「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋が陣取った松尾山城跡では「挑め!松尾山城AR」という企画が期間限定で開催されていました。
ARは合計10カ所あるARスポットで武将の家紋をカメラで読み取ると歴史学者の小和田哲男さんの解説が聞けるというものです。
「関ヶ原の戦い」は当初は西軍優勢であったとされますが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで一気に東軍の勝利に突き進んだと伝わります。
戦いに関する逸話には「問い鉄砲」や「宰相殿の空弁当」などがあり、裏舞台での逸話がいくつか残ります。
諸説ある中で、開戦前に小早川秀秋や吉川・毛利勢は家康に調略されていたという説が有名です。
合戦の陣形図を見ると、笹尾山に石田三成が陣取り北国街道を島津勢・小西行長が固めており、中山道は宇喜多秀家や大谷吉継が陣どる。
東軍は中山道に福島正則・井伊直正・藤堂高虎などが西軍と向き合い、家康は桃配山に陣取っています。
家康の背後の南宮山には吉川広家と毛利秀元がおり、松尾山にいる小早川秀秋と共に麓に陣取る赤座・小川・朽木・脇坂が東軍を攻めれば勝てた可能性があります。
しかし、松尾山の秀秋らは同じ西軍だった大谷吉継に攻撃を開始し、南宮山では吉川・毛利が動かず、安国寺・長束・長宗我部は本戦に参加出来ませんでした。
毛利・宇喜多・小早川・島津らが参加していた西軍はまともに戦えば勝機はあったのでしょうけど、戦いの前に各大名は家康の手中にあったようです。
登山道は最初は緩やかな勾配の林道を歩いて行くことになります。
林道の横には旧道らしい道がありましたが、その道は“行き止まり”と書かれており、この先には崩落個所があるようでした。
松尾山城は室町時代の応永年間に最初に築かれ、その後は織田信長に帰属して浅井長政が修築したが浅井氏討伐後は廃城となる。
三成の目論見では西軍総大将の毛利輝元を招き入れようとしたが動かず、関ヶ原の戦い前日に小早川秀秋が入城して西軍の喉元に小早川が陣取りました。
林道が終わると道は登山道に変わり、切れ落ちた崖の横の道を登って行くことになります。
登山道の脇に「山之神神社」と彫られた石碑が建っており、その上に小高いピークがありましたので寄り道して登ってみます。
広めのピークには祠が祀られており、麓の集落の「山之神」が祀られている場所のようでした。
ここから先はアップダウンの道と何ヶ所かの木段が続きます。
登るのが辛いような急な木段ではないものの、所々に段差の高い場所があるので登りやすい木段の脇の道を登って行きます。
紅葉は、黄色く焼けた葉の木が何本か残り、ほとんどの紅葉は落葉している状態でした。
不思議に感じたのは歩いている途中で甘い香りがする場所があり、花の季節ではないので樹液の香りかと思います。
しかし、一体あの香りは何の木から香っていたのか?
道にまたがっている枝には看板が吊るされ、“ようこそ!松尾山へ 山頂まで240M 頑張れ!”と書かれてありました。
登山道からの景観のない山でしたので、こういう看板は心が和みますね。
この日は年明けの雪が降る前でしたが、枯れ木の上やシダの葉の上に僅かに前夜に降ったらしい雪が残っていました。
地面と直接接していない部分(地熱を受けない部分)にだけ残るわずかな雪がこの冬初めて見た雪でした。
さらに木段は続きますが、一カ所だけ下りの木段があり、せっかく稼いだ高度が下がるのが何となく惜しかった。
階段は登るのに足の疲れを感じますが、下りる時にも膝に負担がかかります。
最後のカーブを曲がりながら登りきると松尾山城の主郭(本丸)のあった広い場所に到着します。
小早川軍は総勢1万5千人居たといいますが、ここには100名程度が限度ではないでしょうか。
他の兵は登山道や麓に分散して戦いの時を待っていたと想像されます。
関ヶ原を見降ろせる場所には三角点。
見晴らしの良い場所なので、ここから合戦の戦況を見極めて大谷軍に襲い掛かったのでしょう。
城跡遺構図を見ると現在居るのが主郭があり山頂でもある真ん中の位置です。
主郭の周囲には7つの曲輪があり、曲輪の遺構は東西400m、南北250mにわたっていることから松尾山城は美濃地方最大級の山城と呼ばれているようです。
また、城跡への道や周辺は切れ落ちた崖になっているため、鎧を付けて刀や槍を持って登るのは困難そうであり、松尾山城の堅固さを感じる所以となる。
「松尾山 小早川秀秋陣処古址」の石碑が残りますが、秀秋自身は西軍を裏切った卑怯者と罵られ、21歳でアルコール中毒で早世しています。
主郭跡の平坦地にどんな山城があったか知る由もありませんが、関ヶ原の戦いでは重要視されていた城として整備されていたと思われます。
城跡は主郭(本丸)を散策しただけなので全貌は分からないものの、土塁や虎口は現在も確認することが出来ました。
「桝形虎口」は、城の出入口になり、城内側にL字型に土塁が設けられています。
虎口をL字型にすることで直線的に侵入出来なくしてあり、南側からの敵の侵入を防御しています。
主郭は四方を土塁で囲んでおり、土が盛り上がったこの土塁は分かりやすい形をしています。
当方は城郭の素人ですので、堀切・空堀・土塁・虎口など案内板などがある場所は分かりますが、何も案内がないと判断に迷うばかりです。
この日は山頂で雨がパラついてきたりして天候に恵まれませんでしたが、山頂からは関ヶ原や山側の陣が見通せます。
ただこの位置にいて家康の「問い鉄砲」が確認出来たかは疑問なものの、麓の兵からの伝達があったと考えると有り得る話になります。
関ヶ原の平野を取り囲む山に積雪はないが、雲の切れ間から見える伊吹山は中腹まで白く見えます。
笹尾山には「石田三成の陣」が見えるものの、松尾山からは人の姿は確認出来るかもしれないが細かな動きは分からないと思います。
小早川秀秋が戦いを仕掛けた「大谷吉継の陣」は松尾山からよく見えます。
秀秋が攻撃を仕掛けた後、松尾山の麓に陣取っていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱・脇坂安治の4武将も東軍に寝返ります。
脇坂安治は戦いの前に家康に東軍に加担する内容の書状を送っており所領安堵。
赤座・小川・朽木の3将は、事前に裏切る意志を明確にしなかったため、改易または減封処分。
「返り忠」で味方についた人間は、現代社会だけでない戦国時代でも信用されることはないということ。
「関ヶ原の戦い」では西軍か東軍かで迷っているところに「問い鉄砲」で西軍に攻撃したとされますが、大谷吉継は初めから秀秋の寝返りを警戒していたともされます。
以前に訪れた「大谷吉継陣跡」からは秀秋の陣取る松尾山の様子が伺え、ここから秀秋軍の監視をしていたとの話にも説得力があります。
当方は元々は城跡ファンではなかったのですが、山登りなどで城跡を見る機会が多くなってきて関心を持ちました。
関ヶ原は建物や住宅は建ってはいるものの都市化されていないため、かつての古戦場の様子が思い浮かぶような一帯かと思います。
登場する戦国武将にも聞き馴染んだ名前が多く、気候の良い時に「関ヶ原の戦い」巡りをしてみるのも面白いかも知れませんね。
ARは合計10カ所あるARスポットで武将の家紋をカメラで読み取ると歴史学者の小和田哲男さんの解説が聞けるというものです。
「関ヶ原の戦い」は当初は西軍優勢であったとされますが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで一気に東軍の勝利に突き進んだと伝わります。
戦いに関する逸話には「問い鉄砲」や「宰相殿の空弁当」などがあり、裏舞台での逸話がいくつか残ります。
諸説ある中で、開戦前に小早川秀秋や吉川・毛利勢は家康に調略されていたという説が有名です。
合戦の陣形図を見ると、笹尾山に石田三成が陣取り北国街道を島津勢・小西行長が固めており、中山道は宇喜多秀家や大谷吉継が陣どる。
東軍は中山道に福島正則・井伊直正・藤堂高虎などが西軍と向き合い、家康は桃配山に陣取っています。
家康の背後の南宮山には吉川広家と毛利秀元がおり、松尾山にいる小早川秀秋と共に麓に陣取る赤座・小川・朽木・脇坂が東軍を攻めれば勝てた可能性があります。
しかし、松尾山の秀秋らは同じ西軍だった大谷吉継に攻撃を開始し、南宮山では吉川・毛利が動かず、安国寺・長束・長宗我部は本戦に参加出来ませんでした。
毛利・宇喜多・小早川・島津らが参加していた西軍はまともに戦えば勝機はあったのでしょうけど、戦いの前に各大名は家康の手中にあったようです。
登山道は最初は緩やかな勾配の林道を歩いて行くことになります。
林道の横には旧道らしい道がありましたが、その道は“行き止まり”と書かれており、この先には崩落個所があるようでした。
松尾山城は室町時代の応永年間に最初に築かれ、その後は織田信長に帰属して浅井長政が修築したが浅井氏討伐後は廃城となる。
三成の目論見では西軍総大将の毛利輝元を招き入れようとしたが動かず、関ヶ原の戦い前日に小早川秀秋が入城して西軍の喉元に小早川が陣取りました。
林道が終わると道は登山道に変わり、切れ落ちた崖の横の道を登って行くことになります。
登山道の脇に「山之神神社」と彫られた石碑が建っており、その上に小高いピークがありましたので寄り道して登ってみます。
広めのピークには祠が祀られており、麓の集落の「山之神」が祀られている場所のようでした。
ここから先はアップダウンの道と何ヶ所かの木段が続きます。
登るのが辛いような急な木段ではないものの、所々に段差の高い場所があるので登りやすい木段の脇の道を登って行きます。
紅葉は、黄色く焼けた葉の木が何本か残り、ほとんどの紅葉は落葉している状態でした。
不思議に感じたのは歩いている途中で甘い香りがする場所があり、花の季節ではないので樹液の香りかと思います。
しかし、一体あの香りは何の木から香っていたのか?
道にまたがっている枝には看板が吊るされ、“ようこそ!松尾山へ 山頂まで240M 頑張れ!”と書かれてありました。
登山道からの景観のない山でしたので、こういう看板は心が和みますね。
この日は年明けの雪が降る前でしたが、枯れ木の上やシダの葉の上に僅かに前夜に降ったらしい雪が残っていました。
地面と直接接していない部分(地熱を受けない部分)にだけ残るわずかな雪がこの冬初めて見た雪でした。
さらに木段は続きますが、一カ所だけ下りの木段があり、せっかく稼いだ高度が下がるのが何となく惜しかった。
階段は登るのに足の疲れを感じますが、下りる時にも膝に負担がかかります。
最後のカーブを曲がりながら登りきると松尾山城の主郭(本丸)のあった広い場所に到着します。
小早川軍は総勢1万5千人居たといいますが、ここには100名程度が限度ではないでしょうか。
他の兵は登山道や麓に分散して戦いの時を待っていたと想像されます。
関ヶ原を見降ろせる場所には三角点。
見晴らしの良い場所なので、ここから合戦の戦況を見極めて大谷軍に襲い掛かったのでしょう。
城跡遺構図を見ると現在居るのが主郭があり山頂でもある真ん中の位置です。
主郭の周囲には7つの曲輪があり、曲輪の遺構は東西400m、南北250mにわたっていることから松尾山城は美濃地方最大級の山城と呼ばれているようです。
また、城跡への道や周辺は切れ落ちた崖になっているため、鎧を付けて刀や槍を持って登るのは困難そうであり、松尾山城の堅固さを感じる所以となる。
「松尾山 小早川秀秋陣処古址」の石碑が残りますが、秀秋自身は西軍を裏切った卑怯者と罵られ、21歳でアルコール中毒で早世しています。
主郭跡の平坦地にどんな山城があったか知る由もありませんが、関ヶ原の戦いでは重要視されていた城として整備されていたと思われます。
城跡は主郭(本丸)を散策しただけなので全貌は分からないものの、土塁や虎口は現在も確認することが出来ました。
「桝形虎口」は、城の出入口になり、城内側にL字型に土塁が設けられています。
虎口をL字型にすることで直線的に侵入出来なくしてあり、南側からの敵の侵入を防御しています。
主郭は四方を土塁で囲んでおり、土が盛り上がったこの土塁は分かりやすい形をしています。
当方は城郭の素人ですので、堀切・空堀・土塁・虎口など案内板などがある場所は分かりますが、何も案内がないと判断に迷うばかりです。
この日は山頂で雨がパラついてきたりして天候に恵まれませんでしたが、山頂からは関ヶ原や山側の陣が見通せます。
ただこの位置にいて家康の「問い鉄砲」が確認出来たかは疑問なものの、麓の兵からの伝達があったと考えると有り得る話になります。
関ヶ原の平野を取り囲む山に積雪はないが、雲の切れ間から見える伊吹山は中腹まで白く見えます。
笹尾山には「石田三成の陣」が見えるものの、松尾山からは人の姿は確認出来るかもしれないが細かな動きは分からないと思います。
小早川秀秋が戦いを仕掛けた「大谷吉継の陣」は松尾山からよく見えます。
秀秋が攻撃を仕掛けた後、松尾山の麓に陣取っていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱・脇坂安治の4武将も東軍に寝返ります。
脇坂安治は戦いの前に家康に東軍に加担する内容の書状を送っており所領安堵。
赤座・小川・朽木の3将は、事前に裏切る意志を明確にしなかったため、改易または減封処分。
「返り忠」で味方についた人間は、現代社会だけでない戦国時代でも信用されることはないということ。
「関ヶ原の戦い」では西軍か東軍かで迷っているところに「問い鉄砲」で西軍に攻撃したとされますが、大谷吉継は初めから秀秋の寝返りを警戒していたともされます。
以前に訪れた「大谷吉継陣跡」からは秀秋の陣取る松尾山の様子が伺え、ここから秀秋軍の監視をしていたとの話にも説得力があります。
当方は元々は城跡ファンではなかったのですが、山登りなどで城跡を見る機会が多くなってきて関心を持ちました。
関ヶ原は建物や住宅は建ってはいるものの都市化されていないため、かつての古戦場の様子が思い浮かぶような一帯かと思います。
登場する戦国武将にも聞き馴染んだ名前が多く、気候の良い時に「関ヶ原の戦い」巡りをしてみるのも面白いかも知れませんね。
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