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それでも関西人は維新がお好き。
日本共産党の党首を公選制にすべきだという意見が、「分派」として処分された。
松竹伸幸さんという共産党員が、『シン・日本共産党宣言』(文春新書)という著書で、党首公選制を訴えた。ところが、それは日本共産党の組織原則に反するということで、「除名」という重い処分を行った。
私はこれに驚かない。そういう結果になるだろうなと思っていた。何といっても共産党は「鉄の規律」をもっていて、異論があっても組織内部で議論すべきである、という原則を持っている。きっと異論は、「民主集中制」という組織原則の中では必ず抹殺される。
党員が異なった異見を持ったとき、その異見をまず主張するのは支部である。昔は「細胞」といっていた。そこから上級機関に伝えられていくのだが、当然異見を持つ者は少なく、その異見は上部に到達する前に消えていく。
共産党組織と運動を行ったことがあるが、下部の人びとと仲よくやっていても、上部から「一緒にやらない」という方針が出てこればそれでお終い。「一緒にやる」という意思を持った人が上部にいれば良いが、そうでなければ「一緒にやる」という方針は蹴られてしまう。共産党はどこでも同じだというほどの智識はもっていないが、私の経験からすると、共産党は、その運動の主導権を握らなければならないようで、主導権を握らない場合、共産党は「共闘」から去って行く。
「民主集中制」という組織原則の実態は、結局は上意下達である。下からの異見や異論は、組織内を通るなかで消えていく。しかし上位からの意思伝達は消えない。要するに、下部の党員は上意下達のなかで上意のままに行動することでしかない。
日本共産党は、この「除名処分」で、一般社会の常識とかけ離れた組織原則をもつ組織として、おそらく嫌悪されることだろう。
2009年刊行。今年の私の研究テーマは、「近代日本国家の分岐点」である。明治維新を契機に成立した近代日本国家は、急速に帝国化し大日本帝国として確立した。しかし、その大日本帝国は、1945年に崩壊した。大日本帝国が崩壊へと向かう分岐点は、いつで、それはどのようなものであっただろうか、というのが、その趣旨である。
1920年代を崩壊への助走、30年代を崩壊が必然化した時代として、今は考えている。
なぜこうしたテーマを掲げたかというと、1945年に生みだされた戦後日本国家が、まさに今、崩壊へとひたすら歩もうとしているからだ。それに、日本の支配層は、崩壊へと向かい始めるとそれをさらに促進させるような政策を展開する。それは今も同様だと考えるからだ。
さて本書はそのテーマを考えるために読んだものだ。大日本帝国の崩壊の途を考えるには、崩壊そのものを広い視野からまず見てみようと思ったのだが、本書はその問題意識に沿ったものであった。まずは読んでよかった。
今までもこれに関しての本を読んできたが、新しい事実がたくさん書かれていた。勉強になった。崩壊前後の東京、京城、台北、重慶・新京、南洋群島・樺太を叙述するに際して、それぞれの都市に関係する国々(その指導者)の動向をしっかりとつかみ、それを織り込んで叙述している。
私は、大日本帝国崩壊時の樺太の状況についてはまったく無知であった。ソ連という国家が「社会主義の祖国」として祀りあげられた歴史は、しっかりと消されなければならない。「満洲」に侵攻したロシア軍の蛮行はすでに多く語られているが、樺太についてはあまり知られていない。ソ連は、共産党が支配する国家を最高のものと考え、正義や「社会主義」の原理を視野の外に置き、周辺の国々に対して帝国主義的に行動したことが、樺太でも証明されていた。
残念ながら、1945年の樺太について書かれたものはあまりないようだ。
著者は、大日本帝国の悪をきちんと認識しながら、さらに日本の指導層の無能さを指摘し、そのうえで広い視野で崩壊を捉えている。
大日本帝国の崩壊は、東アジアを含めた世界的な関連の中で考えなければならないことを教えられた。
良い本である。
差別発言をしてクビになった荒井勝喜。この人、『選択』で何度か報じられている。
「罪深きはこの官僚」のシリーズで、台湾の半導体企業の誘致問題で報じられたり(2021年12月号)、昨年12月号では、「官邸の「問題児」荒井勝喜秘書官が旧統一教会法案で謎の抵抗」というかたちで報じられている。
今回の問題発言と関連させると、ひょっとしたら荒井秘書官は、統一教会関係者なのではないかと思ってしまう。
傲慢きわまりないこの秘書官。そしてその子ども。エリート意識は、階級意識へと発展し、庶民を蔑むまでになっているこの現実。差別一家!!
故海野福寿氏が1995年に岩波新書から『韓国併合』を出版して以来の新書での発行である。
海野氏は、もちろん大日本帝国による朝鮮植民地支配は不当であり、日本は謝罪すべきであると考えながら、あくまでも実証的に韓国併合への動きを描きだした。 そして本書で、森氏は主に韓国の資料をもとに韓国併合の動きを描きだした。
私は、在日朝鮮人史、日韓関係の歴史について学んでいたから、当然韓国併合の歴史を学んでいる。一応そうした知識を持つ者としてこの本を見るならば、今まで明らかになっていなかった新しい事実が記されていることは確かである。
韓国併合の歴史を知るためには有益な本ではある。しかし、朝鮮植民地支配に対する日本人としての反省めいたものはなく、若い研究者らしい内容であった。しかしそうではあっても、朝鮮の人びとが日本の支配を歓迎しなかったこと、日本による朝鮮支配が強引であったことについての指摘は、当然記されている。それが歴史的事実であるからだ。
韓国併合について、私は海野さんの本を薦めるが、今は出版されているかどうかわからないので、この本でも学べるので、ぜひ学んで欲しいと思う。
『東京新聞』は、中日新聞東京本社が発行している。中日新聞東海本社がすぐ近くにあるわが家はその『東京新聞』を購読している。いろいろな問題に斬り込んでいる『東京新聞』から知ること、学ぶことは多い。友人に紹介したら、静岡県内の彼らも『東京新聞』を購読し始めている。
さて、時々東海本社発行の『中日新聞』を「見る」ことがあるが、これはジャーナリズムの片鱗もない代物である。要するに矛盾も何もない地域ネタをふんだんにいっぱい並べているだけである。だから「読む」のではなく「見る」だけの新聞である。ある種、地域の団体や個人の広報機関となっている。行政に対する批判記事なんかほとんどない。その点では、まだ『静岡新聞』のほうに批判的な記事があるから驚きだ。取材対象となった団体や個人だけが「読み」、他の人びとは「見る」だけの新聞である。
浜松市にも市民運動はあるが、その市民運動の記事は載ってもベタ記事である。記者はもっと長い記事を書いているのであろうが、紙面ではまったく目立たない。
地域の葛藤や矛盾をほとんど報じない東海本社発行の『中日新聞』。
以前複数の自治体史の編纂に関わってきた際には、史料がないときには、新聞資料を活用してきた。がしかし、『中日新聞』東海本社版は、史料価値のない事項をあえて選んで掲載しているとしか思えない。
ただ『中日新聞』東海本社版は、近年はそういう状況だが、以前はそうではなかった。
現在の『中日新聞』東海本社版は、読む価値はない。