくることに耐えられる人は多くはないことを学んできた。
だが、そうであっても、今回の「参戦法案」は、「理念」だけではなく、「戦後」がつくりだしてきた生活そのものが変えられる可能性を秘めた、とても大きな「変動」なのだ。
大学の古びた地下のサークル室で、いろいろなことを学びあったが、その学びが壊されようとしているとき、声を上げるのは必然としか言いようがないではないか。
「参戦法案」反対の署名に加わることを願う、学問的良心を持って。