ハン・ガン著『すべての、白いものたちの』(2018年12月20日河出書房新社発行)を読んだ。
宣伝文句は以下。
チョゴリ、白菜、産着、骨……砕かれた残骸が、白く輝いていた――現代韓国最大の女性作家による最高傑作。崩壊の世紀を進む私たちの、残酷で偉大ないのちの物語。
訳者の斎藤真理子さんの解説によると、(Web河出)、
原タイトルは、表紙に印刷されたハングル一字と同じで、直訳では「白い」という連体活用形。「白い〇」「白い△」と、何を修飾するかは読者にゆだねられ、どんな言葉をそのあとに置いても白くしてしまう装置と見ることもできる、という。
また、私に文学の基礎知識はないが、この小説は散文詩と呼ぶべきではないだろうかと思った。とくに第二章「彼女」では、各節(?)は見開きの右に白紙、左に数行の文が次々40以上続く。
しかし、訳者によれば、小説だという。
『すべての、白いものたちの』は、装置であり回廊であり、読むというよりその中を歩く本であり、通過する本なのだと思う。その意味でこの本は、きわめて詩に似ているけれども、小説である。読む人自身が完成させる小説なのである。
人里離れた家で、女は一人で子を産む。助けを呼ぶこともできず、「しなないでおねがい」という祈りも虚しく、やがて娘は息を引き取る。真っ白な産着は、そのまま白装束となる。
今や現代韓国文学を代表する存在であるハン・ガンは、そうした不在の物語のただ中で育った。もし姉が生きていたら、私はこの世にいなかったのだろうか。そして彼女は自分の魂と体を明け渡して、姉をこの世に呼び込む。
略
断片的な文章や写真を集めたこの本は、死者を悼み、死者とともに生きることを巡って書かれている。
私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)
私は詩というものが好きでない。筋道がないので訳が分からず、全体の雰囲気はなんとなく感じられるのだが、急に話が飛んだりして入り込めない。詩といえば、ときに、スマホに録音した荻原朔太郎の詩の風間杜夫の朗読を聞きながら寝るくらいのものだ。
この本を読んでいると、雪降る街と、赤ん坊で亡くなった姉のイメージが繰り返され、日常生活の匂いは全くせずに、静かで心地よい孤独が漂っている。確かにこれも優れた一つの作品なのだろうと思えてくる。
斎藤真理子
1960年、新潟市生まれ。明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。
1980年より韓国語を学び、1991~92年、韓国の延世大学語学堂へ留学。
2015年、パク・ミンギュ『カステラ』(ヒョン・ジェフンとの共訳、2014年、クレイン)で第1回日本翻訳大賞受賞
以下、ネタバレで白字(訳者の斎藤真理子さんによる(Web河出))
著者の教えに基づいて解釈するなら、1章は現実であるが、2章は、「私」から彼女へと生の譲渡が成就した段階なので、現世であって現世でない。そこでは姉が「私」を生きている、または「私」が姉によって再び生きられている、ともいえる。そして3章では再び叙述の主体が「私」の目に戻る。姉と自分の生が両立することは不可能であると悟った「私」は、ソウルへ戻って、姉に惜別の挨拶を送る儀式を行う。母に贈る衣裳を焼くことが儀式である。そして「私」は、彼女が吐き出した息を思いきり胸に吸い込みながら、再びこの生を生きていくことを誓う。
訳者は、これらは作者の意図であっても、読者を限定する可能性があることから、訳者あとがきには書かなかったという。私も、確かにその通りだと思った。