多賀町は彦根市街地からさほど距離がある自治体ではありませんが、山中へ入ると10以上の廃村や限界集落があるといいます。
山中にある集落への道は酷道といえるような細くて曲がりくねった道になるため、冬季などは暮らしていくのも不便であったと思われますし、降雪時は閉ざされてしまうことも想定されます。
多賀大社の奥宮「調宮神社」から、多賀大社の御神木である「杉坂峠の杉」を経由して進んで行くと、廃村となった保月集落の外れに「保月の地蔵杉」がありました。
杉坂峠までの離合も出来ない細くて曲がりくねった道を戻るのが嫌で進んでしまったのですが、「保月の地蔵杉」が見えてきた時は感動の瞬間でもありました。
地蔵さんが祀られていると思われる小さな祠の両端に鳥居のように立つ2本のスギも見事なれば、祠の後方に立つ合体樹と思われるスギも実に素晴らしい。
環境省の「巨樹・巨大木データベース」には保月に4本のスギが登録されており、最大のスギは幹周5.1m、樹高30mとされ、樹齢は300年以上とされている。
一方で、多賀観光協会では幹周7.3m、樹高37m、樹齢400年とされており、これは測定方法の違いかと思われます。(多賀観光協会では「薩摩杉」と紹介されている)
祠の後方にあるスギが幹周7.3mのスギなのでしょう。
ほぼ同じような太さの2本のスギが根元でひとつになっていますので、長年の成長過程で合体樹になっていったのかと思います。
裏側の山を少し登ってみると巨樹の全容が明らかになります。
光の当たる側から見た地蔵杉は素人目にも木肌が美しいスギで、近在の木材商の中でこの木を知らぬ者はいないといわれる価値の高い銘木として知られているといいます。
同じく山側から祠を眺めると、3本の美しい巨樹に祠が守られていることが分かります。
この祠に祀られているのは「乳地蔵」と呼ばれており、乳の出にくい女性にご利益があるといいますので、近くの集落の方の信仰があったのでしょう。
「保月の地蔵杉」のもう一つの呼称の「薩摩杉」とは何なのかについてですが、関ヶ原の戦いで西軍として戦った島津義弘率いる島津隊の退き口だったため、薩摩の名が付いたといいます。
関ヶ原の戦いで小早川秀秋の寝返りにより総崩れとなった西軍は敗走を始め、島津隊は東軍を敵中突破で切り抜け、このルートを使って湖東~湖南を経て、最後は堺からの海運で薩摩まで退却したとされます。
思いも知らなかった歴史の舞台に遭遇して想像力が高まるばかりですが、東軍の追跡隊に追われながらこの過酷な山道を退却した苦労は察して余りあるものです。
「保月の地蔵杉」と名乗っているのは、江戸時代に入り井伊家が居城を構える彦根藩のお膝元の多賀に、薩摩を称えるような「薩摩杉」と名乗ることは出来なかったからなのでしょう。
しかも、関ヶ原の戦いで井伊直政は島津隊に大けがを負わされていますからなおさら「薩摩」の名では呼べない。
祠の右にあるスギは、3本の中でもっとも力強くて威圧感を感じます。
巨樹を見ていると、ただ巨木というだけではなく、何か見えない力が宿っているように思えてしまいます。
立ち去る前、最後のもう一度「乳地蔵」の祠と3本の御神木と向き合う。
ここまで来るだけでもハンドルを握る手に汗をかくような道でしたが、来た甲斐があったというものです。
多賀の山中には廃村や限界集落が点在していますが、なぜこのような山深い場所に集落があったのか不思議に思います。
生活の糧は、林業や製炭・豊富な山の幸と耕作での自給などかと想像しますが、かつては集落に寺院や小学校や役場などがあったといい、住民の方が暮らしていくには充分な豊かさだったのかと思います。
保月の集落からさらに先へ進んだのですが、途中で通行禁止の看板があり、そこで道を折り返す。
またあの道を戻るのかと不安と億劫さを感じつつ、林道の入口にある芹川の橋までやっとのことで戻ってくる。
林道の入口になる「調宮神社」の鳥居の前にある芹川の橋を越えると、そこから先は県道17号多賀醒井線が通じており、ごく普通の農村風景が広がります。
芹川も上流域にあたるとはいえ、川岸は整備されて穏やかな流れの長閑な風景です。
山中にあった「乳地蔵」の祠や地蔵杉の周辺はあまり荒れておらず、誰か世話をされている方がおられるようでした。
離村しても地元の神様をお守りする信仰心の篤さと故郷への想いが、今も多賀の山村の人々の心の拠り所になっているのだと思います。
山中にある集落への道は酷道といえるような細くて曲がりくねった道になるため、冬季などは暮らしていくのも不便であったと思われますし、降雪時は閉ざされてしまうことも想定されます。
多賀大社の奥宮「調宮神社」から、多賀大社の御神木である「杉坂峠の杉」を経由して進んで行くと、廃村となった保月集落の外れに「保月の地蔵杉」がありました。
杉坂峠までの離合も出来ない細くて曲がりくねった道を戻るのが嫌で進んでしまったのですが、「保月の地蔵杉」が見えてきた時は感動の瞬間でもありました。
地蔵さんが祀られていると思われる小さな祠の両端に鳥居のように立つ2本のスギも見事なれば、祠の後方に立つ合体樹と思われるスギも実に素晴らしい。
環境省の「巨樹・巨大木データベース」には保月に4本のスギが登録されており、最大のスギは幹周5.1m、樹高30mとされ、樹齢は300年以上とされている。
一方で、多賀観光協会では幹周7.3m、樹高37m、樹齢400年とされており、これは測定方法の違いかと思われます。(多賀観光協会では「薩摩杉」と紹介されている)
祠の後方にあるスギが幹周7.3mのスギなのでしょう。
ほぼ同じような太さの2本のスギが根元でひとつになっていますので、長年の成長過程で合体樹になっていったのかと思います。
裏側の山を少し登ってみると巨樹の全容が明らかになります。
光の当たる側から見た地蔵杉は素人目にも木肌が美しいスギで、近在の木材商の中でこの木を知らぬ者はいないといわれる価値の高い銘木として知られているといいます。
同じく山側から祠を眺めると、3本の美しい巨樹に祠が守られていることが分かります。
この祠に祀られているのは「乳地蔵」と呼ばれており、乳の出にくい女性にご利益があるといいますので、近くの集落の方の信仰があったのでしょう。
「保月の地蔵杉」のもう一つの呼称の「薩摩杉」とは何なのかについてですが、関ヶ原の戦いで西軍として戦った島津義弘率いる島津隊の退き口だったため、薩摩の名が付いたといいます。
関ヶ原の戦いで小早川秀秋の寝返りにより総崩れとなった西軍は敗走を始め、島津隊は東軍を敵中突破で切り抜け、このルートを使って湖東~湖南を経て、最後は堺からの海運で薩摩まで退却したとされます。
思いも知らなかった歴史の舞台に遭遇して想像力が高まるばかりですが、東軍の追跡隊に追われながらこの過酷な山道を退却した苦労は察して余りあるものです。
「保月の地蔵杉」と名乗っているのは、江戸時代に入り井伊家が居城を構える彦根藩のお膝元の多賀に、薩摩を称えるような「薩摩杉」と名乗ることは出来なかったからなのでしょう。
しかも、関ヶ原の戦いで井伊直政は島津隊に大けがを負わされていますからなおさら「薩摩」の名では呼べない。
祠の右にあるスギは、3本の中でもっとも力強くて威圧感を感じます。
巨樹を見ていると、ただ巨木というだけではなく、何か見えない力が宿っているように思えてしまいます。
立ち去る前、最後のもう一度「乳地蔵」の祠と3本の御神木と向き合う。
ここまで来るだけでもハンドルを握る手に汗をかくような道でしたが、来た甲斐があったというものです。
多賀の山中には廃村や限界集落が点在していますが、なぜこのような山深い場所に集落があったのか不思議に思います。
生活の糧は、林業や製炭・豊富な山の幸と耕作での自給などかと想像しますが、かつては集落に寺院や小学校や役場などがあったといい、住民の方が暮らしていくには充分な豊かさだったのかと思います。
保月の集落からさらに先へ進んだのですが、途中で通行禁止の看板があり、そこで道を折り返す。
またあの道を戻るのかと不安と億劫さを感じつつ、林道の入口にある芹川の橋までやっとのことで戻ってくる。
林道の入口になる「調宮神社」の鳥居の前にある芹川の橋を越えると、そこから先は県道17号多賀醒井線が通じており、ごく普通の農村風景が広がります。
芹川も上流域にあたるとはいえ、川岸は整備されて穏やかな流れの長閑な風景です。
山中にあった「乳地蔵」の祠や地蔵杉の周辺はあまり荒れておらず、誰か世話をされている方がおられるようでした。
離村しても地元の神様をお守りする信仰心の篤さと故郷への想いが、今も多賀の山村の人々の心の拠り所になっているのだと思います。