僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

【関ヶ原の戦い】を巡る!②~石田三成の笹尾山陣跡と合戦の舞台~

2025-01-24 06:20:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「関ヶ原の戦い」は天下分け目の戦いとして、徳川家康の率いる東軍と石田三成率いる西軍(総大将は大坂城にいた毛利輝元)の戦でした。
東軍約7万、西軍約8万という兵力がぶつかった戦いは、戦いが始まってから6時間弱で東軍の勝利に終わったといい、そこには家康の調略があったといいます。

合戦は、井伊直政隊が福島正則隊を出し抜いて、抜け駆けで宇喜多秀家隊に発砲して合戦の火蓋が切られる。
その場所が「開戦地」の石碑(実際は300m北に移動している)のある場所になり、全てはここから始まってしまいました。



合戦は西軍の石田三成・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継らの健闘で東軍を押し返し、正午頃までは一進一退の攻防だったという。
戦況が変わったのは松尾山に陣取っていた西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って、大谷隊に攻めかかり壊滅させたことにより西軍は総崩れとなったといいます。
この時、南宮山にいた毛利秀元や安国寺恵瓊・長曾我部盛親らは、家康に内通していた吉川秀家に進路を塞がれ参戦することなく終戦となりました。



石田三成は「開戦地」を見降ろす笹尾山に陣を張り、東軍の黒田長政や細川忠興らの猛攻を何度も押し返したが、島左近が負傷して戦線離脱すると押し込まれていまう。
小早川秀秋の裏切りにより大谷隊が壊滅すると、踏み留まったものの隊は壊滅して三成は伊吹山方面へと敗走する。



笹尾山の山頂にある石田三成の陣を見ると、三成ならぬ歴史ファンの姿が見えます。
三成の陣からは、合戦のあった関ヶ原の戦場を広く見渡すことができ、毛利秀元の南宮山や小早川秀秋の松尾山も見渡せます。



笹尾山の三成の陣跡には「矢来」が再現されていて、戦場ムードが満喫できます。
「矢来」は丸太を粗く組んで作った臨時の囲いで、竹矢来・丸太来(馬防柵)とも呼ばれ、敵の侵入を防ぐための囲いです。
三成は陣の正面に矢来を二重にめぐらして、島左近と蒲生郷舎・頼郷を前面と中間に配して、自身は山頂に陣取って指揮したとされます。



「治部少(石田三成)に過ぎたものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と称えられた島左近の陣跡です。
左近は石田軍の前面で戦い、黒田・細川の東軍を押し返したものの、長政の家臣・菅六之助の射撃で負傷して討ち死にしたとも戦場を脱したともいわれている。



それでは三成の陣を目指して笹尾山に登ります。
とはいっても笹尾山は標高200mの低山ですから5分ほどで山頂の三成の陣跡に到着出来ます。



道は最初から最後まで木段登りになりますので、入口近くに置いてある竹の杖を借りて登ります。
ただし、笹尾山には猿が出没するらしいので注意が必要なのと、平坦地に落ちている多数の鹿の糞を踏みそうになるので要注意です。



木段の横には矢来が層になっており、合戦中に矢来を越えて三成の陣に達するのはかなり困難に思え、幾度も三成軍が東軍を押し返した図が想像されます。
馬で登るのは不可能ですし、矢来の間から鉄砲や槍で狙われたら成すすべもないでしょう。



笹尾山の山頂には「史跡 関ヶ原古戦場 石田三成陣地」の石碑が建ち、数々の裏切りや傍観により戦略が成り立たなかった三成の悔しさが滲み出る場所です。
三成は伊吹山から春日村(現在の不岐阜県揖斐川町)に逃れ、新穂峠を迂回して曲谷(米原市)から草野谷(長浜市)を経て古橋(長浜市)に逃げたが捕縛される。

この逃走ルートを地図でみると分かるのですが、あり得ない位の厳しさの山中行軍です。
三成が最後に逃げた捕縛された古橋の「大蛇(おとち)の岩窟」は湖北の己高山の山中にあり、一人では危なくて登れないような場所にあります。
そうまでして逃げた三成は、死を怖れたのではなく、再起を期しての逃亡であり、強靭な意志の強さを感じます。



展望台には音声ガイドがあり、何といっても合戦場が見渡せるのが良い。
「大一大万大吉」は“一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる”の意。
ラグビーの“One for all 、all for one.”にもつながる言葉です。



笹尾山から関ヶ原の合戦場。
田圃地帯の中央辺りに「開戦地」の石碑があります。



近くに見えて遠いのが毛利秀元の陣があった南宮山(正面の山)。
しかし、実際は秀元の陣から関ヶ原方面は見えず、陣地は大垣・愛知方面を向いている。



右に見える丸い山(北天満山)のすぐ後方に見える横長の山が、小早川秀秋が陣取った松尾山。
そこから福島・藤堂・井伊・松平を攻めるはずが、西軍の陣形の片翼になる大谷隊に攻め入ったのだから陣形が崩れるのも当然です。



大谷吉継の陣があったのは、丸い山(北天満山)の右にわずかに横たわって見える山にありました。
吉継は小早川の裏切りは予想していたものの、大谷軍と小早川軍では兵力が10倍違いますので、圧倒的に不利な戦い。
おまけに同じ西軍だった赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治らも裏切りましたのでは勝算はない。



島津義弘隊は「島津の退き口」と呼ばれる退却戦が有名ですが、開戦後は自ら攻撃に出ることはなく、自刃に近づく者は東西両軍に関わらず打ち払ったという。
これでは何のために戦に来たのかよく分かりませんが、西軍が敗走する中、東軍の正面を突破して伊勢街道を南に抜けて脱出したのが「島津の退き口」。

島津軍は「捨て奸」と呼ばれる足止め隊を退路に残して本体を逃げ切らせる戦法で、しんがりを勤める足止め隊は命がけで時間を稼ぐ。
全滅されたとしても次の足止め隊を繰り出すという味方の犠牲(命)で成り立つ壮絶な生き残り策です。



北天満山(三成陣跡から見えていた丸い山)に布陣していたのは西軍の小西行長でした。
小西隊は寺沢広高や戸川通泰らと戦うが攻め込まれて、小早川の裏切りによって総崩れとなった西軍と同様に敗走したといいます。
小西行長はキリシタンのため自害できないため自首して、最後は京都六条河原で光成らとともに処刑されてしまいます。



石田三成の笹尾山陣跡の近くには「関ヶ原の戦いの決戦地」の石碑があり、天下分け目とまで言われたが半日程度で幕を閉じた決戦の場を歴史に刻んでいます。
西軍にいながら戦ったのは石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家・小西行長などごく一部で、後は裏切り・傍観・日和見・専守防衛に終わりました。





関ヶ原の合戦場は底冷えするような寒さでしたが、歴史ファンの姿が各所に見られ、自転車で回られている方もおられました。
実際の合戦は生死をかけた血みどろの戦いですが、400年以上たった今、戦国ロマンの舞台として人気を集めているようです。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【関ヶ原の戦い 】を巡る!①... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山」カテゴリの最新記事