「福田平八郎展」 京都国立近代美術館

京都国立近代美術館京都市左京区岡崎円勝寺町
「福田平八郎展」
4/24-6/3



竹橋の近代美術館で「雨」(1953、下二つ目の画像。)を見て以来、いつかは回顧展に接したいと思う画家の一人でした。主に大正より昭和期に活躍した日本画家、福田平八郎(1892-1974)の全貌を詳らかにします。初期より晩年の作、約80点にて構成された展覧会です。



福田の画業を通して見たのは今回が初めてですが、花鳥画の伝統を思わせる初期の作品から、桃山障壁画に影響を受けたとされる(パンフレットより。)「閑院待春」、それに抽象の妙味も混じる「漣」や「雨」、さらには晩年の色鮮やかな「鸚哥(いんこ)」など、想像以上に作風の変遷が著しいと感じました。率直に申し上げると、初期の写実的なものはともかく、まるでゴーギャンを見るような激しい色遣いの晩年にはついていけません。と言うことで、惹かれるものを感じたのは、主に1950年代前から61年の「花の習作」あたりまででした。もちろんそこにかの「雨」も含まれているわけなのです。



一見しただけでは、タイトルを何故「瓦」としなかったのだろうと思ってしまいますが、その表面を目で丹念に追うと、確かに雨粒の痕跡が驚くほど繊細なタッチにて表現されています。そしてもちろん雨の染みだけではなく、瓦のひび割れから汚れ具合までもが、ほぼモノトーンを思わせる色調にて細やかに描かれているのです。また瓦の積み重なる様子も、半ばパターン化された黒の面の連なりだけで示されています。瓦をこのようにトリミングしてしまう発想の大胆さと、それを裏付ける筆の確かさにはもはや驚嘆するほかありません。



比較的初期の「漣」(1932)も、当時、全く理解されなかったというのにも納得するほど斬新極まりない作品でした。支持体は銀地で、そこへまるで木版の彫り跡のような青い線がゆらゆらと靡いています。間隔は奥(上)へ向うほどせめぎ合い、手前では余白を用いながら切れ切れになって描かれていました。その抽象的な感覚は、これを波とだけ捉えるのが勿体ないほど多様なイメージを想起させますが、あえて言うのであれば、陽の光を受けてキラキラと反射する水面の移ろいが表現されているのだと思います。



図版や画像では福田平太郎の繊細さは全く伝わりませんが、その最たるものがこの「新雪」(1948)の豊かな味わいです。しっとりと潤う牡丹雪が、石や地面を優しく包み込んでいます。降り積もる雪の肌触りはもちろんのこと、控えめな白銀に覆われたその場の静けさすら伝わってきました。



魚のモチーフが頻出していましたが、中でもこの「鮎」(1950)は強く印象に残ります。写実的なようでもあり、またまるで紙細工の魚でもあるような鮎が、上下逆になりながらリズミカルに配されていました。それに、うっすらと水色を帯びた葉の描写にも惹かれます。洒落ています。



上の作品の13年後に描かれた「鮎」(1963)はどうでしょうか。もはや日本画の写実性を越えた、いわば色彩分割にも力強さを感じる作品ですが、やはり私の感性に合うのは、もう一歩手前の写実を残した50年の「鮎」のようです。晩年の平八郎の関心の所在は色にあったのかもしれません。「漣」や「雨」で見せたような、半ば計算高い「形」の世界が、もっと開放された「色」の世界へと突き進んでいきます。



「花の習作」(1961)も良品でした。水面の部分の描写には、63年の「鮎」に見るような大胆なタッチも見られますが、全体のトーンはまだ写実にとどまっています。一面に散るのは桜の花びらでしょうか。縦方向へのびる菖蒲も画面に良いアクセントを与えていました。

日本画好きには是非おすすめしたい展覧会です。6月3日まで開催されています。(5/12)
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