原地区を走る国道433号線の極楽寺・後畑方面への分かれ道の三叉路広場では暴走族といわれる若者たちがドリフト行為を行っているようである。
民家から離れているので騒音の迷惑はないだろうが、ローリング、ドリフト行為は一般通行者にとっては危険で大いに迷惑である。
大野中央通りに架かる中央1号側道橋のたもとに一風変わった建物があった。
喫茶店かと思ったが表示されている看板から事務所に使用されているようである。出入口の高さからみていくと建物が低く内部は半地下室になっているのであろうか。
極楽寺々務所の裏下に水場がありかつて寺の用水をここでまかなっていたところで、以前使用していたケーホー号津田式手押しポンプが残されている。
現在は簡易水道が設置されているので使用されておらず、手押しポンプには柄がなくなっているので使用することはできないようだ。
妹背の滝の雄滝は轟音をたてて水が流れ落ちていたが、雌滝も水量が多く高い岩壁を豪快に滑り落ちている。
常時は水量が少なく白糸のように流れ落ちており、この雌滝を京都下賀茂の社家 永恭は「山姫の たぐる糸とは これならむ 峰よりかけて おつる白糸」(女滝をよめる) と詠っている。
本格的梅雨に入って妹背の滝の雄滝では流量も多くなり、轟音をたてて水が流れ落ちて水飛沫を周辺に漂わせている。
この滝には多くの文人墨客が訪れており、数多くの詩歌を詠っている。京都下賀茂の社家 永恭は「たちよりて しばしむすばむ ひまもなし はげしく散りて 落つる滝つ瀬」(男滝をよめる) と詠っている。
坪井溜池から坪井川までの引水は分水嶺の尾根に折れ曲がったトンネル水路を掘っているのである。
下池の取水樋から石積のトンネル口、トンネルはまず倉重川の源流谷に出てそこから鈍角に折れ曲がって再びトンネルで坪井川の源流谷に至っている。
花崗岩質の山であり人力での掘削のためと、トンネル水路維持管理のためにこのように折れ曲がったトンネルとしたものであろう。
坪井下池(牛池山第一溜池)を築造した後昭和14年に大干ばつに見舞われたために、下池より少し上流側に昭和15年から16年にかけて坪井上池(牛池山第二溜池)が築造された。この上池は昭和57年から平成元年、平成16年から平成18年に現在のように改修されている。
親からこの池のそばに人家があったと聞いたことがあり、昭和40年代前半ごろ探訪してみたら写真の右側上付近の山中に石臼が残っていたのを見たことがある。
極楽寺山にある蛇の池はよく知られているが、坪井の大池(上池・下池)は一部の登山者以外にはあまり知られていない。
佐伯区坪井地区は農業用水が不足していたために、坪井耕地整理組合は後畑地区より水利権を得て坪井下池(牛池山第一溜池)を大正12~13年に築造し、分水嶺の尾根にトンネルを掘って坪井川に流し坪井地区の農業用水とした。
この坪井下池は昭和7年から9年に改修工事が行われており、老朽化のために平成7年頃に現在のように改修された。
この溜池は行政区域の違うところに造り、水利権の無いところに設けた珍しい事例である。
広電宮島線の架線用の電柱で新しく設置された電柱はコンクリートポールとなっているが、所々に鉄骨で作られたものがみられる。
この電柱はレトロな作りであり宮島線の開通時のものとみられ、梁のトラスは後に作られたもののようである。
友和地区にある佐伯保険センター・友和公民館の玄関ポーチの壁面に陶壁レリーフ「躍動」が設置されている。
昭和61年3月に永原にある社会福祉法人「広島ひかり園」の入所者が戸屋野窯で制作されたもののようである。
玖島地区を通っている県道42号線の楢原交差点手前にある道路表示板で宮島への表示がされていた。
手前方面の先は離合も出来ないような道であり、他地域からの観光の車は全くといってよいほど通る道ではないのに親切に宮島への道路表示がしてある。
桂公園の西側斜面で道路沿いに昭和11年に建立された桜尾土地埋立記念の石碑がある。
かつての桜尾山は海に面しており、それより南側は海であった。幕末に桜尾新開が築造されたが明治期には何度も堤防が決壊して、大正15年に岩戸山の土砂で埋め立てて住宅地ができた。岩戸山の土砂を取った跡地に山陽女学園ができたのである。
厳島神社の回廊など各所には奉納された数多くの絵馬がかつて掲額されていたが、現在はその一部が千畳閣に掲げてある。
この絵馬は文化6年(1809)に大坂の絵師である中井藍江が描いた「鍾馗の図」で、中国の官人衣装を着たすごい形相の鍾馗が悪鬼の目をえぐり退治する様子を描いている。