神宮外苑の樹木が大量に切り倒され、大企業が大儲けをする計画。明治神宮はなぜこんな計画を推進するのか。
「戦争をやめること」は必要だ。ではどうやって?
バイデンが動けば戦争は止められるのか?れいわ新選組の山本太郎代表の街頭演説の一部をネットで見たが、どうも異和感を覚えた。ウクライナへの侵略を行ったロシアへの批判はどうしたのだろうか。みんながロシアを批判している、これでは翼賛体制だ、というようなことを言っているようだが、ロシアを批判するのは当たり前である。
『現代思想』の臨時増刊号「ウクライナから問う」を読み進めているが、大竹弘二の「地政学か、普遍主義か」のなかの次の文章は、当然前提とすべきである。
ロシアのウクライナ侵攻は、戦争違法化に向けた国際法の普遍主義的進歩の観点から見れば、留保なしに批判されねばならない。
第1次世界大戦で無数の斃れた人びと、その人たちを斃れたままにしておくことはできないとして、戦争違法化への途を歩み始めた世界。国際連盟ができ、不戦条約ができ、両大戦間期は、平和な世界へと歩み始めた。しかし、第2次大戦が、ナチスドイツ、大日本帝国、イタリアの三カ国により開始され、また多くの人が斃れた。大戦末期、聯合国が結集し、武力の行使、武力による脅迫も違法とすることとした。
侵略戦争の禁止は、決して抽象的な主観的正義ではなく、国際社会が長い地道な努力を積み重ねながら形作ってきた客観的な国際法規範なのである。 このように普遍主義的な立場から国際法秩序を守ろうとする思想は、西側諸国においても未だ充分には内面化されていない。
政治にたずさわる人びとのなかにも、このような国際法の規範をもとに判断することをしない人がいることに、私は驚く。
ヨーロッパであれアメリカであれ、普遍的な理念を掲げるのであれば、自らの特殊な地政学的アイデンティティーを超える連帯へと手を拡げてもらわねばならない。それは、自由、民主主義、人権といったリベラルな価値は単なる西洋の特殊なイデオロギーにすぎないという右翼の常套句をもうこれ以上繰り返させないためにもそうあるべきなのだ。
この結論に賛成である。国際法の規範を堂々と無視したロシア=プーチン政権の非を指摘すると同時に、ウクライナから撤退することを求めるのでなければ、国際法は規範としての機能を果たすことができないのである。
普遍的な理念をロシアに強制する、いや全世界に強制する力を、わたしたち民衆が持たなければならない。
こういうロシア人がたくさん出ることが、ロシアの侵略を止めることになるのだろう。
今日、5月分の電気使用量のお知らせが届いた。176kwhで、5554円である。
過去と比較すると、昨年5月同じ176kwhで、4536円、7月が4585円。昨年12月が同じ使用量で4928円である。一年間で1000円ほど上昇したことになる。
2011年から、電気、ガス、水道代などをつけている。
わが家は他家と比べると使用量は多くはないと思うが、夏になってエアコンを使うようになるとこれがぐっと上がってしまう。心配である。
今日の太陽光線は強く、2時間ほど畑にいただけなのに、その熱が身体の中にこもっている。タネから育てた赤タマネギがほどよい大きさになり、茎が折れて収穫を待つ。今日もそれをいくつか収穫してきた。私のいつもの日常は続いている。
それが途切れてしまうこともあることを、ウクライナは教えてくれる。
ロシアの侵攻、ウクライナの殺戮と破壊。なぜこんなバカなことが起きたのか、私は知りたい。
そのために『現代思想』6月臨時増刊号を読んでいるが、今日、ひとつホッとしたことがあった。
私の青春は、ドストエフスキーをはじめとしてロシア文学で覆われていた。しかしそのロシアが、かくも残虐な行動を起こしたことに、ロシアの音楽も文学も責任を負わなければならない、となると、それを吸収して人格をつくってきた私はどうすればよいのか。
だが今日、サーシャ・フィリペンコの文を読んでほっとした。といっても、そこに日本との相似をみてしまったので、恐怖感もないわけではない。
サーシャは、ロシア人との対話の中で、以下のような気持ちを抱いた。
ロシアの根本的な問題はここに潜んでいるんだー疑問に思い、自らの過ちを認めるー負けを認めることができないというところに。自分が間違っていると認めるよりは死んだ方がましだというような風潮に。まるで疑問に思うということも、自分の弱いところを見せることのように思っていて、何世紀も強さを崇拝してきた国ではそんなことはしてはいけないかのようだ。
ロシアの教育システムは全体的に「学ぶ」ことよりも「暗記」にばかり重点を置いている。知識とは学んで会得するものではなく、まるでウィルスのように移植されていく。
疑念をもたない人間を、「暗記」するという教育で育てている。サーシャは、それに疑問を持つ。では、ずっとロシア人は疑念を持たないできたのかというと、そうではないと、この文を訳した女性が「訳者解題」で書いている。
ドストエフスキーにしろトルストイにしろ、その作品や思想を、そこに描かれた「疑念」なしに捉えることはほぼ不可能である。ところがそういった文学や思想がありながら、ロシアの学校教育はその「疑念」をことごとく潰し、年々画一性を強めてきた。ソ連崩壊後にいっとき自由な大学教育が生まれ、教科書のない講義やゼミが開かれていたし、選択科目の幅も広がっていた。ところが2000年代以降、大学の自由は徐々に規制されて教科書の暗記型に狭められ、義務教育では教科書の軍国主義化が進み、その動きは2014年を境に急速に加速した。
ということは、「疑念」が重視されていた時代もあり、だからこそドストエフスキーやトルストイがすばらしい文学を書くことができたのだ。ソ連の時代とそれ以降より、ロシア帝国時代の方が、「疑念」は社会の中に生きていた、ということになる。
しかしこれらの文を読み、日本はソ連の時代とそれ以降とよく似ていることを知ってしまった。日本の学校教育は、「疑念」を育てない。そういう教育がなされると・・・
現代ロシアでは、リベラルと呼ばれる人々とも、リベラルを侮蔑する人々とも対話が続けづらいことも多い。疑念の文化がないのだ。議論をする時も、その目的は相手を敵のようにみなして「言い負かす」ことのように思って人がとても多い。ほんの一歩でもいいから(もしそれが可能なら)正解に近づくために話をしようという努力をしない。
ロシアのプロパガンダマシーンがあんなに効率よく効果を発揮しているのは、社会に疑念の生きる余地がないせいのように思われる。よけいなことをしても無駄だという社会構造。テレビ視聴者は、国営放送が見せるものを疑うだけの余裕を与えられていない。国営放送のスタッフの大半は、自分たちの仕事によって何かが変わることなどないと考え、国家が命じる方針を疑いもしない。
何とまあ、日本とロシアがかくも似ているとは。
現代のロシアの社会は反対意見に結びつくような「疑問」そのものが、あがってこない構造になっているのだということだ。
大きな間違いを犯したロシア、それと相似的な日本、日本も又、ロシアのような間違いをしでかすのではないかと、「疑念」を私は持ってしまうのだ。
地方自治法第一条の2には、「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」とある。
しかし現実の地方公共団体は、大日本帝国憲法下と同様に統治機構の一環として、住民を管理統制し、税などを収奪する機関となっている。したがって、地方公共団体は、「住民の福祉の増進」ではなく、企業や政府の方に眼を向けている。地方公共団体に勤める公務員は、政府や企業の下働きをする仕事に従事している。
その端的な例が、調布市である。『東京新聞』の記事を見ると、調布市の公務員は企業のためにスパイ行為をも行っているようだ。
調布陥没 市民との「面談メモ」 市職員、一字一句漏らさず業者に提供 住民が情報開示請求で文書入手
調布市当局の東京外郭環状道路(外環道)工事に関わっての振る舞いは、地方公共団体の役割を象徴しているかのようだ。
しかしこれは調布市だけではなく、どこでも同じである。住民は統治の対象であり、統治に関わる経費を納めさせる対象であり、住民は手段でしかない。住民は目的ではないから、住民がどれほど苦しもうと地方公共団体は関知しない。
住民が不当なことは不当であると抗議しない限り、地方公共団体はその姿勢を改めることはしない。
住民運動を今一度広く展開して行く必要がある。
南丹市という都市があることを、最近まで知らなかった。
南丹市の近くに京丹波町がある。その須知に、昔岩崎革也という人物が住んでいた。銀行家であり、地域の政治家でもあった。
岩崎は、「初期社会主義者」といわれる幸徳秋水、大杉栄、堺利彦らと親交があった。そのため、岩崎家には彼らからの書簡がたくさん残されていた。地域の研究者を中心に、それらの書簡を解読していたが、岩崎家は道路の拡張工事もあり、また老朽化が進んで取り壊されることとなった。
問題はその書簡類である。その書簡類を保存公開する役割を果たしたのが、南丹市立文化博物館である。さらに同博物館は、その書簡類を解読し、『岩崎革也宛書簡集』を4回にわたって発行し、さらにその解説編をも発行した。
京丹波町は南丹市に隣接する。その町の貴重な資料の保存公開に大いなる力を発揮した南丹市、その仕事に感心していた。
しかしその南丹市が、特異な人物を「観光大使」に任命したという。
地方行政というのは、無思想、無原則、何でもあり、というのが一般的なのであろうか。
『現代思想』の「ウクライナから問う」を読み進めているが、白井聡の「未来なき社会はおぞましい夢を見る」を読みおえたとき、『日刊ゲンダイ』の次の記事にあたった。
「山口・阿武町4630万円誤送金「元ギャンブル狂」24歳男が単身で清貧生活を送っていたワケ」
私はこの事件については、詳しく知ろうとも思わなかった。バカらしくて、またおぞましい事件だと思ったからだ。阿武町の担当職員のエラー、それをチェックする機能もない役所、振込を担当した金融機関も「おかしい」と感じることもなく、ひとりの若者に全額を振り込んだ。そしてその若者はほぼ全額をギャンブルにつかったという。
阿武町にその若者が棲みついたのは阿武町には若者が少なく、空き家も増えていて、若者を中心に住んでくれる人を募ったからだ。阿武町には未来が消えかかっていた。だから未来をなんとしてでも引きよせようとしていたのだ。
そしてその若者も、この記事が確かなら、パチンコというギャンブルに耽っていたそうだ。ギャンブルも、未来がない。振り込まれたカネをつかって、彼もまた未来を引きよせようとした。ギャンブルでうまくいけば儲けることができる、と。
未来がない日本に起きた事件である。そしてこのような事件はどこでも起こりうるように思える。役所の人員削減で仕事が過重となり、またチェック体制構築に人員を割くことができない、金融機関も窓口にいるのは非正規の人が多い。低賃金に苦しむ若者が、一攫千金により貧困から脱しようとする。
健全なシステム、健全な思考、健全な生き方が、崩壊している社会。
ロシアのウクライナ侵攻も、ロシアに未来がないことを背景としている、と白井は指摘する。「経済面では新しい産業は育たず、化石燃料を主とする天然資源頼り、人口減少は歯止めがかからない。衰退しつつある国でしかないのだ。ロシアの、大国たるべきロシアという自画像とその実際との間には大きな落差がある。」
しかしロシアについての記述は、日本にあてはまる。新しい産業が育ち始めても日本政府はそれを見殺しにし、自動車と原発に賭けて後者は失敗し、自動車産業だけが生きている。しかし他にはない。人口減少はとどまるところを知らない。かつての「経済大国」は、すでに過去のものとなり、再び「経済大国」になる可能性はない。まさに衰退しつつある国、日本。
衰退しつつある日本の社会に起きたこの事件、ある意味、象徴的である。
ロシアと同じように、日本も「過去の栄光」に走るのだろうか。「過去の栄光」というとき、それは「経済大国」の時代なのか、それとも日清・日露戦争で「大日本帝国」を築き上げた時代なのか。知性に欠ける支配層は、後者に「未来」を見ようとしているようだ。しかしその「未来」は、ロシアがその結末を見せている。そうした「未来」に、ほんとうの未来はないのだと。
「ただちに戦争をやめよ」という主張は正しい。私もそう思う。しかいそれを誰に主張するのだろうか。
誰にと言うとき、それはロシアに対してのみ正しい主張となる。ウクライナにそれを言えば、それは「ロシアに降伏しなさい」ということと同じことになる。
また両者に呼びかけることは、一面正しい。しかし順序として、まずロシアが戦争をやめることが必要だ。それがあってはじめてウクライナも戦争をやめることができる。
まず前提としなければいけないことは、ロシアが軍事侵略をおこなってきたのであり、それがなければ戦争は起こらなかったということだ。
国際法的には、ウクライナは自衛権を行使しているのであって、その行動は合法である。
自衛権を行使することすら放棄せよという意見もあるが、ロシア軍の侵攻は、当初からウクライナの人びとに銃を向け(そして殺戮し)、ウクライナの人びとが生活しているその場所を破壊しまくったことを考えると、ウクライナの人びとが武器をとって抵抗することは非難できないし、ロシアの侵略に対してどういう抵抗をするかは、ウクライナの人びとが決めることである。
今までリベラルといわれていた人びとの主張のなかに、ロシアの要求を認めてあげれば、というものもあり、ロシアに手を差し伸べようとする傾向が強いように思われる。ロシア側に何らかの理があろうと、武力侵攻した時点でその理を主張することはできなくなったはずだ。軍事力で現状を変改することは、国際法で厳に禁止されているからだ。ロシアがみずから正しいと思われる理を主張したければ、軍事侵攻をやめ、撤退し、ウクライナの人びとに補償したあとですればいい。
その段階で、国際的に、ロシアのウクライナ侵攻についての検討がなされ、そのなかでウクライナ側の非も出てくるだろう。
とにかく、とにかく、ロシアが軍事侵攻をやめなければ、ことは始まらないのだ。
※ここに訳出したのは、『現代思想』6月臨時増刊「ウクライナから問う」の加藤有子の論文「ウクライナ文化の危機の特質 侵攻の口実にされた「文化」と時代錯誤の植民地主義」に引用されていたもので、これは読む価値があるだろうと判断した。ウクライナ文学にまったく無知の私ではあるが、ウクライナの文学がロシアの圧力の下で苦しんできた経過がある程度認識できるのではないかと思った次第である。
著者のUilleam Blackerは、 ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのスラブ・東欧研究科で東欧の比較文化論を担当する准教授。
何世紀にもわたって、ウクライナの作家たちは、密かに、大胆に、風刺的に、自分たちの民族文化を抹殺しようとする試みを退けてきた。
2月26日、ロシア軍がキエフに侵攻しようとしたとき、ミサイルが降り注いだ。ウクライナで最も著名な文芸評論家の一人であるタマラ・フンドロヴァは、戦闘が小康状態にある間、ラップトップの前に落ち着いて座り、世紀末詩人・劇作家の代表格であるウクライナのモダニスト作家レシア・ウクランカについてのオンライン講義を行っていた。
ウクランカは、ウクライナの小学生なら誰でも読むような、愛国心にあふれた若々しい詩というだけに単純化されている。しかし、フンドロヴァは、彼女を複雑な劇作家であり、フェミニストであり、反植民地主義的思想家であると語った。最後に、彼女はため息をついて言った。
「まさか爆弾に怯えて廊下の床で眠り、爆発音で目を覚まし、子供たちが遊び場ではなく防空壕で遊んでいる最前線のキエフからあなたと話をすることになるとは思いませんでした。でも、ウクライナ人の勇気には驚かされます。みんな、こんなにも信念と愛を持って、防衛隊員を助けようとしてくれているのです。プーチンのこの戦争は、ウクライナ人を本当のウクライナ人にしてしまったんです。」
ウクライナ人は、何世紀もの帝国の支配の後、自分たちの文化、言語、制度を確立するために、ウクライナ人になる必要があるとよく口にする。しかし、ウクライナ人が「まだ侵進行中」と思っていることを、ロシアは「弱い」と解釈している。ロシアは、ウクライナを歴史の不幸な出来事としか見ていない。実際、プーチンは戦車を投入する前、テレビで1時間近く、ウクライナは、「我々の歴史的な領域」に対して欧米がしかけた「反ロシア」に過ぎない、とロシア人に説得していた。
ウクライナのナショナル・アイデンティティは偶然の産物でもなければ、西洋によって発明されたものでもない。しかし、何世紀にもわたって、ウクライナ人は自分たちの文化を抹殺しようとする試みをかわすのに苦心してきた。19世紀初頭、ロシアの出版社はウクライナの文学を、民族誌、喜劇、非政治的なものに限って受け入れていた(真面目な文学はロシア語でなければならなかった)。1863年と1876年に相次いで制定された法律により、ウクライナ語の作品はすべて事実上禁止され、公共の場でもほぼ完全に禁止された。1930年代、スターリンは、それ以前の10年間にウクライナの文学文化を再建してきた作家たちを一挙に処刑し、同国の活気ある前衛芸術の発展を無残に断ち切った。
ウクライナ文学の歴史は、帝国の横暴に対抗する物語である。ウクライナの作家たちは、ロシア帝国が課した制約の中で、文学文化らしきものを作り出すために、しばしば慎重な姿勢で仕事に取り組んだ。また、ロシア語で書かれた作品を通して、ウクライナ人らしさを表現しようとすることもあった。ロシア帝国主義を正面から批判し、そのために苦悩する者もいた。ウクライナを取るに足らない存在にしようとする人たちの傲慢さをただ笑う者もいた。
ニコライ・ゴーゴリ(ウクライナ語ではミコラ・ホホール)ほど、ユーモアでウクライナのアイデンティティを主張した人物はいない。1830年代前半に発表されたゴーゴリの初期の作品は、ウクライナの村の生活を描いた騒々しくカラフルな喜劇だったが、彼はそれをサンクトペテルブルクやモスクワの読者に向けてロシア語で書いた。彼の代表作のひとつ「クリスマス・イブ」では、ウクライナのコサックたちがサンクトペテルブルクのエカテリーナ大帝を訪ねる。文化的、言語的な誤解を含んだコミカルな会話の中で、政治の話もちらほらと出てくる。コサックたちは、なぜエカテリーナが自分たちの自治権を破壊したのか(1775年に実際に起こった出来事)、その理由を知りたがるのだ。しかし、彼女が返事をする前に、物語は無事に滑稽な領域へと戻っていった。多くのロシアの読者は、この出会いを、宮殿と皇后の壮大さに圧倒されたコサックたちの単純さを原因とした冗談に過ぎないと考えただろう。ウクライナ人にとっては、権威に屈しないコサックのトリックスターという民俗的伝統が活かされた作品である。
この帝国への不遜な態度は、19世紀半ばから後半にかけてのウクライナ文学の土台となるものであった。ウクライナの国民的詩人であるタラス・シェフチェンコやウクランカは、ゴーゴリのような忠実な作家とは異なり、このような反抗をあからさまにしていた。シェフチェンコは農奴として生まれ、農民の生活がゴーゴリの陽気な牧歌とは全く違うものであることを知っていた。彼は同胞に宛てた詩の中で、「君は深く笑っているが、私は泣かなければならない」と叱っている。シェフチェンコは、帝国と帝国による少数民族への弾圧を激しく非難し、妥協を許さない。例えば「コーカサス」という詩では、「モルダヴィア人からフィン人まで/沈黙はすべての舌に宿る」と書いている。このような姿勢から、シェフチェンコは逮捕され、兵役につき、10年間も執筆を禁じられた。
ウクランカは、植民地主義を批判し、フェミニズムの思想を体現した作品を通じて、帝国の制約や固定観念に抗ったのである。スペイン、トロイ、バビロンを舞台にした彼女のドラマは、偏狭にならざるを得なかった文学に、ヨーロッパと世界の文化をもたらした。
ウクライナの知識人の中には、彼女がウクライナの題材を無視していると批判する人もいた。しかし、彼女はウクライナの歴史に関する戯曲を1本書いている。「貴婦人」は、コサックの指導者ボフダン・フメルヌィツキーが、ウクライナをポーランドの支配から解放するためにモスクワと有名かつ運命的な同盟を結んだ17世紀を舞台にした詩によるドラマである。モスクワの宮廷に仕えるウクライナ人貴族との結婚を承諾したコサック人女性オクサナは、「異国の地」での生活への不安を解消しようとする。「異国の地というほどでもないでしょう? 宗教儀式は同じだし、言葉もなんとなくわかるし」。
彼女は勘違いしている。モスクワでは、オクサナは男性と対等に話すことを許されず、人前では顔を隠すことを強要され、一人で外出することはできない。外国人である彼女は、好奇心の対象であり、理解されない存在である。包囲されたキエフからの講演でフンドロヴァが述べたように、彼女は、ウクライナ文化がウクライナ人自らの時代の帝国文化の想像力の中でカラフルな装飾に還元されたのと同じように、見るべき、聞かざるべき異国の物体として扱われているのである。ウクライナが混乱と紛争に陥っているため、オクサナは落ち込むが、故郷には帰れない。「ウクライナはモスクワのブーツの下で血を流している。これが『平和』ってやつか?荒廃した廃棄物か?」モスクワとの連携はウクライナにとって悲劇であるというこの劇のメッセージは、帝国の公式な歴史記述と真っ向から対立し、帝国の崩壊後まで出版も上演もされなかった。興味深いことに、ソ連版ウクライナの作品には、この戯曲が省略されている。
1991年のウクライナ独立後、ウクライナ語は新しい世代の作家や思想家に大きなインスピレーションを与え、フンドロヴァもその一人であった。ポストコロニアリズムやフェミニズムといった世界的な潮流が、民主化されたばかりのウクライナに流れ込むと、地元の知識人たちはすぐにこれらの「新しい」アイデアにウクライナを見出したのである。例えば、ウクライナで最も優れた小説家の一人であり、ウクライナの伝記作家でもあるオクサナ・ザブジコは、1996年に発表した小説『ウクライナの性のフィールドワーク』でこのテーマを追求し、独立初期の女性詩人と男性芸術家の波乱に満ちたロマンスを描いてウクライナ初のベストセラーとなった。
主人公にとって、ナショナル・アイデンティティの保持とロシア化への抵抗は、政治的なものだけでなく、彼女のパートナー選びや子供を持つことへの願望を左右するプライベートで親密な問題でもある。
「そして、私たちは彼(彼らの子供)を守ることができるのでしょうか?この不幸なウクライナの知識人たちは、歴史上、強制的に抑え込まれ、ほんの一握りで、しかも散り散りになってしまったのです。」
しかし、『貴婦人』と同様に、個人と国家の解放を切望する女性の主人公は、帝国の影から抜け出すことのできない男性によって挫折させられる。ウクライナの劇では、オクサナの夫は皇帝の接待のためにウクライナの歌や踊りを喜んで披露する卑しい存在であり、ザブジコの小説では、芸術家は支配国の国民によくある劣等感にさいなまれている。 これらの作品では、女性の登場人物はウクライナのアイデンティティを強く意識し、男性の登場人物は帝国に屈服することへの警告の役割を担っている。
講演の中で、ウクライナ人の不運なオクサナについて語るとき、フンドロヴァは突然、学術的な調子を崩した。オクサナが声なき物体として扱われる『貴婦人』の核心である文化の致命的な衝突を、今日の戦争に結びつけたとき、彼女の声はより切迫したものになった。ロシアは、何世紀にもわたって、ウクライナを認識することも聞くことも拒否し、ウクライナの存在をそれ自身の言葉で受け入れることも拒否してきた。あの日、キエフの街にいた人々は、その衝突の暴力的な表出を感じ取ることができた。しかし、ウクランカからザブジコに至る作家たちの作品が示すように、その暴力はウクライナ人を刺激し、より力強く、独創的で、不遜なウクライナ人としてのあり方を見出させるだけなのだ。
私は、今まで自治体史の編纂で近現代史を担当してきた。私の視点は、「大日本帝国」を地域が担ったという視点から、自治体史が陥りがちな当該地域のみの歴史ではなく、当該地域に生きた人びとがどこに行き、どういうことをしたのか、あるいは当該地域に入ってきた人たちはどういうことを強いられたのか・・・・ということを書いてきた。当該地域の人びとは外国にたくさん行っていた。戦争をするためであった。女性も従軍看護師として外国に行っていた。
その彼らが残した手紙や生きて帰って来れた元兵士が記した従軍記などを、その戦争の全体の動きに位置づけて記していった。戦場に動員された人びとは、自分自身がどういう戦争に参加したのか、どういう「敵」と戦ったのか、参加した戦闘がどういう位置にあったのかなど、マクロに見ることはできなかった。国家や上官の命令によって、蟻のように這いずり回って戦った。
いつも書いていて思ったことは、戦争は悲惨であり、残酷であり、そこに何らの意義も見つけられないということだった。ミクロな戦争をみつめながら、戦争はしてはいけない、戦争に反対し、平和を維持しなければならないということであった。
戦争が起きると、庶民が苦しむ。しかし他方、戦争によって肥え太る者もいる。肥え太る者は、しかし戦場には行かない。
だから、だから庶民は戦争をしてはいけない。
ウクライナでの戦争、できるだけ早く止まって欲しいと思う。ロシア軍の侵略・蛮行に抵抗するウクライナの人びとに思いを馳せながら、侵略を始めたロシアの支配層は何をしているのかと思う。彼ら支配層のなかで、理性的にものを考えることができる者はいないのか。ロシアがこの戦争で得るものはない。国際的に非難され、経済的な制裁を受け、ロシアの庶民は兵士とされて死傷し、ロシア軍が一般的に思われていたほどの力を持っていないことが暴露され、この戦争でロシアの目的は達せられないことがほぼ明確になっている。もうやめるべきだ。
やっと、ロシアの支配層のなかから、プーチンの戦争を批判する者が出て来たようだ。国際法を踏みにじり、ウクライナの人びとを殺戮し、生活の場を破壊した責任を、ロシアは負わなければならない。
『現代思想』6月臨時増刊号「ウクライナから問う」は、本そのものも重厚であるが、内容もそれに劣らずである。いろいろなことを考えさせる材料を提供してくれる。
今までロシア史については、一般書『興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地』(講談社)のほかは、ロシア革命に関するものしか読んで来なかった。しかし、今回のロシアのウクライナ侵攻を理解するためには、ロシア帝国、ソ連、そしてロシアの長期にわたるロシアの歴史に対する知識が必要であることを、とりわけこの本の「境界の歴史」に関わる論考により知ることができた。
プーチンはロシアとウクライナは「一体」であることを主張していた。しかしウクライナは「独立」した民族であることを主張する言説もあった。その経緯を描いているのが、村田優樹による「20世紀初頭のウクライナ・ナショナリズムとロシア・ナショナリズム 「独立説」と「一体説」の系譜」である。ロシア、ウクライナとも、国民国家(nation state)論では割り切れない地域であるということである。そしてウクライナの「独立」は、ロシア革命後の国家権力によって採用されたものであり、それ以後の歴史の中でウクライナが分節化されてきたというわけだ。
ところで、海に囲まれた日本列島に住む私たちにとって、驚きの事実が、アベル・ポレーゼの「困難な戦争避難も次には慣れていく」という文に記されている。イタリア生まれのポレーゼはウクライナを調査地としている、戦禍のウクライナから避難してきた学者である。彼は、ウクライナの民族構成は複雑で、ロシア人、ウクライナ系ポーランド人、ブルガリア人、ルーマニア人などが住み、オデッサ近くではドイツ人、フランス人、スイス人の村があるという。もちろん、ユダヤ人も住んでいる。多様な民族、歴史、文化、言語をもった国がウクライナなのである。そしてウクライナの原義は、「境界地帯」だそうである。
中村唯史は「実体化する境界」において、次のような事実を示す。
ハリキウ/ハリコフに住んでいたロシア人家族が戦火を避けてポーランド国境まで移動し、女性はそこに留まって避難民となり、男性は取って返してウクライナ軍兵士としてロシア軍と戦っているとき、この二項対立の図式の「ロシア」とは、「ウクライナ」とはいったい何か。
凄まじい破壊と殺戮が行われたマリウポリはー
この市の住民の三分の一がロシア人であり、6割を占めるウクライナ人も含めた全市民の9割以上がロシア語を主要な使用言語としていることは、ほとんど報じられていない。「ロシアーウクライナ」の図式は、ロシア軍の無差別攻撃によって、ウクライナ人だけでなく相当数のロシア系市民、ロシア語話者が死傷し、避難している事実を、人びとの視野から覆い隠している。
ロシアのウクライナ侵攻という事件は、ウクライナは多様な民族構成をもっているにもかかわらず、「ウクライナ国民」というアイデンティティーを打ち立てることになるだろう。「国民国家」(nation state)が「想像の共同体」であることが納得可能な事態ではある。
プーチンの野蛮な企みは、「ウクライナ国民」をたちあげ、今まで中立であったフィンランドやスウェーデンをNATO加盟へと走らせた。そして世界を震撼させ、国際秩序の破壊となって現れた。
しかしそのような結果がある程度予想できたにもかかわらず、なぜプーチン政権は軍事侵攻を開始したのか。
「ウクライナから問う」の『現代思想』の巻頭は、ウクライナの詩人の「ブチャの後で」という文である。
その文の最初に、ドイツの思想家、音楽家、哲学者・・が並べられる。そのような人たちを擁するドイツ国民は、アウシュビッツなど「ホロコーストの現象」などに対して、「何ら責任を負うことはない」とある。
これはフランクフルト学派のアドルノの「アウシュビッツの後で、詩を書くことは野蛮だ」ということばを意識している。
チャイコフスキーやプーシキン、トルストイ、ドストエフスキー・・・・・ロシアは、無数の文化人を輩出している。
ロシアの文化とロシアのこの蛮行は、果たして無関係なのか。プーチンを生み出したロシア(ロシアの人びと)には、「責任」はないのか。
このような問いを突きつける。何ということだ。このような問いは、近代日本が行ってきた無数の蛮行の「責任」を、オマエはどう考えるのかという「詰問」につながる。
きわめて重い問いである。ウクライナの詩人、ユーリイ・アンドルホヴィチの「ブチャの後で」は、まさに「ウクライナから問う」ている。