鴨原踏切北交差点上の佐方川堤防道より佐方フラワー通りを見ると都市計画道路畑口寺田線予定地内ての立ち退きが進みつつあるようである。
交差点表示に鴨原踏切北とあるのは佐方フラワー通り一帯は江戸期に葦(アシ・ヨシ)が生い茂った湿地帯で広島藩の鴨原であったようである。弘化3年(1846)1月25~27日に広島藩主が廿日市に逗留して鴨原で鷹狩りを行って鷹、真鶴、真鴨、小鴨、鷺、五位などが狩猟できたようである。
鴨原踏切北交差点上の佐方川堤防道より佐方フラワー通りを見ると都市計画道路畑口寺田線予定地内ての立ち退きが進みつつあるようである。
交差点表示に鴨原踏切北とあるのは佐方フラワー通り一帯は江戸期に葦(アシ・ヨシ)が生い茂った湿地帯で広島藩の鴨原であったようである。弘化3年(1846)1月25~27日に広島藩主が廿日市に逗留して鴨原で鷹狩りを行って鷹、真鶴、真鴨、小鴨、鷺、五位などが狩猟できたようである。
現在JR廿日市駅南口広場周りの整備事業が行われており駅舎に隣接して事業予定地内の立退き代替建物であろうか新築工事が行われている。事業予定地内の立ち退き後に駅前広場が整備されると国道2号線廿日市港から広電廿日市駅、JR廿日市駅と街路廿日市駅通線で通じるようになりそうだ。
佐伯地区の中道集落手前にある針山集落には7~8戸の建物がみられるが現在居住はされていないようにみられ集落はすでに消滅しているようである。針山集落の最奥部にある大きな民家跡には土蔵が2棟あったが左奥の土蔵は樹木などでどうなっているのか見ることができない。
道路側にある土蔵の蔵飾りは家紋であろうか見たことがないような文様で、三引両文様に似ているが上下に切れ目がありなんという文様であろうか。
佐方地区の民家土蔵の蔵飾りで富貴祈願の宝袋を漆喰細工で表しており締め紐は本物の紐を使用してある。小屋根と鬼瓦を模した部分や懸魚の細工が細やかで豪華である。
佐方地区の山陽自動車道高架橋近くに佐方神宮と表示された小さな鳥居が建立されていた。この場所は集落より奥まった所であり不法投棄が行われていたものとみられ市公衆衛生推進協議会・警察署の不法投棄禁止看板が何か所かに立てられていた。
廿日市の銘酒家納喜を醸造していた家納喜酒造は平成12年に廃業された。先日原地区を散策していると庭先に家納喜の磁器製酒樽があった。三升入とあり以前に紹介したものよりは小型のもので丸亀商店時代に使用された家納喜の磁器製酒樽のようである。
広島県会社要覧(昭和15年度版)によると大正7年(1918)10月に合資会社丸亀商店を設立しており、丸亀商店時代から家納喜を醸造していたようで後に家納喜を会社名にしていた。
梅雨の真っ只中の昨日、梅雨太郎さんに会えるかと訪れてみたが・・・
江戸期の地誌には「上平良村石か小屋にあり、石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とあるが、今だかつて雙蛇を見たことはない。以前にも紹介したが岩国市六呂師大藤にもよく似た伝承の梅雨左衛門がある。
国道433号線と後畑・極楽寺道との三叉路でドリフト走行してタイヤを滑らせていた跡が残っている。ドリフト走行は夜な夜な行われているのであろうが人家から離れているのでドリフト走行の騒音問題はなかろうが山中に棲む猿や猪には迷惑であろう。
出雲市佐田町反辺にある多倍神社でこちらも祭神は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する須佐之男命が祀られている。本殿後方には玉垣に囲まれた「首岩」といわれる大岩があり、看板表示では須佐之男命の鬼退治伝承のある地で退治した鬼の首を埋め、この大岩で蓋をしたと伝えられているようである。
古い時代にはこの大岩は信仰対象とされ磐座祭祀が行われその後に社殿が造営されたのではなかろうか。「首岩」脇に境内末社の厳島社と美保社が祀られており右側が厳島社のようである。
先日紹介した須佐神社近くに八雲風穴の案内表示があったので、暑い日でもあり涼を求めて訪れた。この地は古くから岩の隙間から冷気が流れ出していたようで近くの寺院、福泉坊の山号は「清涼山」と称されているようである。
明治期から農産物などの貯蔵庫として利用されていたようで、現在の貯蔵庫地下1階の温度計は10度、地下2階は7度、地下3階は5度を表示しており、露天の貯蔵庫跡の温度計は13.5度となっていた。
一昨日紹介した須佐神社には境外摂社の厳島神社が祀られており、少し離れた所にある厳島神社を参詣した。厳島神社には市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命を祀っているようで、「洗度社」、「祓戸社」と称されているようである。
※ 昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数70万IPのご来訪をして頂き、今月中にはトータル閲覧数350万PVの閲覧をして頂けそうです。老化防止のためにあちこち徘徊して何とか更新している面白くもなく万人向きでない当ブログに多くの方々にご来訪して頂き大いに励みになります。老体鞭打って頑張りますのでお暇なときにご来訪頂ければ幸いです。
昨日紹介した須佐神社に隣接の出雲須佐温泉ゆかり館で貸切り状態の温泉を堪能し、ホールの壁面をみるとかつて出雲大社から宮島までの壮大な鉄道敷設計画(陰陽連絡鉄道)の大社宮島鉄道に関する資料・写真パネルが掲示してあった。
昭和7年(1932)に出雲今市駅から出雲須佐駅まで開通したが出雲須佐以南は着工に至らず、後に一畑電気鉄道立久恵線として営業していたが昭和40年(1965)に廃止されたようである。出雲須佐駅跡の一部は一畑バス須佐車庫となっており、神戸川岸には橋台の跡が残されていた。
秋祭りに奉納される神楽のハイライトである大蛇、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する須佐之男命が祀られている出雲市佐田町の須佐神社を参詣した。
本殿は以前に紹介した出雲大社、神魂神社の本殿と同じ大社造りで島根県の重文に指定されているようである。境内には社殿の長屋のような東末社、西末社があり市杵嶋姫命など八神が祀られているようである。
タグルマは熊手爪で田土を掘り返して草を埋め込んだり根付いていない草を浮かせたりするものでハタウチグルマともいわれていたようである。子供の頃にタグルマを使用したことがあるが、現在でも除草剤を使用しない無農薬栽培などのために製造され使用されているようである。
田植えをしてから1ケ月前後となるが田んぼには除草剤を撒いているのでほとんど草取りは必要ない。倉庫の中にかつて親達が使用していたハッタンズリがあった。ハッタンズリは前後に往復して草をすりつぶして足で埋め込んでいたようで、柄の短いものはしゃがんで使用していたものであろうか。
ハッタンズリを使用すると「ひてい」で8反もの草取りが出来るという画期的な除草具ということでハッタンズリと呼ばれるようになったようである。石見地方ではハッタンドリと言われていたようである。