「日展100年」 国立新美術館

国立新美術館港区六本木7-22-2
「日展100年 - 一目でわかる!日本の美術この100年 - 」
7/25-9/3



日展へは一度も足を運んだことがありませんが、その100年の歴史が「一目でわかる!」というので行って見ることにしました。国立新美術館で開催中の「日展100年」展です。

広大な国立新美術館の展示室を活用した展覧会です。日本画、洋画、工芸、それに書や彫刻など、各ジャンルより集められた作品が約170点ほど揃っています。その長い歴史を踏まえれば当然ではありますが、さすがにボリュームは相当のものがありました。ただし構成はかなり大まかで、キャプション等にもそう詳細な説明書きがあるわけでもありません。大観や松園、波山や福田平八郎などの既知の作家から、私としては全く未知の方々まで、まずは惹かれる作品を探しながらうろうろと歩くことにしました。以下は、展覧会の章立てです。

第1章 文展(1910~1918)
第2章 帝展(1919~1934)
第3章 新文展(1936~1944)
第4章 日展(1946~)

*日展史については公式HPをご参照下さい。簡単な図解入りです。



まずは、殆ど衝撃的ですらある松園の「花がたみ」(1915。第9回文展。)をあげないわけにはいきません。松園と言えば、気品のある、清楚な女性を描くことに長けた画家ですが、こればかりはその鬼気迫る表情に魔性的なものすら感じます。世阿弥作の謡曲「花筐(はながたみ)」を題にして登場するこの女性は、大迹辺(おおあとべ)皇子(のちの継体天皇)の寵愛を受けていたという「照日の前」で、ここではおそらく紅葉狩りに訪れた帝の前にて形見の花筐を持って舞う様子が描かれています。艶やかな衣もはだけ、髪もまとまらずに、どこか目も落ち着かないで虚ろに佇む姿は、まさに叶わぬ恋に狂い、恋に取り憑かれたとも言える女性そのものです。また、手より落とした扇子や散る紅葉が、その儚さをも巧みに演出しています。一風変わった松園と言えば東博の「焔」も有名ですが、それと同じくらい妖気を感じました。これは間違いなく傑作です。



黒田清輝はやや苦手意識のある画家ですが、この「夏草」(1911年。第5回文展。)には素直に惹かれました。一面の草に覆われた地面に、ピンク色にも交じる百合が三、四輪、美しく咲いています。颯爽としたタッチによる草の表現はもちろんのこと、決して自己主張し過ぎない百合の仄かな存在感が好印象でした。ふと野山で腰をおろし、静かに百合の花を見やるように楽しめる作品です。



いつもはミルク色の釉薬の美しい波山に、思わぬドギツイ色をした壷が出品されていました。それがこの「紫金磁珍果文花瓶」(1927。帝展。)です。その端正なフォルムと果実のモチーフはまぎれもなく波山のものですが、色だけはどうしてもにわかに信じられません。これは彼に特有な鉄釉(黄金磁)によるものだそうですが、このような褐色をした波山を見たのは初めてだったので驚きました。



第4章「日展」では、やはり平八郎の「雨」(1953年。第9回日展。)が印象に残ります。この感想については以前、京都で見た回顧展の際にあげたので繰り返しませんが、いつ見てもそのトリミングの妙と瓦、または雨粒の質感に感心させられる作品です。この美術館の無機質極まりない空間で見ても、やはり心に染み入るような味わい深さを感じます。



松園と並んで大好きな近代日本美人画の巨匠、深水にも美しい作品が出ていました。「聞香」(1950年。第6回文展。)です。ちなみに聞香とは、香をかいで味わい、種をあてるなどして楽しむものですが、この作品でもちょうど真ん中の朱色の服を着た女性が鼻に香を近づけて楽しんでいます。そして、その姿を見やる二人の女性の仕草もまた丁寧なものです。膝に手をやり、帯も鮮やかな着物に包まれて静かに座っています



一瞬、どこを描いたのか分からないような構図をとる池田遙邨の「稲掛け」(1981年。第13回改組日展。)も面白い作品だと思いました。黄緑色の鮮やかな田の上に稲がちょうど『くの字型』で並んでいますが、それを横切るようにして進む狸が実に可愛らしく描かれています。稲の下を潜るのに難儀しているのか、体を妙なほどくねらせて這う姿は何とも滑稽です。そして左下にクローズアップされた猫じゃらし(?)が、画面全体に良いアクセントを与えていました。遠近感云々以前に、ほぼデザインとも化したモチーフです。

ここに挙げたような魅力的な作品があったのも事実ですが、ようは「日展の名画展」なのだと思います。各作家を突っ込んで紹介するような部分は一切ありません。展覧会自体はまさに総花的です。

9月3日までの開催です。(8/11)
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