静かな年明けとなった2025年。初詣は、巳年にちなんで蛇にゆかりのある神社に参拝を致しました。
滋賀県で巳にまつわる神社は、“白蛇”と“大蛇”に分かれ、「白蛇」は神の使いとして、もう一方は「退治された大蛇」として信仰の対象になったようです。
白蛇は、いわゆるアルビノと呼ばれる白化現象を起こした蛇の事とされ、その希少性と神秘性から信仰の対象となってきたとされています。
野洲市にある「兵主大社」は“神様が「白蛇」の姿で亀の背中に乗って、鹿に守られながら琵琶湖を渡ってきたという伝承”がある神社です。
「兵主大社」の御鎮座は718年。
「兵主の神」は、中国の八神信仰に由来する八千矛神を渡来人が奉斎し、但馬国を中心に全国にお祀りしたのが始まりとされます。
兵主神社と名の付く神社は、全国に50社近くあって延喜式神名帳には19社記載されているが、名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみだという。
「兵主」を“つわものぬし”と読むことにより、武将の信仰が厚く、源頼朝・足利尊氏による社殿の造営や寄進があったといいます。
社伝では足利尊氏の寄進とされる「楼門」は、室町末期の1550年に建立されたとされ、江戸期に大修理が行われて江戸後期の様式に変えられているそうです。
神社は一之鳥居から松並木参道へ入り、太鼓橋を渡って二之鳥居から楼門を抜け、参道を歩いて拝殿へと向かう。
楼門を入って右に稲背入彦神と菅原道真公を祀る「己殿神社」があり、兵主神社と同じ718年に鎮座して農地開田の神として崇敬されてきたといいます。
拝殿の横には「平安の庭」という国指定名勝の約22000㎡の大きな庭園には、水の流れを利用した祭祀が行われていたという国内でも数少ないとされる神社庭園がある。
また、境内の奥には兵主神の本地仏(不動明王)を祀る「旧護摩堂」があり、仏教色の痕跡が残る神社ともいえます。
楼門から拝殿までの参道には参拝者の長い列が出来ており、拝殿まで到達するのにかなりの時間を要しました。
兵主大社の御祭神は、主祭神に八千矛神(大国主神)をお祀りし、配祀神に手名椎神・足名椎神をお祀りします。
社伝では第12代天皇の景行天皇が皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市)に八千矛神を祀らせたという。
その後、「兵主大神」と称して近江国・穴太を経て、琵琶湖を渡る形で現在地に遷座したとされます。
景行天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の父にあたり、皇子の稲背入彦命は播磨直(播磨国造)祖とされる皇子です。
行列に並びながら交替で手水舎でお清めをしましたが、兵主大社の手水の吐水口は亀でした。
これは「神が白蛇の姿で亀に乗って琵琶湖を渡って来た」という降臨伝承によるものと思われます。
順番が来て参拝を済ました後は、冷えた体を温めるべく「甘酒」を頂きます。
また、神社の拝殿横では“書き初め”をすることが出来るようになっており、書き初めをした半紙を持ち帰る方が多く見られました。
社殿の南側にある庭園は、国指定の名勝庭園となっており、正月3ヶ日は無料開放です。
庭園は無料ながら誰も入って来ないので、何度も参拝されている方が多いのか、特に庭園には興味がないのか、で貸し切り状態でした。
庭園は池泉廻遊式庭園となっており、池の中心には出島、奥には築山の石組みがあります。
廻遊すると広さを感じる庭園となっていて、春や秋には新緑や紅葉、苔の美しい庭園であろうことが推測できます。
また、木々の間にはメジロの小グループが飛び交っておりましたので、梅や椿の季節に訪れたら花に留まるメジロが見られるかもしれません。
池の横にはツワブキの花。
椿も一部花を咲かせており、花の少ない季節に見られる花に気持ちが和みます。
兵主大社には南北朝時代前期の作と推定される「石造宝塔」があり、市指定文化財になっています。
石造宝塔は、高さが181cmほどあり、相輪・笠・塔身などに大きな欠損は見られず、長い歴史を経て存在してきた美しさを感じます。
兵主大社は「白蛇」にまつわる伝承のある神社でしたが、次の「百々神社(もも神社)」は「退治された大蛇」にまつわる神社になります。
宇多天皇の時代に長命寺川に架かる橋の下に棲む大蛇が、行き来する人を悩ませていたという。
人々はたまたまとおりかかった敦実親王(宇多天皇の第八皇子)に退治を依頼すると、敦実親王は見事に大蛇を退治する。
その後、村人達が橋のそばに蛇の魂を祀ったのがこの神社の始まりとされるといいます。
少し前に日牟礼八幡宮から鶴翼山(八幡山)に登って山を縦走して下山したのが百々神社の社殿の横でした。
その時に百々神社が大蛇を祀る社だと知ったのが、今回の初詣につながりました。
百々神社は北向きの神社で、これは目の前を流れる長命寺川に架かる落合橋から悪人や疫病が入らないように結界を張る道祖神が祀られていたからと伝わります。
また、冬の北風に向かい立つ神社として「風除け」「ぜんそく封じ」の神様として御利益があるとして信仰されてきたといいます。
2025年の干支は「乙巳(きのと・み)」。
「乙」には「木々や植物が地面を突き破っているさま」の意があり、「巳」には蛇のイメージから「再生と変化」の意があるといいます。
前回の「乙巳」の1965年は、「いざなぎ景気」が始まった年だった半面、ベトナム戦争の反戦運動が高まり、中国では「文化大革命」が始まった年。
さて2025年は、どんな一年になりますやら...。
滋賀県で巳にまつわる神社は、“白蛇”と“大蛇”に分かれ、「白蛇」は神の使いとして、もう一方は「退治された大蛇」として信仰の対象になったようです。
白蛇は、いわゆるアルビノと呼ばれる白化現象を起こした蛇の事とされ、その希少性と神秘性から信仰の対象となってきたとされています。
野洲市にある「兵主大社」は“神様が「白蛇」の姿で亀の背中に乗って、鹿に守られながら琵琶湖を渡ってきたという伝承”がある神社です。
「兵主大社」の御鎮座は718年。
「兵主の神」は、中国の八神信仰に由来する八千矛神を渡来人が奉斎し、但馬国を中心に全国にお祀りしたのが始まりとされます。
兵主神社と名の付く神社は、全国に50社近くあって延喜式神名帳には19社記載されているが、名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみだという。
「兵主」を“つわものぬし”と読むことにより、武将の信仰が厚く、源頼朝・足利尊氏による社殿の造営や寄進があったといいます。
社伝では足利尊氏の寄進とされる「楼門」は、室町末期の1550年に建立されたとされ、江戸期に大修理が行われて江戸後期の様式に変えられているそうです。
神社は一之鳥居から松並木参道へ入り、太鼓橋を渡って二之鳥居から楼門を抜け、参道を歩いて拝殿へと向かう。
楼門を入って右に稲背入彦神と菅原道真公を祀る「己殿神社」があり、兵主神社と同じ718年に鎮座して農地開田の神として崇敬されてきたといいます。
拝殿の横には「平安の庭」という国指定名勝の約22000㎡の大きな庭園には、水の流れを利用した祭祀が行われていたという国内でも数少ないとされる神社庭園がある。
また、境内の奥には兵主神の本地仏(不動明王)を祀る「旧護摩堂」があり、仏教色の痕跡が残る神社ともいえます。
楼門から拝殿までの参道には参拝者の長い列が出来ており、拝殿まで到達するのにかなりの時間を要しました。
兵主大社の御祭神は、主祭神に八千矛神(大国主神)をお祀りし、配祀神に手名椎神・足名椎神をお祀りします。
社伝では第12代天皇の景行天皇が皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市)に八千矛神を祀らせたという。
その後、「兵主大神」と称して近江国・穴太を経て、琵琶湖を渡る形で現在地に遷座したとされます。
景行天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の父にあたり、皇子の稲背入彦命は播磨直(播磨国造)祖とされる皇子です。
行列に並びながら交替で手水舎でお清めをしましたが、兵主大社の手水の吐水口は亀でした。
これは「神が白蛇の姿で亀に乗って琵琶湖を渡って来た」という降臨伝承によるものと思われます。
順番が来て参拝を済ました後は、冷えた体を温めるべく「甘酒」を頂きます。
また、神社の拝殿横では“書き初め”をすることが出来るようになっており、書き初めをした半紙を持ち帰る方が多く見られました。
社殿の南側にある庭園は、国指定の名勝庭園となっており、正月3ヶ日は無料開放です。
庭園は無料ながら誰も入って来ないので、何度も参拝されている方が多いのか、特に庭園には興味がないのか、で貸し切り状態でした。
庭園は池泉廻遊式庭園となっており、池の中心には出島、奥には築山の石組みがあります。
廻遊すると広さを感じる庭園となっていて、春や秋には新緑や紅葉、苔の美しい庭園であろうことが推測できます。
また、木々の間にはメジロの小グループが飛び交っておりましたので、梅や椿の季節に訪れたら花に留まるメジロが見られるかもしれません。
池の横にはツワブキの花。
椿も一部花を咲かせており、花の少ない季節に見られる花に気持ちが和みます。
兵主大社には南北朝時代前期の作と推定される「石造宝塔」があり、市指定文化財になっています。
石造宝塔は、高さが181cmほどあり、相輪・笠・塔身などに大きな欠損は見られず、長い歴史を経て存在してきた美しさを感じます。
兵主大社は「白蛇」にまつわる伝承のある神社でしたが、次の「百々神社(もも神社)」は「退治された大蛇」にまつわる神社になります。
宇多天皇の時代に長命寺川に架かる橋の下に棲む大蛇が、行き来する人を悩ませていたという。
人々はたまたまとおりかかった敦実親王(宇多天皇の第八皇子)に退治を依頼すると、敦実親王は見事に大蛇を退治する。
その後、村人達が橋のそばに蛇の魂を祀ったのがこの神社の始まりとされるといいます。
少し前に日牟礼八幡宮から鶴翼山(八幡山)に登って山を縦走して下山したのが百々神社の社殿の横でした。
その時に百々神社が大蛇を祀る社だと知ったのが、今回の初詣につながりました。
百々神社は北向きの神社で、これは目の前を流れる長命寺川に架かる落合橋から悪人や疫病が入らないように結界を張る道祖神が祀られていたからと伝わります。
また、冬の北風に向かい立つ神社として「風除け」「ぜんそく封じ」の神様として御利益があるとして信仰されてきたといいます。
2025年の干支は「乙巳(きのと・み)」。
「乙」には「木々や植物が地面を突き破っているさま」の意があり、「巳」には蛇のイメージから「再生と変化」の意があるといいます。
前回の「乙巳」の1965年は、「いざなぎ景気」が始まった年だった半面、ベトナム戦争の反戦運動が高まり、中国では「文化大革命」が始まった年。
さて2025年は、どんな一年になりますやら...。
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